坪井九右衛門(読み)つぼい・くえもん

朝日日本歴史人物事典 「坪井九右衛門」の解説

坪井九右衛門

没年:文久3.10.28(1863.12.8)
生年:寛政12(1800)
幕末の長州(萩)藩士。名は正裕,字は子寛,号は顔山。佐藤氏に生まれ,大組,坪井家に入る。右筆,相談役,手元役と進み,当時,人材輩出し実権を執りつつあった実務役人の中心人物となる。藩の天保改革に村田清風と共に参画し,清風の失脚後,公内借捌の法で藩士の負債を軽減したが,藩財政は悪化し,引退した。周布政之助の改革後,椋梨藤太の登場により,安政4(1857)年に再度,撫育方と産物方に任ぜられ,志士梅田雲浜らと交渉し産物交易の実現に努めた。周布と競って改革を進める役割をしていたが,通商条約締結のころ,幕政に穏和な姿勢をとって,藩是三大綱で藩の自律を唱える周布に追われた。藩内の政争激化し,幕府寄りの保守派,いわゆる俗論派の中心人物として阿武宰判(萩藩の郷村支配の中間組織)の羽島に流され,文久3(1863)年の京都での8月18日の政変後,藩内の俗論派が興起するなか,萩野山獄で処刑された。

(井上勝生)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「坪井九右衛門」の意味・わかりやすい解説

坪井九右衛門
つぼいくえもん
(1800―1863)

長州藩士。江戸方右筆(ゆうひつ)役、同相談人兼手元役と進んで藩政に参与し、天保(てんぽう)の改革では、村田清風(せいふう)とともに改革の基本方針を協議した。その村田が失脚すると、かわって藩政を握り、政策の転換を図って藩士の負債を軽減させたが、逆に財政の赤字は増大し失脚した。1854年(安政1)村田派の周布政之助(すふまさのすけ)の改革後、ふたたび坪井と椋梨藤太(むくなしとうた)による改革が行われ、上方(かみがた)との交易を開き、産物取立策を実施した。しかし尊攘(そんじょう)運動が高まると、俗論派の領袖(りょうしゅう)とみなされて流罪となり、のち結党強訴(ごうそ)の罪により萩(はぎ)の野山獄(のやまごく)で処刑された。

[吉本一雄]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「坪井九右衛門」の解説

坪井九右衛門 つぼい-くえもん

1800-1863 江戸時代後期の武士
寛政12年生まれ。長門(ながと)(山口県)萩(はぎ)藩士。藩政改革で村田清風とともに活躍。尊攘(そんじょう)運動の激化によって保守派の頭目とみなされ,羽島へ流罪となったのち,文久3年10月28日処刑された。64歳。本姓は佐藤。名は正裕。字(あざな)は子寛。号は顔山。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の坪井九右衛門の言及

【村田清風】より

…商業高利貸資本の抑圧や藩政の復古を政策として掲げ,莫大な藩債を整理し,藩営専売を再編成し,越荷方(倉庫・金融業の役所)の経営を行い,また藩内綱紀の粛清のために評定所を強化した。43年37ヵ年賦皆済仕法で商業資本の犠牲により家臣団を救済しようとし,商人や坪井九右衛門らの反対のために辞任した。55年(安政2)後継者の周布(すふ)政之助に政府へ迎えられたが,直後に病死した。…

※「坪井九右衛門」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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