朝日日本歴史人物事典 「長岡監物」の解説
長岡監物
生年:文化10.2.11(1813.3.13)
幕末の肥後藩(熊本県)家老。本姓米田,名は是容,通称源三郎。父は是睦。天保3(1832)年,20歳で国老を継ぎ,監物を襲名。禄1万5000石。横井小楠らと共に藩校時習館の改革に当たる一方,実学党と呼ばれる藩政改革派の中心となる。しかし弘化4(1847)年松井氏を中心とする保守派学校党との抗争に敗れ,家老を辞職。嘉永6(1853)年,藩の浦賀警備隊長として再起用され,江戸湾の防備に当たり在江戸諸藩中重きをなした。安政2(1855)年,開国論に転じた小楠と決別し,以後は実学党坪井派を率いた。明治天皇の侍従・子爵米田虎雄は次男。<参考文献>田尻稲里「故長岡監物氏の事蹟」(『史談会速記録』341)
(三澤純)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報