針原
はりわら
「はりはら」ともよばれた。旧常願寺川は現在の常願寺大橋付近から東へ流れ、白岩川と合流し水橋川として富山湾に注いでいた。中世の針原は旧常願寺川左岸下流域に比定され、不湖とも称される湿原が多く形成されていた。鎌倉期の小針原庄は不湖のなかの半乾田地(安定耕地)にあたると思われる。承久二年(一二二〇)一〇月一四日の関東下知状(楓軒文書纂所収進藤文書)によると、新藤内咸定法師孫娘彦熊は「越中国小針原庄内静林寺地頭職」などの代々の下文および手継譲状を鎌倉の彦熊宅で盗難によって紛失している。そのため安貞三年(一二二九)三月六日に再安堵がなされた(「鎌倉将軍家袖判下文」同文書)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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