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長岡監物 ながおか けんもつ

美術人名辞典の解説

長岡監物

是容。肥後藩の老職。国政に任じ王事に尽力す。安政6年(1859)歿、47才。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

長岡監物 ながおか-けんもつ

1813-1859 江戸時代後期の武士。
文化10年2月11日生まれ。肥後熊本藩家老。実学党とよばれる藩政改革派の中心だったが,保守派の学校党との抗争に敗れ,弘化(こうか)4年免職。のちペリー来航の際,熊本藩の相模(さがみ)浦賀警備責任者となった。安政6年8月10日死去。47歳。本姓は米田(こめだ)。名は是容(これかた)。通称は別に源三郎。

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朝日日本歴史人物事典の解説

長岡監物

没年:安政6.8.10(1859.9.6)
生年:文化10.2.11(1813.3.13)
幕末の肥後藩(熊本県)家老。本姓米田,名は是容,通称源三郎。父は是睦。天保3(1832)年,20歳で国老を継ぎ,監物を襲名。禄1万5000石。横井小楠らと共に藩校時習館の改革に当たる一方,実学党と呼ばれる藩政改革派の中心となる。しかし弘化4(1847)年松井氏を中心とする保守派学校党との抗争に敗れ,家老を辞職。嘉永6(1853)年,藩の浦賀警備隊長として再起用され,江戸湾の防備に当たり在江戸諸藩中重きをなした。安政2(1855)年,開国論に転じた小楠と決別し,以後は実学党坪井派を率いた。明治天皇の侍従・子爵米田虎雄は次男。<参考文献>田尻稲里「故長岡監物氏の事蹟」(『史談会速記録』341)

(三澤純)

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