よその土地の学校等へ赴き,知識や技能の学習・研究を行うこと。国内での遊学・研修などを含むこともあるが,一般的には外国の学校等での在留,修学をいう。留学の歴史は古く,日本では後述のように遣隋使,遣唐使に始まる。西洋でもギリシア以来,学問修行のための人間の移動は盛んに行われ,また,中世における12~14世紀の大学の成立と発展は,民族や文化の壁を超えて,若者たちの遍歴(放浪学生)と留学に支えられたものだった。さらにルネサンス以降,〈旅はすぐれた学校〉であるとして,旅行や外国留学の教育的意義が強調され,のち,この旅行教育論は17世紀のJ.コメニウス,18世紀のJ.J.ルソーなどへと継承され,教育は外国旅行(たとえばグランド・ツアー)や留学によって完成するという考え方が強まり,留学者も増した。これらは個人としての教養や教育のための留学であったが,19世紀に入ると,国家の近代化のために外国の文物や技術の吸収,導入をめざす,国家的な投資としての留学が盛んとなった。近代化や開発の途上にある諸国から先進諸国への,広義における技術伝習としての留学である。
しかし20世紀の後半には,そうした一方交通的な留学に加えて,途上諸国間・先進諸国間はもちろん,先進諸国から途上諸国への留学もみられ,相互交通的な留学の時代となり,今日における留学は多元化の方向にある。とくに国際化の時代に入った現代において留学は国際理解と親善の増進のために,国際交流の重要な一環として,その促進は世界的にも大きな課題となっている。実際,今世紀の後半は世界の留学生総数も格段の伸びを示し,1950年ころには10万人であったのが,60年24万人,65年30万人,70年50万人,75年84万人,80年代初めには100万人へと,急テンポで増してきている(ユネスコ統計による)。各国も留学生の受入れと送り出しには,積極的な方策をもって臨み,とくに受入れの面では,90年代に入って,アメリカ45万人(1993/94),フランス14万人(1993/94),ドイツ9.6万人(1991/92),イギリス9.6万人(1992/93),日本4.5万人(1991/92)などを数え(ユネスコ,1996統計表による),その他の国々も含めて,組織的な受入れ態勢を整えることに力を注いでいる。
近代日本における外国への留学は幕末に始まり,明治に入ると国家の重要政策の一つとして推進された。1862年(文久2)江戸幕府が初めてオランダへ留学生を送り,次いでロシア,イギリス,フランスの各国へも派遣,他方,長州,薩摩ほかの諸藩もそれぞれ競うようにしてイギリス,フランス,アメリカなど各国へ有為な若者たちを渡航させた。66年(慶応2)には幕府によって留学のための外国渡航も許可された。これら幕末期の留学生はおよそ150人に及んだ。幕末の海外留学は,江戸時代の文武の国内遊学・修行の旅の伝統を背景とし,新たに西洋の軍事技術の吸収,海外情勢の把握(〈夷情探索〉)が目的となった。明治になると,新政府は近代化と富国強兵のために西洋文明の大規模な導入をめざし,御雇外国人の招聘・雇用とともに留学派遣を重視し,70年(明治3)には〈海外留学規則〉を制定し,さらに72年の〈学制〉では条文の3分の1もが留学にあてられた。これは当時の世界の教育法規のなかでもきわめて異例のことである。文部省のほか,工部,兵部,司法の各省や開拓使,地方府県などが盛んに青年たちを欧米へ派遣し,72年(3~5月)当時には留学生数も356人(官費259人,私費97人)に及び,1868-74年の総数はおよそ550人にのぼった。同時期の中国の西洋留学と比べて,日本の場合,皇族,華族,選抜エリートなど上からの層による渡航,〈洋行〉の社会的評価の高さ,などに特色があった。
もっとも初期のこの時代の留学の流行には,玉石混交の弊害と国費のむだづかいとの批判も生まれ,1873年には官費制(当時,1人年間1000円)が廃止され,75年には〈貸費留学生規則〉が制定され,以後,東京開成学校(旧,大学南校),東京医学校(旧,大学東校。ともに東京大学の前身)などの成績優秀な学生たちを主体とするものとなり,また工部大学校,陸・海軍の学校の修了者から選抜された。この時期の留学生は帰国したのち,明治10年代半ば以降,各領域において,御雇外国人に代わって,近代化の指導的な人材となった者が多い。なお留学国は,明治10年代半ばまでは,各分野とも欧米の各国にわたったが,しだいにドイツが多くなり,官費によるドイツ留学は明治後期・大正期の留学の主流となり,アメリカ留学は私費生が多くみられるようになった。文部省関係の留学生は,1882年〈官費海外留学生規則〉によって,東京大学の卒業生を中心とする留学となり,以後85年には,文部省直轄学校の卒業生・教員へと広げられ,さらに1917年以降の高等教育の拡張期には,新設・増設された大学,高校,高専などの教員養成のための留学も盛んに行われた。1882年以後の留学(官費)は,このように,高等教育機関の教員や研究者の留学を主体とするものであり,これは1922年に〈文部省在外研究員規程〉により,在外研究員制度へと切り替えられ,第2次大戦開始の41年に停止するまでつづいた。明治年間の官私費留学生は約2万4700人にのぼるとみられ,また1875-1940年の間の文部省の官費留学生・在外研究員は全体で約3200人を数える。
第2次大戦後は,アメリカのガリオア資金(1949-52),フルブライト交流計画(1953以降)による留学(両方で1983年までに約6900人)のほか,フランス(1950),イギリス(1951),西ドイツ(1952)ほかの外国の政府・機関の奨学金による留学から始まり,日本の国費留学は,1950年に再開された文部省在外研究員制度のほか,学生を対象とするものとしては,アジア諸国等派遣留学生制度(1968),学生国際交流制度(1972),教員養成大学・学部学生海外派遣制度(1973)等があり,他方,初等中等学校教員等の海外研修制度(1959)もある。また,地方公共団体や大学等の諸学校による派遣,内外の財団等による留学,自費留学,など多様な経路による留学が盛んであり,今日,年間の海外への留学者(研修,技術修得者も含む)は約18万人(1996)にのぼり,その大部分は私費である。留学先は84%余が欧米(うち53%が北米,23%がヨーロッパ,8%がオセアニア)であり,アジア地域はわずかに10%程度となっており(1996),明治以来の〈脱亜入欧〉的な対外態度のパターンがいぜんここにも根強くあらわれている。
外国からの留学生の受入れは,1883年に朝鮮留学生40余名の慶応義塾への入学のころから始まり,日清戦争直後の96年,中国からの留学生10余名の来日以降,中国人留学生が増加し,日露戦争後の1906年ころには1万人にものぼった(後出の[中国][朝鮮]で詳述。なお,ベトナムからの留学については〈ドンズー運動〉の項目参照)。中国政府(清朝)の官費生もいたが,多くは私費生であった。文部省は,〈文部省直轄学校外国委托生ニ関スル規程〉(1900)や〈清国人ヲ入学セシムル公私立学校ニ関スル規程〉(1905公布,翌年施行。清国留学生取締規則と通称)などにより,官立学校在学の学生のほか,公・私立の各学校,中国人留学生を対象とする各種の私立学校で修学している留学生に対しても,〈指導〉の名のもとに学業や生活の面での統制・管理を行い,革命派の活動や反日運動を封じ込めようとした。そのため,留学生取締りや日本の侵略政策そのものに対して抗議するために帰国する者も増え,また1915年の二十一ヵ条要求に際しては,在日・帰国留学生がその先頭に立って,抗日運動を展開,ついに37年日中戦争の開始によりほとんどの留学生が帰国した。こうした政治的・文化侵略的な政策としての留学は,〈親日〉化を図るために,その後も朝鮮,台湾,〈満蒙〉等の植民地からの留学生の招致,南方特別留学生制度(1943-44年,大東亜省によって,〈大東亜共栄圏〉の建設に向けて,南方各地の現地指導者を育成するためとして100人余が招かれた)などへとつづいた。
第2次大戦後,日本は国際社会への復帰により,国際親善と発展途上国への教育協力のために,1952年にインドネシア政府派遣の留学生を受け入れ,さらに54年から国費外国人留学制度を発足させた。この制度による来日留学生は約130ヵ国・地域,3万9000人に及ぶ(1996年度末まで)。現在の国費生の種別には,研究留学生(外国の大学卒業者に大学院レベルの教育・研究指導を行う。2ヵ年),学部留学生(同高卒以上,5~7ヵ年),日本語・日本文化研修留学生(1979年より,外国の大学の学部に在学し日本語・日本文化を専攻する者,1ヵ年),教員研修留学生(1980年より,途上国の教員など,1年半),高等専門学校留学生(1982年より,途上国の高校卒業程度の者,3年半~4ヵ年),専修学校留学生(1982年より,途上国の高校卒業程度の者,2年半)などがある。なお,在学段階別(1996年5月現在)では,学部レベル(短大を含む)2万4958人(47.2%),大学院レベル1万9779人(37.4%),高等専門学校546人(1.0%),専修学校(専門課程)7638人(14.4%)となっている。これらの国費生のほかに,外国政府(経費負担)派遣の留学生(中国は1978年開始,マレーシアは1984年開始。そののち,インドネシア,ブラジル,タイ,シンガポールの各国にも拡大した。日本側は,相手国での留学前予備教育,来日後の学校等への配置,医療費補助その他での協力を行っている),そして自費もしくは内外の学校・団体等の奨学金による私費留学生がいる。現在の留学生総数(1996年現在)は5万2921人で,内訳は私費留学生4万3573人,国費留学生8051人,外国政府派遣留学生1297人となっており,出身地域別ではアジア90.6%,北米2.3%,ヨーロッパ2.9%,中南米1.7%,アフリカ1.0%,オセアニア0.9%,中近東0.6%である(1996年5月現在)。日本人学生の留学先の84%が欧米であることと対照的に,アジアからは留学生が68.7%,就学生は84%を占める(1996年の1年間の場合)。留学におけるこのすれ違いの片面交流の流れを変えることも今後の課題の一つであろう。国費生に対する奨学金などの面での待遇は,世界的にも高い水準にあり,日本国際教育協会(1977設置),国際学友会(1934発足)などの世話団体等による助成活動もあり,近年は,大学等の各学校や地域社会単位の留学生に対する援助と交流の動きも活発になり始めている。
だが,留学前における日本および日本の教育についての情報提供,日本語教育の拡大と改善,宿舎等の整備,学位取得の困難さへの対応,帰国後のアフターケアその他,留学生の受入れについてはさまざまの困難な課題が残されている。政府は21世紀に向けて日本への留学生を10万人に増やす計画を発表したが(1983),量の増大・増加とともに,受入れ態勢の質の側面の充実,つまり現代の〈文化学習〉としての留学の実をあげるために,さらに受入れ制度の整備・拡充,日常的なレベルでの日本人および日本の文化・社会との触合いの機会を豊かにすることなどが不可欠である。そのためには政府主導の上からの交流だけでなく,下からの草の根の〈民際交流〉のいっそうの促進が望まれる。留学生との出会いや交わりを通して,留学生が学ぶだけでなく,日本人の側も世界を学び,それを通して日本の教育さらには日本人そのものの国際化への道も開かれる。その意味でも,留学は相互学習のたいせつな契機となるのである。
執筆者:石附 実
日本列島に稲作や金属器,文字や仏教を伝えたのは,おもに朝鮮半島からの渡来者であった。もちろん,日本列島から朝鮮半島へ行って新しい技術を学んできた人々にもあったと想定されるが,古墳時代には渡来人の果たした役割の方がはるかに大きかったと考えられる。ところが6世紀末ころから大和王権は,大陸の文化を積極的に摂取するために,留学生を派遣し始める。記録に残る最初の留学生は,588年百済へ派遣された善信尼ら5人の若い尼で,彼女らは受戒の法を学んで590年に帰国した。これ以後,古代の留学生はすべて男性と推定される。
7世紀初めに久しく中絶していた中国王朝との外交が再開されると,608年(推古16)遣隋使小野妹子に従って,高向玄理(たかむくのくろまろ),僧旻(新漢人旻(いまきのあやひとみん)),南淵請安(みなぶちのしようあん)ら8人の学生・学問僧が隋に渡った。彼らは,二十数年から三十数年の長期間にわたって中国に滞在し,隋が滅び,唐が興ってくる中国の社会を実見して帰国し,大化改新に始まる律令国家の建設に大きな役割を果たした。唐の建国後間もなく帰国した留学生恵日(薬師恵日(くすしえにち))らの進言によって,遣唐使が派遣されることになると,道昭(どうしよう)など多くの学問生・学問僧が遣唐使に従って渡唐した。また7世紀には新羅に留学する僧も多く,行善(ぎようぜん)のように高句麗に留学する僧もあった。しかし701年(大宝1)の遣唐使が派遣されるころから,留学生のほとんどは唐に渡った。とくに717年(養老1)に出発した遣唐使には吉備真備(きびのまきび),阿倍仲麻呂,玄昉(げんぼう),大倭長岡(やまとのながおか)らが随行し,彼らの学業は長安でも高く評価されたという。仲麻呂はついに帰国できなかったが,真備らは大量の書籍や楽器などを持ち帰り,唐の文化の本格的な摂取の段階に入った。学問僧のなかには,733年(天平5)に入唐した栄叡(ようえい),普照(ふしよう)らのように鑑真の来日に尽力したものもあった。
平安時代になると,804年(延暦23)の遣唐使に最澄と空海が随行し,彼らの学んできた天台や密教は,日本的な仏教が生まれてくる母体となった。このころから留学期間も一般に短くなり,最澄,空海も遣唐使とともに帰国している。留学生は一般に,学問生と学問僧に分けられ,短期の留学生は請益生・請益僧と呼ばれた。請益(しようやく)とはさらに教えを請う意で,日本でそれぞれの学業を身につけたものが,その業を深め,疑問を解決するために,短期間留学するものであった。請益の制度は奈良時代にもあったが,平安時代に増加するのは,中国文化の理解がしだいに深まってきたことのあらわれであろう。遣唐使の一行に加わった陰陽師や医師が,請益生を兼ねて勉強してくる場合もあった。このように平安時代には短期の留学生が一般化したが,なかには金剛三昧のように,入唐ののち天竺(インド)まで赴いた僧もあった。
留学の費用は,日本の朝廷から支給されたが,中国滞在中の生活費は一般に中国側から支給され,僧の場合には布施に依存することが多かった。留学生のうち限られたものだけが上京を許されたのは,費用のことも関係していたのかもしれない。留学生のなかには,長安でなく揚州のあたりで勉学するものも多かった。
遣唐使が派遣されている期間には,留学生は遣唐使に従って渡唐したが,838年(承和5),最後の渡唐となった遣唐使に随行した円仁の後は,唐人の商船によって入唐する僧がたくさんあらわれた。円珍もその一人である。このころには,ひんぱんに商船が往来するようになったので,短期間に何回も渡唐した僧もいた。かつて遣唐使に従った留学生が三十数年も中国に滞在したころに比べ,中国ははるかに身近なものになったが,律令国家の形成期にみられた政治的役割や使命感は消失し,平安時代の留学生はほとんどが僧で,しだいに天台山・五台山など聖地巡礼の旅が主流となった。
執筆者:吉田 孝
12世紀,平清盛によって大陸との交渉が再び盛んになり,南宋の新しい文物が次々に伝わってくるようになると,大陸仏教界から新風をもとめてこようという気運が,日本の仏教界のなかに急に芽ばえてきた。こうして12世紀後半以降,1167年(仁安2)から2年間留学した重源(ちようげん),68年から半年間と87年(文治3)から5年間再留学した栄西(えいさい),1171年(承安1)から5年間留学した覚阿,99年(正治1)から13年間留学した俊芿(しゆんじよう),1214年(建保2)から15年間留学した法忍などをはじめとして,各宗派の僧侶たちが相次いで南宋に留学するようになった。このように,彼らは最初は天台宗や律宗など自分たちの宗旨を学んでくるのが第一の目的であった。ところが,大陸仏教界ではすでに禅宗が主流を占めていたために,やがて禅宗各派を学んでくるものが多くなっていった。
そうしたなかで画期的な役割を果たしたのは,再度の留学によって,1191年(建久2)に臨済宗黄竜(おうりよう)派の禅を伝えた栄西である。彼は帰国して博多の聖福寺,次いで鎌倉幕府の絶大な庇護をうけて鎌倉の寿福寺,さらに京都の六波羅に建仁寺を開くなど,おおいに禅宗を唱導したが,栄西が説いた宗旨は,従来の日本天台宗の教義と新しい黄竜派の禅を兼ね合わせたもので,天台宗から完全に独立したものではなかった。しかし,栄西の新宗教活動は当時の仏教界に新鮮な刺激と多大な波紋を及ぼす結果となり,やがて大陸禅にあこがれて,積極的に留学を志すものが続出するようになった。こうして,1223年(貞応2)から5年間留学した道元,35年(嘉禎1)から7年間留学した円爾(えんに)(弁円),49年(建長1)から6年間留学した無本覚心,51年から12年間留学した無関玄悟,52年から14年間留学した無象静照(むしようじようしよう),59年(正元1)から9年間留学した南浦紹明(なんぽしようみよう)などが新しい大陸禅をもとめて,次々に南宋に渡った。彼らは五山の径山(きんざん),霊隠(りんにん),浄慈(じんず)(以上,杭州),育王(いおう)山,天童(以上,明州すなわち寧波)などの諸大寺や官寺の十刹(じつせつ)などを中心に,江南一帯から中原にかけて,各地の名刹に住する禅匠たちを歴訪した。こうして数年から十数年にかけて,禅宗各派の禅を学ぶとともに,禅籍その他多くの文物をもたらして帰国し,それぞれ禅宗各派のもとをひらいて,日本における禅宗および禅文化の発展興隆に大きく貢献した。
やがて元代となったが,弘安の役(1281)のあと20年間ほどは,さすがに日本からの留学僧の数は激減した。しかし,1299年(正安1)に一山一寧(いつさんいちねい)が元の国使として来朝したころから,日中両国間の往来もようやく活況をとりもどすようになり,14世紀初頭に竜山徳見が留学したのをはじめとして,1326年(嘉暦1)の40人,44年(興国5・康永3)の数十人,51年(正平6・観応2)の18人などの集団留学もあって,こののち明初にかけて約70年間ほどは,日本の留学僧の往来がもっとも盛んな時期であった。彼らは各地の名僧をたずねて,熱心に参禅修行をつみ,しかも,46年にわたって留学生活を送った竜山徳見を筆頭に,30余年の約庵徳久,24年の無涯仁浩,23年の椿庭海寿,22年の雪村友梅,21年の復庵宗己,古源邵元,古鏡明千,20年の無我省吾,17年の友山士偲,15年の大拙祖応などのように,きわめて長期間にわたって本格的に大陸禅を学んだものが多かった。その結果,留学僧たちのなかにはその業績を認められて,たとえば,北京に大覚寺を開いた東洲至道,長安の翠微寺に住した雪村友梅,洪州隆興府の兜率寺に住した竜山徳見,秀州嘉興府の円通寺に住した約庵徳久,鄞(ぎん)県の福昌寺に住した椿庭海寿,羅陽の三峰寺に住した大初啓原などのように,大陸の名刹の住持などの要職を勤めたものも少なくない。また,1327年(嘉暦2)に入元した古源邵元(しようげん)などは,五台山を巡拝し,達磨が開いた河南の嵩山少林寺などに赴いて,同寺や山東省の霊現寺にその撰になる碑文をつくるなど,多方面にわたって活躍した人々が多い。このように,留学僧たちは大陸禅を十分に咀嚼して帰国し,日本の禅林の指導者として大いに活躍したので,宗教としての禅はもとより,禅文芸や宋学,書道,印刷,建築などの各分野にわたって果たした役割とその影響はきわめて大きかった。
ところが,明代になると,明国は倭寇対策のために,勘合貿易船のほかは日本からの渡航を禁止してしまった。このため,季潭宗泐(そうろく)などの新しい禅風を学ぶために元末に留学した絶海中津などの特例を除いては,それまでのような留学のための渡航はなくなり,遣明船の正使・副使などの諸役や従僧として明に赴いたものがほとんどであった。しかも,在留期間も遣明船が日本に帰るまでのわずか1,2年間に短期化され,名刹旧跡などの聖地巡礼の旅,すなわち観光上国が主要な目的になってしまった。したがって,こののちも長く日中交渉が続けられ,入明僧の総計もかなりの数に達したにもかかわらず,すでに日本禅宗界の水準もあがっていたという事情もあって,大陸禅の影響は昔日に比べて少ないものになってしまった。
執筆者:今枝 愛真
他国に赴いて異文化摂取を図る留学は,すでに上述されているように古今東西を通じて存在する。中華文明を誇る前近代の中国でも玄奘(げんじよう)らのインド行等はそのきわだったものだが,重要なのはやはり西洋科学文明受容のための近代以降の留学である。清朝政府はアヘン戦争以来の連敗を挽回すべく,洋務すなわち西洋の技術の摂取にのりだすが,その一環として留学生派遣も行われた。1870年代にまずアメリカ,次いでヨーロッパに派遣されるが,その後いったん退潮し,日清戦争敗北後の1896年に日本留学が始まる(洋務運動)。以後,急激に増えて科挙廃止ののちには約1万人を数えるほどのピークをむかえ,多くの留学生が東京を根拠地に辛亥革命を準備したことは周知の事がらである。その後,1937年まで毎年数千人にのぼる公私の留学生が日本留学の足跡を残した。
アメリカ,ヨーロッパ,日本の3地域のうち,もっとも留学生が多かったのは,地の利を得た日本であるが,その場合欧米を追いかけた日本の成果を吸収するという二番せんじのうらみをまぬかれなかった。1932年の統計では,留学生総数3713名中,日本51%,アメリカ,ヨーロッパそれぞれ18,30%の割合である。この年は満州事変の翌年であったから,日本留学生は大挙抗議帰国して激減していたのであって,多い年は80%以上を占めた。1906年施行の清国人留学生取締規則に始まり,15年の二十一ヵ条要求等,日本の露骨な政策に対し,抗議帰国が何度もくりかえされ,37年をもって日本留学は幕をとじる。
ヨーロッパへの留学は清末には少なく,民国初年に200人くらいだから,その後の伸びは大きい(勤工倹学)。アメリカの場合,数的増加より義和団賠償金をもちいた制度に注目すべきである。1908年に始まるその制度は,他の列強の及びえぬもので,清華学校(清華大学)を予備校として設立する周到さとあいまって抜群の効果をあげ,知識人のあいだでのアメリカの評価を圧倒的なものにした。他の列強も20年代に柳の下のドジョウをねらうが,みなうまくいかず,とりわけ日本の場合かえって反発をくうなど,成果をあげるどころではなかった。
留学生の専攻分野の傾向をみると,清末には法政が重視されたが,しだいに工,農等の実科を学ぶものが増えていった。中華人民共和国の成立後,中国敵視政策のもとで中国からの留学先はソ連,東欧だけだったが,中ソ対立後はそれもなくなった。文化大革命をへた現在では日本,アメリカ,西欧に派遣されるようになった。地域ではアメリカの約1万人が最高であり,専攻は工学方面が圧倒的である。台湾の中華民国政府は,アメリカを中心に留学生派遣をつづけ,1953-75年間の合計は2万3000余人にのぼるという。
執筆者:狭間 直樹
近代以降における朝鮮人の主たる留学先は,日本,中国(当初は清国)そしてアメリカであった。朝鮮は1876年2月の日朝修好条規によって開国したが,新文物を吸収すべく81年5月には日本に紳士遊覧団62名を,12月には清国に領選使一行69名を派遣した。遊覧団の随員兪吉濬(ゆきつしゆん),柳定秀は福沢諭吉の慶応義塾に,尹致昊(いんちこう)は中村正直の同人社に残留し,最初の海外留学生となった。福沢と朝鮮との結びつきには,1879年秋日本に密航した開化僧李東仁が関与していた。また,領選使一行には,天津機器製造局で軍事技術を学ぶ者38人が含まれていた。83年9月アメリカに到着した報聘使一行に加わった日本帰りの兪吉濬はアメリカに残って初のアメリカ留学生となった。
朝鮮をめぐる日清両国の拮抗関係は留学生の受入れにも投影していた。朝鮮開化派の重鎮で日本留学の後ろ楯でもあった金玉均は,1882年3月の初来日で福沢と会い,以降多くの留日学生を福沢に託した。日清戦争後における日本の勢力拡大を背景に,朝鮮政府学部(文部省)と慶応義塾との間には留学生委託契約が結ばれた。日露戦争が日本に有利になりつつあった1904年10月には,韓国皇室特派留学生50人が東京府立一中を中心に派遣され,日韓保護条約後の07年3月には学部所管日本国留学生規程が制定され,東京に留学生監督がおかれた。韓末の留日学生は約500人であったが,併合後は1920年1230人,30年3793人,36年7810人,42年2万9427人と増えた。1911年6月,朝鮮総督府は留学生規程を定め,東京に留学生監督をおいて取締りにあたったが,41年には朝鮮奨学会に改組された。これは,解放後は在日朝鮮人の手によって南北の違いを超えた在日朝鮮人子弟のための奨学団体となっている。
1895年5月慶応留学生でつくられた親睦会を嚆矢に,1912年の学友会等さまざまな団体が生まれ,《学之光》などの機関誌も発刊された。1919年留学生が東京で発した二・八独立宣言は本国での三・一独立運動の先駆となるなど,抗日救国運動をになった。中国,アメリカ留学生も独立運動の重要な担い手であった。
解放後の韓国の海外留学生は1973年までで約2万4000人であるが,その留学先は80%がアメリカであった。日本留学は日韓条約(1965)後再開され,やがてアメリカに次ぐ地位を占めるようになった。朝鮮民主主義人民共和国からは,社会主義圏や第三世界に留学しているようであるが,詳細は不明。また日韓条約以降,在日韓国人の祖国往来が本格化するとともに,在日世代には韓国文教部の在日僑胞母国留学制度による留学の道が開かれた。夏休みなどを利用した短期参観団を除いても,1981年までに約2200人が母国の大学などで学んでおり,その後ますます増加している。在日本朝鮮人総連合会系に比べて在日本大韓民国民団系の民族教育は立ち遅れているが,母国留学はそれを補完する役割を果たしている。なお,朝鮮民主主義人民共和国へは短期訪問を除いて留学はまだ認められていない。
執筆者:田中 宏
第三世界における留学の問題は,古い起源をもつイスラム世界の大学(たとえば970年創立のアズハル大学)の歴史的存在を無視しては考えられないが,ここでは近・現代のアフリカを中心に,ヨーロッパ列強の植民地支配下に始まる現象に限定して記述する。エジプトと南アフリカ共和国を除けば,第2次世界大戦以前にアフリカに存在した高等教育機関はごく限られていた。アルジェリアのアルジェ大学(1879創立),シエラレオネのフーラー・ベイ・カレッジ(1827創立)とガーナのアチモタ・カレッジ(1922創立。ここの場合幼稚園から大学まで擁していた),ウガンダのマケレレ大学(1922創立)がそれである。これらの高等教育機関にはミッション・スクールや植民地政府立の普通教育機関の優等生が入学したが,そのなかのごく少数の者がハイ・エリートとして宗主国の高等教育機関で教育を受ける機会を与えられた。その意味で植民地からの留学生はエリート中のエリートだったのである。
ところで,植民地教育は直接統治であれ間接統治であれ,植民地統治機構の担い手を養成するわけで,その場合少数エリートに対しては同化教育を行うのが基本であった。その意味で本国の高等教育機関への被植民者の留学は,植民地の同化教育システムの頂点にほかならなかったのである。フランス領植民地の場合はその典型というべきで,〈原住民〉エリートとは,フランス本国の大学を卒業して,フランス議会の代議士になる者を指していた。〈われらの祖先ゴール人は青い眼をしていた〉という教科書の記述に象徴される徹底した白人優越の同化教育のなかで育ったエリート留学生たちは,多くの場合,黒人で初めてセネガルの代議士になったB.ティアーヌ(1872-1934)のように,同化教育の信奉者となっていった。しかしそこからは,植民地主義を批判する新しい知性もまた生み出された。留学生が宗主国の日常生活のなかで例外なく経験し,認識させられたことは,肌の色による人種差別と民族差別の厚い壁であり,アイデンティティを喪失した〈開化民〉としての自己存在であった。この自己存在は,みずからが被植民者でいるかぎり,また黒人であることが負の価値とされているかぎり,脱出できないアポリアとなる。こうした自己存在への凝視から,A.セゼールやL.S.サンゴール,ディオップなどの留学生の手でネグリチュード運動が起こされ,やがて政治的独立の運動へ結びついていったのである。アフリカ革命の有数の思想家F.ファノンも,ポルトガル領アフリカの独立の指導者で卓越した革命理論家のA.カブラルやA.ネトもまた〈開化民〉としての留学生であった。
イギリス領植民地の場合でも大差はない。エンクルマ失脚後の一時期ガーナの首相になったコフィ・ブシア(1914- )は,オックスフォード大学留学から帰った1942年に最初のアフリカ人地区弁務官補になっている。もっともフランス領の場合と違って,イギリス領ではキリスト教伝道団体が教育のおもな担い手であったから,そのルートでアメリカへ留学する者が少なくなかった。留学生にとってアメリカの黒人教育と運動の影響をまぬかれないのは当然であるが,黒人と白人の協調を唱導しフェルプス・ストークス委員会の唯一のアフリカ人メンバーであったJ.アグリー(1875-1927)が多くの留学生の代表であるとすれば,他方には独立運動の指導者となり,M.M.ガービーの影響を強く受けてパン・アフリカニズムを唱えたK.エンクルマや,ナイジェリアのN.アジキウェらがいる。
アフリカの独立が日程にのぼって以後,各国に高等教育機関がつくられたが,旧宗主国との関係は今もって緊密であり,優劣の構造は変わっていない。大学の自治や学問の自由等の制限も加わって,留学と絡んだ頭脳流出も少なくない。
→植民地教育 →頭脳流出
執筆者:柿沼 秀雄
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
平安初期に編集された『続日本紀(しょくにほんぎ)』(巻33)に、「吉備真備(きびのまきび)使いに従いて唐に入り、留学して業を受く」という一文がみられるように、日本では早くから留学ということばが用いられている。留学とは、文字どおり「留(とど)まり学ぶ」ことであり、現在では外国の学問・芸術・技術・制度などを摂取するために、比較的長期間にわたって外国に在留し、大学等の教育機関や研究所で勉学または研究することをいう。
留学は、その目的からみると、伝統的な先進文化吸収型と、地域研究を主とする異文化理解型とに大別できる。前者は、開発途上国が若いエリートを海外へ派遣し、先進諸国の優れた文化を吸収することを目的とするものである。これに対し、後者は、先進国と開発途上国とを問わず、特定の国や地域の言語・芸術・社会制度などを深く研究し、異文化の理解に資することを目的としている。国際化時代を迎えた今日においては、伝統的な先進文化吸収型とともに、異文化理解型の留学も盛んになっている。
[沖原 豊・二宮 皓]
日本の海外留学の歴史は、607年(推古天皇15)に聖徳太子が小野妹子(いもこ)を遣隋使(けんずいし)として派遣した当時にさかのぼることができる。ついで630年(舒明天皇2)に第一次遣唐使が送られ、爾来(じらい)約300年間中国との交流が盛んに行われた。遣隋使・遣唐使には多くの留学僧や留学生が同行し、隋や唐の進んだ制度・文物を学び、日本の文化の発展に大きな貢献をなした。
しかし、894年(寛平6)遣唐使に任ぜられた菅原道真(すがわらのみちざね)の進言により遣唐使の派遣が廃止されるに及んで、中国との交流も中止され、さらに江戸時代の鎖国政策の徹底に伴って留学の道も閉ざされてしまった。こうした長い空白ののち、幕末に至って、少人数ではあるが、幕府や諸藩による留学生の派遣が再開され、西周助(周(あまね))、伊藤俊輔(しゅんすけ)(博文(ひろぶみ))、森金之丞(有礼(ありのり))、高橋是清(これきよ)らが欧米諸国へ留学した。
明治維新後は、欧米の先進諸国に追い付くために文明開化政策がとられ、明治政府により、積極的に留学生の派遣が行われた。これらの留学生のなかには菊池大麓(だいろく)、西園寺公望(さいおんじきんもち)、津田梅子、東郷平八郎らがおり、帰国後、各分野で指導的立場につき、日本の近代化を推し進めた。海外留学生の管轄は、当初は外務省が行っていたが、1872年(明治5)の「学制」発布後は文部省の所管となった。さらに文部省は翌1873年に「海外留学生規則」を定め、この制度により、昭和に至るまで3000人を超える留学生が海外へ渡航した。しかし、第二次世界大戦の勃発(ぼっぱつ)とともに、こうした留学も中止のやむなきに至った。
第二次世界大戦後、1949年(昭和24)に、アメリカ政府のガリオア・エロア基金によりアメリカ留学が再開され、引き続いて、外国政府による奨学金制度(育英制度)、民間団体による各種基金、文部省(現、文部科学省)の学生交流制度、私費などによる留学が盛んに行われるようになり、留学生数も毎年増加している。
[沖原 豊・二宮 皓]
日本人が海外へ留学する数は、1996年(平成8)の統計によると、留学(3か月以上)が4481人、研修(3か月未満)が3万4110人となっている。留学先は、アメリカ、オーストラリア、ニュージーランド、イギリス、カナダなど英語圏が圧倒的に多く、全体のおよそ80%を占める。
留学の方法としては、日本政府奨学金によるもの、外国政府奨学金によるもの、民間団体奨学金によるもの、私費によるものがあるが、海外への留学としては私費によるものがもっとも多い。
[沖原 豊・二宮 皓]
日本政府(文部科学省)による日本人学生の海外派遣制度としては、「アジア諸国等派遣留学生制度」および「短期留学推進制度」がある。前者は大学院学生等をアジア諸国に2年間留学させる制度(年間17人)である。短期留学推進制度は、学部または大学院学生を年間250人程度派遣する制度であり、学生の相互交流を支援するために、大学間の学生交流協定に基づき1年間海外の大学に学生を派遣する。大学内での選考ののち文部科学省に推薦、留学の際には往復の航空券と滞在費が奨学金として支給される。
また多くの大学にあっては、海外の大学と協定を締結し、1か月から3か月程度の英語学習を中心とするコースに学生を派遣し、取得した単位を大学の単位として認定する語学研修留学プログラムを開発し、国際化時代に即した人材の育成に努力している。
[沖原 豊・二宮 皓]
外国政府の奨学金により海外に留学するプログラムも少なくない。主要なものとして、アメリカのフルブライト奨学金、イギリスのブリティッシュ・カウンシル奨学金、ドイツのドイツ学術交流会(DAAD)奨学金、フランスの政府奨学金などがある。
[沖原 豊・二宮 皓]
民間団体の奨学金を得て海外留学する者は、毎年300~350人に上る。奨学金を授与するおもな民間団体としては、大学・大学院の学生を世界各国へ留学させる国際ロータリー財団ならびに国際文化教育交流財団や、大学・短期大学・高等専門学校の学生をアメリカ、イギリス、ドイツ、フランスへ留学させるサンケイ・スカラシップ、ニューヨークに国際本部を置く非営利の国際教育交流機関アメリカン・フィールド・サービス(AFS)などがある。AFSは高校生を対象に海外への留学および日本への留学生の受け入れを行うプログラムであり、日本では財団法人エイ・エフ・エス日本協会によって推進されている。AFSは日本人高校生を世界各国に1か月から1年派遣し、一般家庭でのホームステイや現地の高校への体験入学などを通じて生徒の国際理解を育て、日本と諸外国の相互理解を促進することを目的とする。
[沖原 豊・二宮 皓]
外国人の日本留学は、1895年(明治28)に渡来した朝鮮留学生(114人)が最初であった。その後、日清(にっしん)・日露戦争後の日本の国際的地位の向上に伴って、中国人留学生が漸増し、1906年(明治39)にはその数が約1万人に達したといわれている。しかし、日中戦争などの影響により、外国人留学生はしだいに減少した。
やがて第二次世界大戦が終わり、1954年度(昭和29)から国費外国人留学生制度が設けられ、世界各国からの留学生招致事業が再開されることとなった。以降、日本政府は多くの留学生を招聘(しょうへい)すべき施策を講じ、それが一因ともなって留学生数は毎年増加し、1983年に初めて1万人を超えた。その後、1987年に2万人、1989年に3万人、さらに1990年に4万人を超え、1992年(平成4)には5万人を超えた。こうした急激な留学生数の増大の背景には、1983年中曽根康弘(なかそねやすひろ)内閣の下に、21世紀初頭までに日本の大学等で10万人以上の留学生を受け入れるという「留学生受入れ10万人計画」が策定され、留学生政策が強力に推進されたことにもよる。しかしその後、アジアの金融・経済危機などの影響により、韓国や中国などアジア諸国からの留学生が帰国するなど留学生異変が起こり、橋本龍太郎内閣はアジアの留学生に一時金を支援するなどの施策を講じた。それでも留学生の急激な減少を食い止めることができず、留学生の統計史上初めてその数の伸びに陰りがみえ、さらに減少期を迎えることとなった。1995年に5万3847人を数えた留学生は、翌1996年には5万2021人、さらに1997年には5万1047人へと減少した。しかしアジアの経済危機も克服されるにつれ、1998年にはふたたび留学生数も増加傾向に転じ、5万1298人まで回復した。文部省は1999年の留学生政策懇談会の提言「知的国際貢献の発展と新たな留学生政策の展開を目指して――ポスト2000年の留学生政策」を受けて、さらなる留学生受け入れ政策を展開することで、改めて留学生10万人計画の戦略を立て直すこととなった。
1999年(平成11)の留学生統計によると、外国人留学生の数は5万5755人で、その出身国・地域は、中国(46.5%)、韓国(21.3%)、台湾(7.3%)、マレーシア(3.6%)、インドネシア(2.2%)、タイ(2%)、アメリカ合衆国(1.9%)、バングラデシュ(1.5%)、ベトナム(1%)、フィリピン(0.9%)、その他(11.8%)となっており、アジアからの留学生が全体の約90%を占めている(中国の留学生数は香港を含む)。留学生の多くは私費留学生であり、国費留学生はわずか8323人である。
外国人留学生を受け入れる制度としては、次のようなものがある。
[沖原 豊・二宮 皓]
国費外国人留学生制度に基づき、外国人留学生に対して日本政府(文部科学省)奨学金が授与されている。この制度によって、1978年(昭和53)から1999年度末までにおよそ130の国・地域から合計約9万9000人の留学生を受け入れている。国費外国人留学生は、次のように大別される。
(1)研究留学生 各国の大学卒業以上の者を対象とし、日本の大学院等で専門分野の研究指導を受けるものであり、期間は日本語の予備教育期間を含めて2年間以内である(大学院に入学すれば奨学金の支給期間は延長される)。
(2)学部留学生 主として東南アジアや中南米の開発途上国の高等学校卒業程度の者を対象とし、日本の大学学部において教育を受けるものであり、期間は日本語予備教育を含めて5年間である。選考では日本語のみならず、教科(世界史、英語、数学など)の試験を受ける。来日後は東京外国語大学、大阪外国語大学で1年間の予備教育を受け、各大学の入学試験の準備をする。
(3)日本語・日本文化研修留学生 主として外国の大学の学部在籍者で、日本語・日本文化を履習中の者を対象とし、1年間日本の大学等で日本語能力および日本事情・日本文化の理解を深める指導を受けるものである(1979年から受け入れ開始)。
(4)教員研修留学生 開発途上国の現職の初等・中等学校教員および教員養成機関の教員や教育行政官等を対象とし、1年半以内、日本の教員養成大学等で教育方法、教科教育、学校経営などの専門科目に関する指導を受けるものである(1980年から受け入れ開始)。
(5)高等専門学校留学生 主としてアジア諸国の高等学校卒業程度の者で、日本の高等専門学校の3年次に編入学して教育を受けるもので、期間は日本語教育を含め3年半である(1982年から受け入れ開始)。高等専門学校を卒業した留学生は、さらに大学の工学部の3年次編入学をすることで勉学を継続する者が少なくない。また、本国において大学の学部を卒業してこのプログラムに応募する者も多い。
(6)専修学校留学生 主としてアジア・太平洋地域の高等学校卒業程度の者を対象とし、日本の専修学校の専門課程で教育を受けるもので、期間は日本語教育を含め2年半である(1982年から受け入れ開始)。
これら国費外国人留学生の待遇は年々改善され、諸外国と比較しても遜色(そんしょく)のない奨学金制度となっている(2000年度、研究留学生で月額18万5500円、学部留学生で14万2500円支給)。さらに往復渡航旅費、渡日一時金、研究旅費、宿舎補助金、医療費補助も与えられている。
[沖原 豊・二宮 皓]
私費(自費)による留学生は、1999年(平成11)で4万5439人、外国政府派遣による私費留学生が1542人となっている。外国政府派遣留学生は諸外国が人材育成を目的として、当該政府の経費負担により派遣される留学生であるが、事務上は私費留学生に含まれる。現在では、中国、マレーシア、インドネシア、タイ、シンガポール、アラブ首長国連邦、クウェートおよびウズベキスタンから政府派遣留学生を受け入れている。マレーシアは従来イギリスに多くの留学生を派遣してきたが、留学生に対する授業料の増額などイギリス政府の政策転換の影響もあり、「ルック・イースト政策」(東方重視政策)の下に日本に多くの留学生を派遣するという方針転換がなされている。また、私費留学生に対する日本の各種団体・財団による奨学金などの支援が拡充され、多くの私費留学生がその恩恵にあずかっている。おもなものとして、ロータリー米山(よねやま)記念奨学会、とうきゅう外来留学生奨学財団、国際文化教育交流財団(現、経団連国際文化教育交流財団)、サトー国際奨学財団などがあげられる。これらのほか、各都道府県の外郭団体である国際交流団体による私費留学生奨学金も少なくないし、大学にあっても職員の寄付によって留学生に奨学金を支給する活動を行っている学校もある。
私費留学生のなかには財団法人日本国際教育協会(現、学生支援機構(JASSO(ジャッソ)))が実施している短期留学推進制度による留学生も含まれている。この制度は日本の国公私立大学が協定を締結している外国大学の在籍学生を、海外の大学に在籍させたまま、おおむね6か月以上1年以内交換留学生として受け入れるものである。受け入れにあたっては、渡航費(航空券)、奨学金(月額8万円)および渡日一時金(2万5000円)が支給され、年間2000人近い留学生がこの事業で招聘されている。日本の大学はこの奨学金制度を利用して、海外の大学と授業料の相互徴収や単位互換制度などを柱とする学生交流協定を締結し、学生の相互交流を積極的に行っている。授業料の相互徴収とは、留学先の大学の授業料は免除されるが、それぞれ在籍する大学には授業料を納める制度である。1997年(平成9)でみると日本の大学が締結している交流協定数は4946件である。一方、アジア・太平洋地域の大学間における学生・教育者・研究者の交流促進を目的とした任意団体アジア太平洋大学交流機構University Mobility in Asia and the Pacific(UMAP)が1991年(平成3)に組織されて以降、単位互換の新たな方式が開発され、より効率的な学生交流が行われつつある。UMAPは加盟国29か国、国際事務局は日本に設置されている。
また、日本国際教育協会の事業の一つとして1998年(平成10)から「学習奨励費」(学業成績優秀で生活困窮の者が対象)が支給されるようになり、多くの私費留学生が勉学に専心できるようになった。その額は学部生で月額4万9000円、大学院生で7万円、年間およそ9600人に支給されている(2000年時点)。
私費留学生は学費を自弁しなくてはならないため、必然的にアルバイトをすることになるが、従来は1日4時間以内という規制があったため、土曜日や日曜日に長時間就労することができなかった。しかしその後、入国管理局(現、出入国在留管理庁)の指導で、週に28時間までは就労することが許されるようになり弾力化が図られてきたが、もちろん風俗営業等の就労は認められていない。また日本の大学を卒業・修了した留学生がさらに企業等での研修のため、日本に2年間まで在留して働くことができるようになった。留学生の就労問題は、大学受験の準備も行う日本語学校で学ぶ就学生の就労が社会問題化したことがあるが、全体的にはしだいに改善されつつあるといえよう。
いずれにしても、経済的な困難を抱える私費留学生に対するこれら支援や施策の弾力化によって、60%近くの私費留学生がなんらかの財政支援を受けたり、ほとんどの留学生が勉学の経費を日本で得ることが可能となったことは注目に値する。留学生の就労が認められていないアメリカと比較しても、日本の留学生政策はこの点でたいへん大きな特色をもつものといえる。日本に留学した場合、1年を経ればこうした各種奨学金の申請が可能であり、留学生が安心して勉学に励むことができるシステムが整いつつある。
[沖原 豊・二宮 皓]
脱亜入欧以来の近代における留学にみられる、欧米を中心とした日本の留学文化は今日でも変化していない。さらに国際化・グローバル化が進むなかで、英語の果たす役割が多くなるとともに、ますます英語圏への留学を希望するものが増大しているのも事実である。エラスムス計画(The Europian Community Action Scheme for the Mobility of University Student=ERASMUS)による留学生交流を推進しているEU諸国にあってもこの傾向は同様である。日本の留学生派遣の課題の一つは、80%以上もの留学生が欧米を留学先に選ぶという事実を踏まえながら、いかにしてアジア・太平洋地域への留学生派遣を増やすかにある。アジアを理解できる日本人を多く育成することは、今後の日本の将来にとってきわめて重要な課題である。
また、日本を訪れる留学生の90%以上がアジアからの留学生であることから、アジア以外の諸国からの留学生の受け入れをどのように促進するかも課題の一つとなっている。さらに「留学生受入れ10万人計画」を背景として、留学生数を倍増させるための各種の施策が実施されるとともに、留学生を受け入れることが大学の教育研究にとってどれほど重要であるかを日本の大学が認識し、積極的な留学生受け入れ態勢を整備しなくてはならないであろう。国際社会に通用し、世界で信頼される大学であるためには、世界中からの多くの留学生が学ぶ大学であるという評価が必要である。大学評価においても留学生の受け入れは重要な指標の一つとなっている。
前述した留学生政策懇談会の提言「知的国際貢献の発展と新たな留学生政策の展開を目指して――ポスト2000年の留学生政策」(1999)は、「留学生受入れ10万人計画」の実現のためには、以下のような施策が必要であるとしている。
(1)大学の国際競争力の強化を図るため、(a)魅力ある教育プログラムの開発と普及、(b)留学生のハンディキャップ等への配慮、(c)受け入れ態勢の整備と自己評価の改善、などを行う。
(2)世界に開かれた留学生制度の構築。
(3)留学生支援の充実のため、官民一体となった施策を展開すること。
この留学生政策懇談会の提言は、留学を「知的国際貢献」と位置づけ、「留学生を受け入れる」という視座から一歩進めて「留学生を惹(ひ)きつける」という視点を提起している。大学は地域社会の協力を得ながら、自らの教育や研究の水準を高め、また留学生のニーズに真剣にこたえることのできる教育体制を構築し、世界から多くの優秀な留学生が学びにくるような大学づくりを考えなくてはならない。21世紀の大学が生き残るためには、日本人学生のみならず留学生のニーズにどのようにこたえるか、その戦略と精神を打ち立てなければならない。
[二宮 皓]
『大村喜吉著『日本の留学生』(1967・早川書房)』▽『永井道雄他著『アジア留学生と日本』(1973・日本放送出版協会)』▽『文部省学術国際局編・刊『21世紀への留学生政策』(1986)』▽『権藤與志夫編『世界の留学』(1991・東信堂)』▽『ICS国際文化教育センター編『アメリカ留学年鑑 96―97』(1995・三修社)』▽『ICS国際文化教育センター編『フランス留学』(1995・三修社)』▽『毎日コミュニケーションズ編・刊『毎日留学年鑑』』▽『留学生政策懇談会編・刊『知的国際貢献の発展と新たな留学生政策の展開を目指して――ポスト2000年の留学生政策』(1999)』▽『石附実著『近代日本の海外留学史』(中公文庫)』
『広辞苑』は留学を「よその土地,特に外国に在留して勉強すること」と定義するが,「特に外国」との言及は重要である。鹿児島から北海道の大学へ入れば,「よその土地」で学ぶ条件を満たすにもかかわらず,通常「留学」と言わないのはなぜか。その重要な前提は,多くの場合世界は言語や文化を共有する国家単位で区分され,かつ時代ごと,国家間の学問水準が隔たることである。1世紀余り前,国の独立と発展を企図した日本は,近代的な知識の獲得を不可欠と判断し,西欧諸国にそれを求めた。他から直に学んで学問水準のギャップを埋めようとの政策が,留学を際立たせたのである。留学者は,母国とは異なる言語,歴史文化上の環境下で学び,研究した。しかも当時の留学は高額を要した。明治30年代,イギリス留学で夏目漱石が受けた年間の官費は,当時の小学校教員の初任給15年分であった。留学は威信を伴い,第2次世界大戦前の帝大教授への昇進は2~3年の欧米留学をほぼ条件とした。留学が「よその土地」での学びと区別された所以である。以上の事情は,今日まで,類似の国には多少とも当てはまるであろう。
今日,「先進国」は増加しつつある。たとえば,OECD加盟国とその主要パートナーは世界に分散し,加盟34ヵ国の一人当たりの国民総生産額は,数例を除き,日本並みかそれ以上である。アメリカ合衆国での学費が高騰した2015年現在でも,州立の研究大学(アメリカ)の年間の必要経費は,日本の小学校教諭の初任給1年分,私立の研究大学も2年分で賄える。留学可能な階層は格段に拡大した。加えて経済のグローバル化は国境を越えて働ける人材を不可欠とする一方,国民国家を相対的に弱体化させた。結果,21世紀の留学は様変わりした。2014年現在,世界から最大数が留学する合衆国では,そのうち約20万人(20%強)がビジネス・経営学を専攻するが,この分野は1919年には学士号取得者総数がわずか百数十人を数えたのみであった。20万人弱の工学が続く一方で,法学専攻の留学生は1万4000人にすぎない。就職に有利な専攻が圧倒的で,国の存亡を背負う悲壮な決意の留学は大方過去のものとなった。
20世紀の前半には,第1次世界大戦の反省を契機に,ドイツのDAAD,イギリスのブリティッシュ・カウンシルおよび合衆国のフルブライト奨学金のような,国際理解を含めた学術交流の制度も設立された。にもかかわらず,WTOによる大学教育の貿易交渉の対象化は留学を商品化し,公的資金の減少に直面した先進諸国の国立・公立大学が,留学生からの授業料を収入源と見なし始め,世界の大学のランキングの公表と相まって,留学の商業化を加速している。結果,かつては意義のあった私費と国費(公費)留学の区別は,受入れ大学側には意味を失った。いずれの形でも大学の収入源となる留学生と,奨学金や給与として大学側の持出しを伴う留学生との区別の方が,真の関心事となったのである。
以上の傾向にもかかわらず,国民国家と国民文化とが存続し続けるとすれば,留学は今後も長く,世界の大学教育に深刻な問題を提起するであろう。それらに首尾よく対処できるか否かに,大学の,そして人類の未来さえ幾分かは掛かっている。
著者: 立川明
[日本]
日本における留学のルーツは7世紀に遡る。政府が派遣した使節である遣隋使(600年頃~614年)および遣唐使(630~894年)に,学生や学問僧らを同行させたことが始まりとされる。「留学生」という言葉も遣唐使の時代に生まれている。次に,政府派遣による留学が行われたのは幕末期である。江戸幕府や薩長をはじめとする各藩は,海外の先進的な知識や技術を学ぶべく,有望な人材を海外へ送り出している。この時代の留学生には,伊藤博文や榎本武揚など明治政府で活躍した者も多い。
明治期になると,国策として留学を奨励するようになる。1869年(明治2)には官費による新政府派遣第1号留学生が送り出されている。当初は富国強兵と殖産興業という国策に即した分野が中心であったが,徐々に芸術・文化等の分野の留学が行われるようになった。この時代,官費で派遣された留学生としては夏目漱石や森鷗外などがいる。また,内村鑑三や新渡戸稲造など私費で留学する者もあった。1871年には津田梅子ら5名が岩倉使節団とともに渡米し,最初の女子留学生となった。
日本で学ぶ留学生も徐々に増え,清,インド,アメリカ,フィリピンなどからの留学生が日本の教育機関で学んでいた。こうした状況を踏まえ,1901年には留学生の受入れ体制整備を趣旨とする文部省令が公布されている。本格的な外国人留学生受入れ制度が整備されたのは,第2次世界大戦後のことである。1954年(昭和29)に国費外国人留学生制度が整備されている。研究留学生および学部留学生の受入れからスタートした制度は,対象となる学校種,留学の目的,期間などにおいて,そのプログラムを多様化させながら発展している。
1983年には,当時の中曾根内閣が「留学生10万人計画」を提言した。21世紀までにフランス並みの留学生を受け入れることを掲げたこの計画は,数値目標が大きなインパクトとなり,その後の留学生政策に大きな影響を与えた。当初,困難であると思われていた目標達成は,アジアからの留学生の急増を受け,2003年(平成15)に実現している。さらに2008年,教育再生会議やアジア・ゲートウェイ戦略会議における議論を経て,文部科学省は「留学生30万人計画」を発表し,質・量両面において拡充を図る方針を示した。2016年現在,日本の大学で学ぶ外国人留学生数は23万9287人。出身国は中国,ヴェトナム,ネパール,韓国などアジア諸国が多い(日本学生支援機構「平成28年度外国人留学生在籍状況調査」)。
派遣留学については,これまで,「国費による海外派遣制度」(1968年~)や「長期留学生派遣制度」(2004年~)などが実施されてきているが,政策では受入れについての議論が中心であった。しかし,近年は日本人学生の内向き志向を危惧する向きもあり,「グローバル人材育成推進事業」や「官民協働海外留学支援制度」など,派遣推進の政策が打ち出されている。日本学生支援機構「協定等に基づく日本人学生留学状況調査」によると,2015年度の日本人学生の海外留学者数は8万4456人(前年度比3237人増)。留学先はアメリカ,カナダ,オーストラリアが多い。
著者: 渡邊あや
[ヨーロッパ]
ヨーロッパにおいてはヨーロッパの統合という視点から,EU域内での学生・教員の積極的な移動の促進と,それを支える共通の行動基準の開発がメインテーマとなっている。その試みは,EUの枠組みを超えて,ヨーロッパ全体へと拡大しつつある。留学制度の充実もその一環を担っている。この点について大きく三つのトピックから見ていく。
[ヨーロッパ共通の単位制度] 移動を促進するためには,学位や職業資格の相互承認が必要であることは言うまでもない。1988年にディプローム(ディプロマ)の相互承認により,高等教育の領域における教員,学生,研究者の移動を促進することを目的とする「少なくとも3年間継続する専門の教育および訓練の修了に際して授与される高等教育のディプロームの承認に関する理事会指令」が一般的制度として制定された。さらに1989年から,ECTS(European Credit Transfer System)と呼ばれるヨーロッパ共通の単位互換制度が開発され,同年から導入されている。ECTSにより,出身国以外の加盟国で取得した単位が,自国でのそれに算入されることが可能となっている。
[エラスムス・プログラム] エラスムス・プログラムは,域内での大学生の移動を促進することを目的として,1988年から実施されている行動計画である。この計画の名称は,ルネサンス期を代表する人文主義者で,ヨーロッパ各地を遍歴したエラスムスの名にちなんでいる。このなかで,学術研究などの幅広い分野で欧州内の交流,交換プロジェクトが行われている。各国の学生はそれぞれの在籍大学の在学期間中の一定の時期,欧州の協定先大学で学び,単位を取得することができる。同時に教職員の交流も行われている。
2009/10年度に,21万3266人がエラスムス奨学金により他国の高等教育機関で学んでいる。学生の平滞在期間は約6ヵ月で,奨学金の支給平額は月額254ユーロとなっている。送り出し数が多い国は,上からスペイン,フランス,ドイツ,イタリア,ポーランドの順である。一方,受入れ数でもスペインがトップ,フランスの2位も変わらず,以下,イギリス,ドイツ,イタリアとなっている。学習コースのレベルでは,第1サイクル(学士)が7割弱を占めている。ただし,博士課程での移動は1%にすぎない。移動する学生の平年齢は22.6歳である。男女の比率でいうと女子が約6割である。学生を送り出している高等教育機関数は2853となっている。
[ボローニャ・プロセス] ボローニャ・プロセスは,参加各国の教育関係大臣による教育関係大臣会議での合意にもとづき,各国政府により推進されている。EU加盟国にとどまらず,広くヨーロッパ47ヵ国が参加して,ヨーロッパの大学の間を自由に移動でき,ヨーロッパのどこの大学で学んでも共通の学位,資格を得られる欧州高等教育圏(EHEA)を構築しようというものである。目標として「2020年までに学生の移動を20%とする」ことがベンチマークとして設定されている。
[今後の課題] 移動の障害となっている要因として,経済的な問題がまず挙げられる。そのほか,移動により学業が遅滞するのではないかという懸念,外国の大学で学んだ成果の自国での承認の問題,外国語のスキルなどが挙げられている。外国語のスキルについて言えば,小国の場合,大国の言語を習得しているケースが多い。2014年からの欧州委員会の新しい教育計画は「すべての人々のためのエラスムス」(Erasmus for All)という名称で,学生のいっそうの移動の促進が目指されている。今後,ラーニング・アウトカムズ(学習成果)を基礎に置いたヨーロッパ全体に共通する「資格枠組み」(EQF)とそれに対応する国レベルの資格枠組みの開発が課題である。
著者: 木戸裕
[諸外国における留学]
以下では,主として2017年版のUNESCO「世界の(大学)留学生の流れ」(Global Flow of Tertiary-Level Students)に記載されたデータをもとに,日本とヨーロッパを除く主要国の留学の現状を,受入れ・送り出し,政策と留学の将来の順に概観する。アジアの留学で留学生の受入れと送り出し人数の大きな9ヵ国を取り上げると,受入れ数の合計は70万,対して送り出し人数は先進国を主に142万と,完全な出超である。中でも80万を送り出す中国はその典型で,唯一シンガポールが送り出しの2倍を超える留学生を受け入れている。受入れ相手国のトップはいずれもアジアの近隣国で,中でも中国が7万の韓国人学生を,韓国が3万4500の中国人学生を受け入れているのが目立つ。9ヵ国の送り出し先を見ると,アメリカ合衆国が1位の国が5ヵ国(中国,インド,韓国,ヴェトナム,タイ),オーストラリアとイギリスが1位の国が2ヵ国ずつ(シンガポール,インドネシアおよびマレーシア,香港)で,アングロ・アメリカン諸国が他を圧倒している。
中東諸国の留学の諸国は留学先により3分割できる。第1はイスラーム諸国へ留学生の大多数を送るバーレーン,パレスティナ,イラクである。第2は西欧が主だがイスラーム諸国へも多数を送るイラン,クウェート,レバノン,サウジアラビアである。第3は欧米諸国中心のイスラエル,トルコ,アラブ首長国連邦である。宗教と連動した政治情勢が留学先を強く規定している。アフリカの留学南部のボツワナ,ナミビア,スワジランド,レソト,ジンバブエでは大学先進国の南アフリカへ留学生が集中する。その南アフリカは合衆国とイギリスへ,また北アフリカのアルジェリア,マダガスカル,モロッコ,セネガル,チュニジア等は多数を旧宗主国フランスへと送る。中南米の留学ブラジル,コロンビア,メキシコ,ヴェネズエラは旧宗主国への名残りは残しつつも合衆国に,アルゼンチンとペルーは旧宗主国に,ボリヴィアはキューバに最大数を留学させている。旧ソヴィエト連邦諸国のおもな留学先はロシアだが,トルクメニスタンでは他の旧連邦諸国,ウクライナでは欧州諸国がロシアに迫っている。
アングロ・アメリカン諸国は留学生の輸入超過の国である。オーストラリアの留学とニュージーランドの留学では,受入れ数と送り出し数との比はそれぞれ22対1,9対1である。両国は大学教育の商品価値を法的にも保証し,英語が公用語のイギリス連邦の利点も生かしながら,中国とインド,東南アジア等から多数の留学生を引きつけている。同じく14対1で輸入超過のアメリカ合衆国の留学は,中国,インド,韓国,サウジアラビア,カナダ,日本,ヴェトナム,メキシコ,ブラジル,トルコ,イギリス,ドイツ,フランス等世界中から計84万人の留学生を迎えている。合衆国が提供する国費留学生の枠は,たとえばドイツDAADの10分の1に過ぎないにもかかわらず,膨大な数の留学生を引きつける理由には,大学ランキングで多くの大学が上位を占めること,研究設備・図書館の充実度が高いこと,外国人大学院生にもTA(ティーチング・アシスタント)やRA(リサーチ・アシスタント),Fellowship(フェローシップ)といった経済援助を公正な競争で与えること,大学の公用語が英語であること等が考えられる。
シンガポールとマレーシア,アラブ首長国連邦等は近い将来,かつての宗主国や西欧諸国の遺産を活用し,また英米のブランド校を誘致して,オーストラリアを凌駕する本格的な受入れ国となる可能性がある。一方,中東やアジアにおいて,大学中心の新たな文化変容に強力な抵抗が生じることも予想できる。現代が経済の仕組み以上に知の時代であれば,アジアや中東,アフリカの時代の到来にとって,留学事情は重要な予兆かつ帰結ともなるはずである。
著者: 立川明
[日本]◎井上雍雄『教育交流論序説』玉川大学出版部,1994.
[ヨーロッパ]◎木戸裕「ヨーロッパ統合をめざした高等教育の国際連携―ボローニャ・プロセスを中心として」,日本比較教育学会『比較教育学研究』48号,2014.
[諸外国]◎権藤与志夫編『世界の留学』東信堂,1991.
参考文献: 寺倉憲一「留学生受け入れの意義」『レファレンス』2009.3.
参考文献: 杉村美紀「アジアにおける留学生政策と留学生移動」『アジア研究』LIV,4,2008.10.
出典 平凡社「大学事典」大学事典について 情報
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…太平洋戦争のさなかの1943年2月,日本の軍部,大東亜省,文部省間で協議された〈南方特別留学生育成事業〉という政令により制定された,東南アジア諸国から日本への留学生制度。その趣旨は南方諸地域より選抜された有為な青少年を〈我国ニ留学セシメ,(中略)我学芸及ビ実務ヲ習得セシムルト共ニ我国民性ノ真髄ニ触レシメ,以テ帰国後ハ原住民ヲ率ヒ,大東亜共栄圏建設ニ協力邁進スベキ人材ヲ育成スル〉ことであった。…
※「留学」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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