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熊本藩 くまもとはん

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

熊本藩
くまもとはん

肥後藩ともいう。江戸時代肥後国 (熊本県) の球磨,天草両郡を除く地方を領有した藩。藩主細川氏,54万石。熊本城を築いた加藤清正 (52万石) の子忠広が寛永9 (1632) 年除封となり,代って細川忠興の子忠利が小倉から入封して以来 12代続いて明治維新にいたる。

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百科事典マイペディアの解説

熊本藩【くまもとはん】

肥後国飽田郡府中(現,熊本市)に藩庁を置いた外様藩。1587年佐々成政豊臣秀吉から肥後一国を与えられたのが起こり。成政失脚後,肥後は加藤清正(北半国)と小西行長(南半国)に分与されたが,関ヶ原の戦後行長は処刑され,清正が肥後一国の領主となった。
→関連項目川尻熊本城時習館大慈寺肥後国

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藩名・旧国名がわかる事典の解説

くまもとはん【熊本藩】

江戸時代肥後(ひご)国飽田(あきた)郡府中(現、熊本県熊本市)に藩庁をおいた外様(とざま)藩。藩校は時習館(じしゅうかん)(文武両道系)、再春館(さいしゅんかん)(医薬系)。肥後国は1588年(天正(てんしょう)16)に加藤清正(かとうきよまさ)小西行長(こにしゆきなが)にそれぞれ半国領有されたが、1600年(慶長(けいちょう)5)の関ヶ原の戦いで西軍についた小西の領地を加藤が受け継ぎ、球磨(くま)郡・天草郡を除く肥後国の大半と豊後(ぶんご)国3郡にまたがる熊本藩54万石が成立した。清正は、熊本城を築城するとともに、城下町の整備や新田開発、土木・治水工事などを行って大藩としての基礎を築いた。しかし、2代忠広(ただひろ)は謀反の疑いで改易(かいえき)され、出羽(でわ)国庄内へ配流。代わって、32年(寛永(かんえい)9)に細川忠利(ただとし)豊前(ぶぜん)国小倉藩から54万石で入封(にゅうほう)した。忠利は晩年の宮本武蔵(みやもとむさし)を食客(しょっかく)として招いたことでも有名。46年(正保(しょうほう)3)に宇土(うと)藩3万石、66年(寛文(かんぶん)6)に熊本新田藩3万5000石の2支藩が成立。藩財政は窮乏したが百姓一揆のない藩政が細川氏11代にわたって明治維新まで続いた。幕末には実学党の横井小楠(しょうなん)の改革が抑えられ、そのため激しい攘夷運動が展開されないままに明治維新を迎えた。1871年(明治4)の廃藩置県で熊本県となり、その後、白川県を経て76年に再び熊本県と改称、現在にいたる。◇肥後藩、細川藩ともいう。

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世界大百科事典 第2版の解説

くまもとはん【熊本藩】

肥後国飽田郡府中(現,熊本市)に藩庁を置いた外様大藩。1587年(天正15)佐々成政が隈本城に封ぜられたのが起りで,領域は球磨郡を除く肥後国12郡であった。成政は翌年起こった肥後一揆の責を負って尼崎で切腹,肥後国は豊臣秀吉子飼の加藤清正(北半国19万石)と小西行長(南半国14万石)に分与された。この間秀吉の上使衆によって球磨郡を除く肥後国検地がなされ,肥後54万石の表高が確立した。ついで1600年(慶長5)清正は関ヶ原の戦で西軍に属した小西行長の旧領を合わせ,さらに同年天草郡と豊後国直入,大分,南海部3郡内との替地を許され,ここに肥後国の大半と豊後3郡にまたがる熊本藩領54万石が確定した。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

熊本藩
くまもとはん

肥後国(熊本県)の大部分(天草(あまくさ)・球磨(くま)郡を除外)を領有し、熊本城を居城とした藩。薩摩(さつま)藩に次ぐ九州第二の大藩で表高54万石。豊臣(とよとみ)期九州統一後は球磨郡を除く肥後一国を佐々成政(さっさなりまさ)が領有したが、その後、1588年(天正16)閏(うるう)5月から加藤清正(きよまさ)、小西行長(ゆきなが)の半国宛の領有となった。関ヶ原の戦い後、球磨・天草郡を除く肥後一国(52万石)と豊後(ぶんご)国(大分県)直入(なおり)・大分・海部(あまべ)郡(2万3000石)とが、加藤清正領と確定し、以後その領域は廃藩置県まで変更されなかった。清正時代に熊本城が築城されて居城となり、城下町(現熊本市街)も形成され、また領地の実高も75万石余に達した。清正の死亡(1611)後はその子忠広(ただひろ)が継いだが、統治失政と幕府の九州統治方針とが相まって改易され、かわって1632年(寛永9)12月に豊前(ぶぜん)小倉城主細川忠利(ただとし)が、九州の目付(めつけ)役的任務をもって入国した。以後、廃藩置県まで12代にわたり細川氏が襲封したので、細川藩とも称される。その間、1646年(正保3)に宇土(うと)藩(3万石)、1666年(寛文6)に熊本新田(しんでん)藩(3万5000石、1868年以降高瀬藩)を分知した。
 細川氏の特徴ある行政体制の一つに、手永(てなが)制がある。郡と村の中間に手永を置き(幕末は51手永)、その長を惣庄屋(そうしょうや)と称し平均30か村の村庄屋を統制する方式とした。また農民監視に横目制をとり、さらに百姓郷士として地侍・地筒(じづつ)(郡筒)・一領一疋(ぴき)・札筒(さつづつ)がいて不時の軍事力に答応する体制をとった。キリシタン布教地域の豊後や旧小西領を領し、さらに島原の乱もあってキリシタン統制が厳重で五人組や宗旨改めも早くから制度化し、給人の地方知行(じかたちぎょう)体制と相まって、百姓一揆(いっき)が少ない藩となった。町方は5か町制(熊本、高橋、高瀬、川尻、八代(やつしろ)、その後3町追加)をとり、特権的な町として商業資本を統制し、本手(ほて)とよばれる株札による商業が行われた。財政は、肥後米が大坂堂島(どうじま)の相場米であったにもかかわらず、寛永(かんえい)(1624~1644)末年期から悪化し、第6代宣紀(のぶのり)期(1713~1732)には借財37~38万両に達し、大坂蔵元商人からの融資の道が絶たれ、ついに第8代重賢(しげかた)による藩政改革となった。総検地、小物成方(こものなりかた)・櫨方(はぜかた)の設置、行政組織の改革、刑法制定などと、旧体制を一新し、一時的には危機を救済したが、その後も借銀が増加し、享和(きょうわ)の改革(年貢定請免(じょううけめん)制)、文化(ぶんか)の改革を施行した。一方では、地主・高利貸商人に献金=寸志を求め、その代償に武士身分の郷士(苗字(みょうじ)帯刀、傘御免(かさごめん)、一領一疋、留守居(るすい)中小姓の格を有す)としたため、彼らの勢力を増大化させた。
 幕末期の政治は他藩のような下級士族の進出がなく、藩校時習館派の学校党による執政であったので、封建体制の護持に終始して維新を迎えた。肥後の明治維新は版籍奉還後の1870年(明治3)で、横井小楠(しょうなん)系の実学党による藩政改革で旧体制を一新する諸政策が採用された。しかし新政府の中央集権策に押され、翌年には廃藩置県を迎えた。1871年藩域は熊本県(翌年白川県と改称)となり、さらに八代県をあわせて、1876年ふたたび熊本県と称した。[森山恒雄]
『『新編物語藩史 第12巻』(1977・新人物往来社)』

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世界大百科事典内の熊本藩の言及

【有明海】より

…【岩本 政教】
[干拓の歴史]
 有明海での干拓の進展は主として江戸時代以降であり,江戸時代には干潟や地形および藩の対応などによって異なった動きがみられた。熊本藩では藩営開,御内家開,御一門開,手永開,御赦免開などがあり,藩,藩主,家老,惣庄屋によって行われ,干拓規模が大きかった。江戸初期には加藤氏による行末塘外新地(139ha)などの干拓があり,中期以降横島新地(一番開から十番開まで)計464ha,北浦新地(150ha),住吉新地(154ha)などが造成された。…

【田沼時代】より


[西南諸藩の改革と田沼の幕政]
 危機的状況にたいして,西南諸藩は幕府より早く対応した。長州藩や熊本藩の宝暦改革などがそれである。これらの諸藩では,藩校の設立・整備と人材登用によって,行政の論理と才能とを整え,年貢増徴のほかに,商人や豪農と結託した殖産興業政策を進め,藩専売制藩札制度によって商品経済の果実を藩財政の中に組みこもうとした。…

【土免】より

…検見取(けみどり)が当該年の作柄調査を前提とした徴租法であったのに対し,土壌の善悪を基準に年貢を定める方式。熊本藩ではこの土免について〈御土免は田畑共に地味之位をよく見届け,反別相応に相極め申したく候〉としており,また土佐藩でも〈土地の厚薄にしたがい,何村の免は何ッ成と大抵は定め置き,なおまた,五年三年を限り,その村の豊凶を見合せて春のうち免究め仕り候,これを土免と唱え申し候〉としている。土地生産性の向上によって増収を図る小農民経営の展開に対応して,作柄に基づいた年貢徴収を方針とした豊臣秀吉は,1586年(天正14)土地善悪による土免を禁じた。…

【鶴崎】より

…豊後国(大分県)の港町。1601年(慶長6)肥後国熊本城主加藤清正が瀬戸内への通路として豊後に2万3000石の領地を得たのにともない,熊本藩領となる。32年(寛永9)からは細川氏の支配下となり,幕末に至る。…

【手永】より

…1622年(元和8)豊前小倉藩領には73手永があった。細川氏は肥後入国後それまでの郷組制を手永制に切り替え,35年(寛永12)ごろの熊本藩領の手永数は100以上と推定される。幕末には51手永となる。…

【藩政改革】より

…だから,大名を補佐する執政に恵まれるとき,藩政の再構築を目ざす藩政改革がみられることになる。この典型としては,肥後熊本藩54万石を受け継いだ第6代細川重賢(しげかた)と家老堀勝名の関係,陸奥会津藩28万石の第5代松平容頌(かたのぶ)と家老田中玄宰との関係,そして,出羽米沢藩15万石の第10代上杉治憲(はるのり)(鷹山)と改革派を代表する竹俣当綱(たけのまたまさつな)との関係をあげることができよう。 上杉治憲が名君の典型であったことはよく知られているが,彼は日向国高鍋藩主秋月氏の次男として生まれ,部屋住上がりの辛酸をなめていた。…

【藩法】より

…なお刑法典を編纂するのでなく,幕府に随時問い合わせるなどして,《公事方御定書》に基づく裁判を行った藩も少なくない。(b)明律系統としては,1754年(宝暦4)の熊本藩〈御刑法草書〉をはじめ,84年(天明4)の新発田(しばた)藩〈新律〉,96年の会津藩〈刑則〉,97年の弘前藩〈寛政律〉,享和・文化年間(1801‐18)の紀州藩〈国律〉,1862年(文久2)の同藩の〈海南律例〉などがある。中でも〈御刑法草書〉が追放刑の大部分を徒刑(とけい)に替えたのは,日本における近代的自由刑の誕生として高く評価されている。…

【肥後国】より

…相良長毎ははじめ石田方に属したが徳川方に内通して岐阜城を攻め,本領を安堵された。小西行長は石田方に属して敗れ,加藤清正は徳川方について九州の石田方と対抗,小西行長の宇土城を攻めておとし,戦後小西氏の旧領を与えられたが,願いにより天草郡の代りに豊後国のうち鶴崎,野津原(2万3600石余)を与えられ,肥後熊本藩万石が成立した。天草郡(3万3846石余)は唐津藩主寺沢広高に与えられた。…

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