日本歴史地名大系 「長洲御厨」の解説
長洲御厨
ながすのみくりや
市域南東部に所在した京都
当時の長渚散所の本数は三八人であったといわれ、賀茂社はこの三八人を神前に供える鮮物を貢進させるための供祭人とした(応保二年五月一日「官宣旨案」東南院文書)。相博後検非違使庁の妨げや国務の煩いがなくなったので、「海中網人」や「携河漁輩」を当御厨に招き寄せ、数百家を供祭人とし、また官役・国役免除となったことから浪人が勇んで多数居住するようになったという。また元永元年(一一一八)に供祭人の結番を定めた時には神人は三〇〇人で、間人(正式に認められた神人以外の漁民)は二〇〇人となっていた(久安三年九月日「鴨御祖社司等解」同文書)。このように一一世紀末以降、当御厨では供祭人の数が当初の三八人から急激に増加していったが、寛治五年(一〇九一)五月三〇日に、賀茂社の神民が京畿に満ちて濫吹を企てているとして同社にその停止を命ずる宣旨が下されているように、神威をかりた彼らの濫妨狼藉は取締の対象ともなり、同年六月六日には讃岐国司から同国内で長渚網人が神民と称して濫行を働いているという訴えがあり、その停止を命じられている。このため同社は取締に乗出し、私宅に不善の輩を集めて双六を打っていた当御厨の住人永行を追放したが(同六年八月五日鴨御祖大神宮牒案)、東大寺では同社の行為を寺領に対する侵害ととらえ、以後両者の間で長渚住民への支配権をめぐる争いが展開されていく。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報