朝日日本歴史人物事典 「坪井九右衛門」の解説
坪井九右衛門
生年:寛政12(1800)
幕末の長州(萩)藩士。名は正裕,字は子寛,号は顔山。佐藤氏に生まれ,大組,坪井家に入る。右筆,相談役,手元役と進み,当時,人材輩出し実権を執りつつあった実務役人の中心人物となる。藩の天保改革に村田清風と共に参画し,清風の失脚後,公内借捌の法で藩士の負債を軽減したが,藩財政は悪化し,引退した。周布政之助の改革後,椋梨藤太の登場により,安政4(1857)年に再度,撫育方と産物方に任ぜられ,志士梅田雲浜らと交渉し産物交易の実現に努めた。周布と競って改革を進める役割をしていたが,通商条約締結のころ,幕政に穏和な姿勢をとって,藩是三大綱で藩の自律を唱える周布に追われた。藩内の政争が激化し,幕府寄りの保守派,いわゆる俗論派の中心人物として阿武宰判(萩藩の郷村支配の中間組織)の羽島に流され,文久3(1863)年の京都での8月18日の政変後,藩内の俗論派が興起するなか,萩野山獄で処刑された。
(井上勝生)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報