日本大百科全書(ニッポニカ) 「長洲荘」の意味・わかりやすい解説
長洲荘
ながすのしょう
摂津(せっつ)国河辺(かわのべ)郡、現在の兵庫県尼崎(あまがさき)市の南東部にあった東大寺領荘園。長州、長渚とも記された。756年(天平勝宝8)の同寺領猪名(いな)荘絵図には、この荘園の南端は浜で、杭瀬(くいせ)浜、大物(だいもつ)浜とともに長洲浜と記されている。これらの浜には古くから漁民らが住み着いていたが、東大寺側は猪名荘に属する浜地とみなしていた。浜の砂州(さす)が広がるにつれ耕地化が進められ、交通業者、商工業者らも住み着き、平安時代のなかばには大きな集落を形成していた。住人らは東大寺に縛られることなく、それぞれ貴族や寺社に仕えていた。とくに鴨(かも)社は、住人らを供祭人(くさいにん)として、神に供える魚貝を奉納させ、1084年(応徳1)彼らの住むこの地域を社領長洲御厨(みくりや)とした。以後、長洲荘として土地の領有権を主張する東大寺と、長洲御厨として住人の支配権を根拠とする鴨社は、この地の権益をめぐって鎌倉時代末まで争っている。
[富沢清人]
『『尼崎市史 第1巻』(1966・尼崎市)』