鈴木寛之助(読み)スズキ カンノスケ

20世紀日本人名事典 「鈴木寛之助」の解説

鈴木 寛之助
スズキ カンノスケ

明治・大正期の海軍軍医少将 海軍軍医学校校長。



生年
明治8年2月6日(1875年)

没年
大正14(1925)年4月23日

出生地
長野県小県郡禰津村(現・東部町)

学歴〔年〕
四高医学部〔明治29年〕卒

学位〔年〕
医学博士〔大正6年〕卒

経歴
明治29年陸軍軍医候補生となり、34年大軍医に進む。43年軍医中監となり、44年渡欧し、大正元年外科学研究のためドイツに留学、3年ベルリンで開催の国際癌研究会議に日本の委員代表として出席した。同年戦乱のため英国に赴き、ロンドン大学ロンドン病院医学校病理部で外科病理・腹部外科を研修し、4年帰国。5年軍医大監となり、海軍軍医学校教官、横須賀海軍病院副院長、第1艦隊軍医長、連合艦隊軍医長を歴任。10年舞鶴海軍病院院長、軍医少将に進み、11年軍医学校校長、13年横須賀海軍病院院長などを務める。日本海軍の軍医教育に貢献し、また郷里の長野にも時々帰り青年の指導をした。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「鈴木寛之助」の解説

鈴木寛之助 すずき-かんのすけ

1875-1925 明治-大正時代軍人
明治8年2月6日生まれ。第四高等学校医学部卒業後,海軍軍医となり,ドイツ留学後,大正5年軍医大監。舞鶴海軍病院院長,海軍軍医学校校長などをつとめた。軍医少将。大正14年4月23日死去。51歳。長野県出身。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

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