熊本藩(読み)くまもとはん

日本大百科全書(ニッポニカ) 「熊本藩」の意味・わかりやすい解説

熊本藩
くまもとはん

肥後国熊本県)の大部分(天草(あまくさ)・球磨(くま)郡を除外)を領有し、熊本城居城とした藩。薩摩(さつま)藩に次ぐ九州第二の大藩で表高54万石。豊臣(とよとみ)期九州統一後は球磨郡を除く肥後一国を佐々成政(さっさなりまさ)が領有したが、その後、1588年(天正16)閏(うるう)5月から加藤清正(きよまさ)、小西行長(ゆきなが)の半国宛の領有となった。関ヶ原の戦い後、球磨・天草郡を除く肥後一国(52万石)と豊後(ぶんご)国(大分県)直入(なおり)・大分・海部(あまべ)郡(2万3000石)とが、加藤清正領と確定し、以後その領域は廃藩置県まで変更されなかった。清正時代に熊本城が築城されて居城となり、城下町(現熊本市街)も形成され、また領地の実高も75万石余に達した。清正の死亡(1611)後はその子忠広(ただひろ)が継いだが、統治失政と幕府の九州統治方針とが相まって改易され、かわって1632年(寛永9)12月に豊前(ぶぜん)小倉城主細川忠利(ただとし)が、九州の目付(めつけ)役的任務をもって入国した。以後、廃藩置県まで12代にわたり細川氏が襲封したので、細川藩とも称される。その間、1646年(正保3)に宇土(うと)藩(3万石)、1666年(寛文6)に熊本新田(しんでん)藩(3万5000石、1868年以降高瀬藩)を分知した。

 細川氏の特徴ある行政体制の一つに、手永(てなが)制がある。郡と村の中間に手永を置き(幕末は51手永)、その長を惣庄屋(そうしょうや)と称し平均30か村の村庄屋を統制する方式とした。また農民監視に横目制をとり、さらに百姓郷士として地侍・地筒(じづつ)(郡筒)・一領一疋(ぴき)・札筒(さつづつ)がいて不時の軍事力に答応する体制をとった。キリシタン布教地域の豊後や旧小西領を領し、さらに島原の乱もあってキリシタン統制が厳重で五人組や宗旨改めも早くから制度化し、給人の地方知行(じかたちぎょう)体制と相まって、百姓一揆(いっき)が少ない藩となった。町方は5か町制(熊本、高橋、高瀬、川尻、八代(やつしろ)、その後3町追加)をとり、特権的な町として商業資本を統制し、本手(ほて)とよばれる株札による商業が行われた。財政は、肥後米が大坂堂島(どうじま)の相場米であったにもかかわらず、寛永(かんえい)(1624~1644)末年期から悪化し、第6代宣紀(のぶのり)期(1713~1732)には借財37~38万両に達し、大坂蔵元商人からの融資の道が絶たれ、ついに第8代重賢(しげかた)による藩政改革となった。総検地、小物成方(こものなりかた)・櫨方(はぜかた)の設置、行政組織の改革、刑法制定などと、旧体制を一新し、一時的には危機を救済したが、その後も借銀が増加し、享和(きょうわ)の改革(年貢定請免(じょううけめん)制)、文化(ぶんか)の改革を施行した。一方では、地主・高利貸商人に献金=寸志を求め、その代償に武士身分の郷士(苗字(みょうじ)帯刀、傘御免(かさごめん)、一領一疋、留守居(るすい)中小姓の格を有す)としたため、彼らの勢力を増大化させた。

 幕末期の政治は他藩のような下級士族の進出がなく、藩校時習館派の学校党による執政であったので、封建体制の護持に終始して維新を迎えた。肥後の明治維新は版籍奉還後の1870年(明治3)で、横井小楠(しょうなん)系の実学党による藩政改革で旧体制を一新する諸政策が採用された。しかし新政府の中央集権策に押され、翌年には廃藩置県を迎えた。1871年藩域は熊本県(翌年白川県と改称)となり、さらに八代県をあわせて、1876年ふたたび熊本県と称した。

[森山恒雄]

『『新編物語藩史 第12巻』(1977・新人物往来社)』


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改訂新版 世界大百科事典 「熊本藩」の意味・わかりやすい解説

熊本藩 (くまもとはん)

肥後国飽田郡府中(現,熊本市)に藩庁を置いた外様大藩。1587年(天正15)佐々成政が隈本城に封ぜられたのが起りで,領域は球磨郡を除く肥後国12郡であった。成政は翌年起こった肥後一揆の責を負って尼崎で切腹,肥後国は豊臣秀吉子飼の加藤清正(北半国19万石)と小西行長(南半国14万石)に分与された。この間秀吉の上使衆によって球磨郡を除く肥後国検地がなされ,肥後54万石の表高が確立した。ついで1600年(慶長5)清正は関ヶ原の戦で西軍に属した小西行長の旧領を合わせ,さらに同年天草郡と豊後国直入,大分,南海部3郡内との替地を許され,ここに肥後国の大半と豊後3郡にまたがる熊本藩領54万石が確定した。清正は隈本古城に代えて茶臼山に新城(熊本城)を築き,城下町を整備した。07年新城の完成によって城と町は隈本から熊本へと改められた。清正の治政では菊池川・白川・緑川の治水,有明海沿岸の干拓など土木工事が著名で,耕地の拡張が盛んであった。元和の一国一城令の後も肥後には熊本城のほか八代城の存続がみられ,南への拠点として位置づけられていた。清正の死後幼少の忠広が遺領相続したが,家臣が2派に分かれて対立するなど内政に難点があった。将軍徳川家光の治世の32年(寛永9),忠広は謀反の疑いをうけ改易となり,出羽国庄内の酒井家に預けられた。

 同年12月小倉城主細川忠利が加藤氏の領地をそのまま受けついだが,実高は75万石余であった。忠利は熊本城に入り,八代城には父忠興が隠居として入り3万石を領した。46年(正保3)忠興の死後八代城は老臣松井佐渡守興長に預けられ,藩主光尚(みつなお)の従弟行孝は宇土,益城2郡のうち3万石を内分されて宇土藩を立てた。ついで66年(寛文6)藩主綱利の弟利重は蔵米のうち3万5000石を内分されて江戸定府の新田藩(1868年高瀬に移り高瀬藩)を立てた。1649年(慶安2)2代光尚が31歳で死去したとき嫡子六丸(のちの綱利)は6歳で,九州の押えの大藩としての前途が危ぶまれたが,翌年遺領相続が許され事なきを得た。綱利の治世は明暦大火後の江戸城普請手伝い,大石内蔵助以下赤穂浪士お預け,1709年(宝永6)上野寛永寺綱吉廟造営お手伝いなど多事で,藩財政窮乏も一段と進行した。47年(延享4)藩主宗孝が江戸城中でまちがえられて殺害されたあと就任した重賢は堀平太左衛門勝名を登用して,いわゆる宝暦の改革を行い,財政再建,時習館の創建,刑法草書の起草,地引合による農地把握,櫨(はぜ)・紙の専売仕法などによる改革を成功させた。幕末に至って西南諸藩が幕藩制の矛盾解決を天保改革で解決したが,熊本藩では横井小楠の改革方針が抑えられ,尊攘運動にも消極的な動きしかせずに維新期を迎えた。1870年(明治3)に至って実学党による藩政改革を行い,民力休養のための正税外の上米免除,熊本城廃棄など次々と新政策を採用したが,中央政府の施策に反することになり,廃藩置県を機に軌道修正された。
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百科事典マイペディア 「熊本藩」の意味・わかりやすい解説

熊本藩【くまもとはん】

肥後国飽田郡府中(現,熊本市)に藩庁を置いた外様藩。1587年佐々成政が豊臣秀吉から肥後一国を与えられたのが起こり。成政失脚後,肥後は加藤清正(北半国)と小西行長(南半国)に分与されたが,関ヶ原の戦後行長は処刑され,清正が肥後一国の領主となった。1600年清正は天草郡と豊後国3郡との替地を許され,肥後国大半と豊後国3郡とにまたがる熊本藩54万石が確定した。清正の遺領を継いだ忠広は,1632年謀反の疑いをかけられ改易。同年細川忠利が熊本城に入城,以後廃藩に至るまで細川氏の支配が継続した。元和の一国一城令後も存続した八代城には忠利の父忠興が入り,3万石を領した。忠興の死後,1646年同城には筆頭家老長岡(松井)興長が城代として入り,また藩主光尚(みつなお)の従弟行孝が宇土・益城2郡のうちで3万石を分知され,支藩宇土藩が立てられた。さらに1666年藩主綱利の弟利重に3万5000石が分知され,江戸定府の新田藩(1868年高瀬藩)が立てられた。1747年藩主重賢は堀平太左衛門勝名を任用して行政改革に着手,次いで法制改革も行い,文教政策としては学寮創立を命じている。また財政・産業面では櫨・蝋を藩の専売制にするなど,改革(宝暦の改革)を成功させた。幕末には藩内は実学党・学校党・勤皇党の三者の対立が激化,藩としては尊王攘夷運動に積極的な姿勢がみせられないまま,明治維新を迎えた。
→関連項目川尻熊本城時習館大慈寺肥後国

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藩名・旧国名がわかる事典 「熊本藩」の解説

くまもとはん【熊本藩】

江戸時代肥後(ひご)国飽田(あきた)郡府中(現、熊本県熊本市)に藩庁をおいた外様(とざま)藩。藩校は時習館(じしゅうかん)(文武両道系)、再春館(さいしゅんかん)(医薬系)。肥後国は1588年(天正(てんしょう)16)に加藤清正(かとうきよまさ)小西行長(こにしゆきなが)にそれぞれ半国領有されたが、1600年(慶長(けいちょう)5)の関ヶ原の戦いで西軍についた小西の領地を加藤が受け継ぎ、球磨(くま)郡・天草郡を除く肥後国の大半と豊後(ぶんご)国3郡にまたがる熊本藩54万石が成立した。清正は、熊本城を築城するとともに、城下町の整備や新田開発、土木・治水工事などを行って大藩としての基礎を築いた。しかし、2代忠広(ただひろ)は謀反の疑いで改易(かいえき)され、出羽(でわ)国庄内へ配流。代わって、32年(寛永(かんえい)9)に細川忠利(ただとし)豊前(ぶぜん)国小倉藩から54万石で入封(にゅうほう)した。忠利は晩年の宮本武蔵(みやもとむさし)を食客(しょっかく)として招いたことでも有名。46年(正保(しょうほう)3)に宇土(うと)藩3万石、66年(寛文(かんぶん)6)に熊本新田藩3万5000石の2支藩が成立。藩財政は窮乏したが百姓一揆のない藩政が細川氏11代にわたって明治維新まで続いた。幕末には実学党の横井小楠(しょうなん)の改革が抑えられ、そのため激しい攘夷運動が展開されないままに明治維新を迎えた。1871年(明治4)の廃藩置県で熊本県となり、その後、白川県を経て76年に再び熊本県と改称、現在にいたる。◇肥後藩、細川藩ともいう。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「熊本藩」の解説

熊本藩
くまもとはん

肥後藩とも。肥後国熊本(現,熊本市)を城地とする外様大藩。1587年(天正15)豊臣秀吉は球磨(くま)郡を除く肥後一国を佐々成政(さっさなりまさ)に与えたが,成政は検地を行って国衆一揆をひきおこし,翌年除封。ついで肥後国北部9郡に加藤清正,南部4郡に小西行長が配されたが,行長は関ケ原の戦で西軍に属して改易,東軍の清正が小西氏領の大部分と豊後国の一部を加増されて成立。54万1000石余。1632年(寛永9)2代忠広の子光広が幕府から謀反の嫌疑をうけ同氏は改易,豊前国小倉藩主細川忠利が入封した。以後12代にわたる。忠利は翌年から領内の人畜改め,地撫(じぶ)検地などを実施,地方(じかた)支配機構は小倉時代の手永(てなが)制度を採用した。6代重賢は堀平太左衛門を登用して宝暦改革を実施,藩校時習館の創設,刑法草書による法制の整備などを行った。藩領は肥後国12郡と豊後国3郡のうちで54万1000石余。江戸時代を通じ有明・八代両海岸での干拓地が約2万4000町歩にのぼった。詰席は大広間。支藩に宇土・熊本新田(高瀬)両藩がある。廃藩後は熊本県となる。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「熊本藩」の意味・わかりやすい解説

熊本藩
くまもとはん

肥後藩ともいう。江戸時代,肥後国 (熊本県) の球磨,天草両郡を除く地方を領有した藩。藩主細川氏,54万石。熊本城を築いた加藤清正 (52万石) の子忠広が寛永9 (1632) 年除封となり,代って細川忠興の子忠利が小倉から入封して以来 12代続いて明治維新にいたる。正保3 (46) 年細川行孝に,寛文6 (66) 年細川利重に,それぞれ3万石の宇土藩,3万 5000石の高瀬藩を分領した。宇土藩は先の忠興の領した八代藩の一部である。6代重賢は堀勝名を用いて藩政改革を行い,成功した。また 11代韶邦 (よしくに) のとき,横井小楠ら実学党の藩政改革があった。外様,江戸城大広間詰。

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デジタル大辞泉プラス 「熊本藩」の解説

熊本藩

肥後国、熊本(現:熊本県熊本市)を本拠地とした外様藩。表高54万石の大藩。豊臣秀吉の九州平定後、佐々成政(さっさなりまさ)が肥後一国を領有したのが起源。熊本城(銀杏城)は加藤清正が築城したもの。その子忠広が謀反の疑いで改易となった後、細川忠利が熊本城に入城。以後、廃藩置県に至るまで、細川氏が12代にわたり藩主をつとめた。

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世界大百科事典(旧版)内の熊本藩の言及

【有明海】より

…【岩本 政教】
[干拓の歴史]
 有明海での干拓の進展は主として江戸時代以降であり,江戸時代には干潟や地形および藩の対応などによって異なった動きがみられた。熊本藩では藩営開,御内家開,御一門開,手永開,御赦免開などがあり,藩,藩主,家老,惣庄屋によって行われ,干拓規模が大きかった。江戸初期には加藤氏による行末塘外新地(139ha)などの干拓があり,中期以降横島新地(一番開から十番開まで)計464ha,北浦新地(150ha),住吉新地(154ha)などが造成された。…

【田沼時代】より


[西南諸藩の改革と田沼の幕政]
 危機的状況にたいして,西南諸藩は幕府より早く対応した。長州藩や熊本藩の宝暦改革などがそれである。これらの諸藩では,藩校の設立・整備と人材登用によって,行政の論理と才能とを整え,年貢増徴のほかに,商人や豪農と結託した殖産興業政策を進め,藩専売制藩札制度によって商品経済の果実を藩財政の中に組みこもうとした。…

【土免】より

…検見取(けみどり)が当該年の作柄調査を前提とした徴租法であったのに対し,土壌の善悪を基準に年貢を定める方式。熊本藩ではこの土免について〈御土免は田畑共に地味之位をよく見届け,反別相応に相極め申したく候〉としており,また土佐藩でも〈土地の厚薄にしたがい,何村の免は何ッ成と大抵は定め置き,なおまた,五年三年を限り,その村の豊凶を見合せて春のうち免究め仕り候,これを土免と唱え申し候〉としている。土地生産性の向上によって増収を図る小農民経営の展開に対応して,作柄に基づいた年貢徴収を方針とした豊臣秀吉は,1586年(天正14)土地善悪による土免を禁じた。…

【鶴崎】より

…豊後国(大分県)の港町。1601年(慶長6)肥後国熊本城主加藤清正が瀬戸内への通路として豊後に2万3000石の領地を得たのにともない,熊本藩領となる。32年(寛永9)からは細川氏の支配下となり,幕末に至る。…

【手永】より

…1622年(元和8)豊前小倉藩領には73手永があった。細川氏は肥後入国後それまでの郷組制を手永制に切り替え,35年(寛永12)ごろの熊本藩領の手永数は100以上と推定される。幕末には51手永となる。…

【藩政改革】より

…だから,大名を補佐する執政に恵まれるとき,藩政の再構築を目ざす藩政改革がみられることになる。この典型としては,肥後熊本藩54万石を受け継いだ第6代細川重賢(しげかた)と家老堀勝名の関係,陸奥会津藩28万石の第5代松平容頌(かたのぶ)と家老田中玄宰との関係,そして,出羽米沢藩15万石の第10代上杉治憲(はるのり)(鷹山)と改革派を代表する竹俣当綱(たけのまたまさつな)との関係をあげることができよう。 上杉治憲が名君の典型であったことはよく知られているが,彼は日向国高鍋藩主秋月氏の次男として生まれ,部屋住上がりの辛酸をなめていた。…

【藩法】より

…なお刑法典を編纂するのでなく,幕府に随時問い合わせるなどして,《公事方御定書》に基づく裁判を行った藩も少なくない。(b)明律系統としては,1754年(宝暦4)の熊本藩〈御刑法草書〉をはじめ,84年(天明4)の新発田(しばた)藩〈新律〉,96年の会津藩〈刑則〉,97年の弘前藩〈寛政律〉,享和・文化年間(1801‐18)の紀州藩〈国律〉,1862年(文久2)の同藩の〈海南律例〉などがある。中でも〈御刑法草書〉が追放刑の大部分を徒刑(とけい)に替えたのは,日本における近代的自由刑の誕生として高く評価されている。…

【肥後国】より

…相良長毎ははじめ石田方に属したが徳川方に内通して岐阜城を攻め,本領を安堵された。小西行長は石田方に属して敗れ,加藤清正は徳川方について九州の石田方と対抗,小西行長の宇土城を攻めておとし,戦後小西氏の旧領を与えられたが,願いにより天草郡の代りに豊後国のうち鶴崎,野津原(2万3600石余)を与えられ,肥後熊本藩万石が成立した。天草郡(3万3846石余)は唐津藩主寺沢広高に与えられた。…

※「熊本藩」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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