坪井九右衛門
つぼいくえもん
(1800―1863)
長州藩士。江戸方右筆(ゆうひつ)役、同相談人兼手元役と進んで藩政に参与し、天保(てんぽう)の改革では、村田清風(せいふう)とともに改革の基本方針を協議した。その村田が失脚すると、かわって藩政を握り、政策の転換を図って藩士の負債を軽減させたが、逆に財政の赤字は増大し失脚した。1854年(安政1)村田派の周布政之助(すふまさのすけ)の改革後、ふたたび坪井と椋梨藤太(むくなしとうた)による改革が行われ、上方(かみがた)との交易を開き、産物取立策を実施した。しかし尊攘(そんじょう)運動が高まると、俗論派の領袖(りょうしゅう)とみなされて流罪となり、のち結党強訴(ごうそ)の罪により萩(はぎ)の野山獄(のやまごく)で処刑された。
[吉本一雄]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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坪井九右衛門 つぼい-くえもん
1800-1863 江戸時代後期の武士。
寛政12年生まれ。長門(ながと)(山口県)萩(はぎ)藩士。藩政改革で村田清風とともに活躍。尊攘(そんじょう)運動の激化によって保守派の頭目とみなされ,羽島へ流罪となったのち,文久3年10月28日処刑された。64歳。本姓は佐藤。名は正裕。字(あざな)は子寛。号は顔山。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
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世界大百科事典(旧版)内の坪井九右衛門の言及
【村田清風】より
…商業高利貸資本の抑圧や藩政の復古を政策として掲げ,莫大な藩債を整理し,藩営専売を再編成し,越荷方(倉庫・金融業の役所)の経営を行い,また藩内綱紀の粛清のために評定所を強化した。43年37ヵ年賦皆済仕法で商業資本の犠牲により家臣団を救済しようとし,商人や坪井九右衛門らの反対のために辞任した。55年(安政2)後継者の周布(すふ)政之助に政府へ迎えられたが,直後に病死した。…
※「坪井九右衛門」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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