日本大百科全書(ニッポニカ) 「ボードレール」の意味・わかりやすい解説
ボードレール
ぼーどれーる
Charles-Pierre Baudelaire
(1821―1867)
[横張 誠]
放縦と屈辱
4月9日パリに生まれる。1759年生まれの父ジョゼフ・フランソア・ボードレールは、93年まで僧職にあり、革命前は大貴族の家庭教師を務め、啓蒙(けいもう)哲学の立場をとるリベラルな貴族階級と交流があった。そして第一帝政下では元老院事務局に勤務し、アマチュアの画家でもあった。1827年父は没し、翌年母は35歳で陸軍少佐ジャック・オーピックJacques Aupick(1789―1857)と再婚。ボードレールはリヨンの王立中学(1832~36)、ついでパリのルイ・ル・グラン中学で、39年春放校となるまで教育を受け、同年夏バカロレア(大学入学資格)を取得後、法律学校に登録したものの放縦な生活を送り、梅毒に感染する。親族会議の決定により、悪友の文学青年たちとの放埒(ほうらつ)な生活を改めさせるため、41年6月カルカッタ(現コルカタ)行き汽船に乗船させられるが、ブールボン島(現レユニオン島)まで行って航海を続けることを拒否、インドには至らず、42年2月帰国、ただちにパリへ戻る。まもなく成年に達し、実父の遺産を相続、優雅なダンディの生活を送り、多額の負債をつくる。同じころ、黒白混血の端役女優ジャンヌ・デュバルJeane Duvalとの長年にわたる関係が始まる。息子の濫費生活に恐れをなした母親の願い出に基づき、44年9月、裁判所により浪費者に対する裁判上の保佐制度の適用が決定され、遺産の残額の利子のみを保佐人から月々手渡されることとなり、以後困窮生活を強いられる。
[横張 誠]
創作活動
すでに1843年ころには『悪の華』の詩編が十数編できていたと伝えられるが、45年『1845年のサロン』を発表、まず美術批評家としてデビューする。翌年『1846年のサロン』ではドラクロワを賞賛し、ロマン主義芸術の本質を論ずるとともに、「現代生活の英雄性」を説くことにより、すでにリアリズム絵画の美学を展開する。47年には自伝的中編小説『ラ・ファンファルロ』を雑誌に掲載、このころからエドガー・アラン・ポーに傾倒し、早くも翌年から50年代にかけて、小説集『異常な物語』(1856)など、ポーの作品の仏訳を多数発表する。プルードンなどの革命思想に興味を抱いて、48年の二月革命、6月蜂起(ほうき)には武器を取って参加するが、51年のクーデターを機に、直接的な政治活動への熱が冷め、過激なカトリックの反革命思想家ジョゼフ・ド・メーストルに関心をもち始める。52年から54年にかけて、銀行家の愛人サバティエ夫人Mme Sabatierに匿名で詩を添えた恋文を送り、54年からは女優マリー・ドーブランMarie Daubrunとの交渉から想を得て詩を書く。57年詩集『悪の華』初版を刊行、公衆道徳良俗侵害のかどで、刊行者プーレ・マラシPoulet-Malassis(1825―78)、ド・ブロワーズDe Broise(1821―1906)とともに罰金刑の判決を受け、詩集中の六編の削除を命令される。59年、「人間の諸能力の女王」たる想像力が芸術創造において絶対的優位にたつことを説いた『1859年のサロン』を雑誌に発表、翌年、「ハシッシュの詩」「ある阿片(あへん)常用者」(ディ・クウィンシーの『阿片常用者の告白』の翻案)を収録した『人工天国』を刊行する。
1861年『悪の華』第二版を出版、また、ワーグナーの『タンホイザー』パリ初演が失敗に終わってまもなく、『リヒャルト・ワーグナーと「タンホイザー」パリ公演』と題する小冊子を刊行。同年末アカデミー・フランセーズに立候補するが、友人たちのひんしゅくを買って翌年初め取り下げる。62年、散文詩20編を『小散文詩』の総題のもとに新聞に分載発表。63年、ドラクロワを追悼して『ウージェーヌ・ドラクロワの作品と生涯』を、ついで風俗画家コンスタンタン・ギースを論じた『現代生活の画家』をそれぞれ新聞に発表したが、後者は、「うつろいやすいもの」の美の価値を説く点で、リアリズムから印象主義への方向づけを行うものであるとともに、当時自ら書き進めていた散文詩の美学のマニフェストともなっている。64年、債権者から逃れるためと、全集の出版契約のもくろみもあって、ベルギーへ講演旅行に出発、しかし契約は失敗、講演は不評に終わる。66年3月、ベルギー、ナミュール市のサン・ルー教会を見物中倒れ、右半身不随、失語症の症状を呈し、7月パリに戻り入院、翌67年8月31日没。46歳。モンパルナス墓地に埋葬される。遺稿として、アフォリスム的な『火箭(ひや)』(1855~62執筆)、『赤裸の心』(1859~66執筆)や、風刺的な文明批判の書『哀れなベルギー』(草稿)がある。
[横張 誠]
評価
ボードレールは、遅れてやってきた過激なロマン主義者としても、現代性を掲げ都市生活の美学を提唱して、時代を先取りしすぎたことによっても、結局、同時代の無理解に自ら苦しまねばならず、貧困と孤独にさいなまれた生涯を送った。しかし、自己と対象に向けられた透徹した批判精神に支えられた独特の叙情をもって、象徴主義以後の近代詩全般の基礎を築いた知的詩人であり、近代絵画の成立に寄与し、さらに、その後の批評のあり方を明確に方向づけた美術批評家であったにとどまらず、近代社会の危機を明敏に感じ取り、容赦なく批判した文明批評家でもあった。
[横張 誠]
『福永武彦他訳『ボードレール全集』全四巻(1963~64・人文書院)』▽『阿部良雄訳『ボードレール全集』全六巻(1983~・筑摩書房)』▽『河盛好蔵著『パリの憂愁――ボードレールとその時代』(1978・河出書房新社)』▽『阿部良雄著『群衆の中の芸術家――ボードレールと19世紀フランス絵画』(1975・中央公論社)』