長洲御厨(読み)ながすのみくりや

日本歴史地名大系 「長洲御厨」の解説

長洲御厨
ながすのみくりや

市域南東部に所在した京都賀茂御祖かもみおや(下鴨社)領の御厨で、応徳元年(一〇八四)八月一〇日に同社領として成立した(嘉承元年五月二九日「官宣旨」東大寺文書。以下断らない限り同文書)。奈良時代に成立した奈良東大寺領猪名いな庄の南端の海岸部に形成された砂洲の浜地である「長渚浜」には、八世紀末以降漁業を主とする人々が住むようになり、集落として発達していったが(「尼崎市文化財調査報告第一四集尼崎市金楽寺貝塚II」尼崎市教育委員会・一九八二年)、同寺からの地子賦課に加えて検非違使庁からも庁役が賦課されていた。当地の在地住民は庁役を忌避するために、権門貴族の権威を背景としてその散所となる手段を選び、長渚散所が成立する。初めは小一条院敦明親王家、続いてその子の式部卿敦貞親王家を経て二条関白藤原教通家へと伝領され、教通からは息女の小野皇太后宮歓子の職領へと伝えられていった。歓子は出家して御所を常寿院となし、長渚散所を同院に寄進したが、応徳元年八月一〇日に賀茂御祖社領の山城国愛宕おたぎ栗栖野くるすの(現京都市北区)の田地七町八段二九〇歩と相博(交換)され、ここに同社領長渚御厨の成立をみる(前掲嘉承元年五月二九日官宣旨)

当時の長渚散所の本数は三八人であったといわれ、賀茂社はこの三八人を神前に供える鮮物を貢進させるための供祭人とした(応保二年五月一日「官宣旨案」東南院文書)。相博後検非違使庁の妨げや国務の煩いがなくなったので、「海中網人」や「携河漁輩」を当御厨に招き寄せ、数百家を供祭人とし、また官役・国役免除となったことから浪人が勇んで多数居住するようになったという。また元永元年(一一一八)に供祭人の結番を定めた時には神人は三〇〇人で、間人(正式に認められた神人以外の漁民)は二〇〇人となっていた(久安三年九月日「鴨御祖社司等解」同文書)。このように一一世紀末以降、当御厨では供祭人の数が当初の三八人から急激に増加していったが、寛治五年(一〇九一)五月三〇日に、賀茂社の神民が京畿に満ちて濫吹を企てているとして同社にその停止を命ずる宣旨が下されているように、神威をかりた彼らの濫妨狼藉は取締の対象ともなり、同年六月六日には讃岐国司から同国内で長渚網人が神民と称して濫行を働いているという訴えがあり、その停止を命じられている。このため同社は取締に乗出し、私宅に不善の輩を集めて双六を打っていた当御厨の住人永行を追放したが(同六年八月五日鴨御祖大神宮牒案)東大寺では同社の行為を寺領に対する侵害ととらえ、以後両者の間で長渚住民への支配権をめぐる争いが展開されていく。

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改訂新版 世界大百科事典 「長洲御厨」の意味・わかりやすい解説

長洲御厨 (ながすのみくりや)

摂津国川辺郡(現,兵庫県尼崎市長洲)にあった賀茂社領御厨。長渚とも書く。この地域は猪名川・神崎川の三角州=長洲で,北の東大寺領猪名荘に続き,古くから東大寺が住みついた漁民に屋敷地子を課していた。神崎川河口一帯の港津を管理する検非違使庁も,長洲住民に庁役を課していた。庁役の免除を得るため,住民は関白藤原教通や小野皇太后宮職など権門の散所(さんじよ)となり,1084年(応徳1)日次御贄の鮮魚を求める賀茂御祖神社の御厨となった。根本住人38人といわれたが,庁役・国役免除のため各地からの移住者が多く,1118年(元永1)賀茂社が編成した結番では,鮮魚貢進の神人(じにん)300人以下計500人の住人がみられる。彼らは賀茂社の支配下に漁業・交通・交易に従事して鮮魚を貢進するほか,浜を開発して農業を営んだため,東大寺はその開発田に地子を課し領主権を主張した。こうして東大寺と賀茂社が対立し,政府は1106年(嘉承1)に土地は東大寺領,在家は賀茂社領と決めたが,両者の対立はなお続いた。1266年(文永3)には猪名為末の開発地の地主職をめぐり両者が争っている。賀茂社は代官・沙汰人6人,番頭15人を任命し支配したが,鎌倉末期以降,悪党・海賊や武士の勢力が及び,賀茂社の支配は衰退に向かった。すなわち沙汰人のうち執行範資・惣追捕使貞範は赤松則村の子息。番頭の沙弥教性は1315年(正和4)の守護使襲撃に関係し,また東大寺の代官澄承を殺害した悪党。御厨の灯炉堂(港の目印),温室(湯屋)の経営を命ぜられた浄瑜は海賊と通じて逃亡し,在地の大覚寺がこれに代わっている。南北朝以降,貞和年間(1345-50)の賀茂社造営にさいしては御厨の両荘司が木材輸送に奔走し,応永年間(1394-1428)には番頭道阿弥らが活躍した。その後の御厨については明らかでない。
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世界大百科事典(旧版)内の長洲御厨の言及

【供祭人】より

…1090年(寛治4)白河上皇が賀茂両社にそれぞれ不輸田600余町を寄進するとともに,御厨を諸国に分置したが,それ以前からのものも含め,両社は琵琶湖岸や瀬戸内海周辺に多くの御厨を領有した。上社の近江安曇河(あどがわ)御厨では,寛治の寄進以後同社神人(じにん)となった52人について,人別に3町の公田を引き募って神田とし,贄(にえ)を貢進させたと伝え,その数年前に下社が社領とした摂津の長洲御厨の場合は,以来〈海中の網人を招き寄せ,河漁にたずさわる輩を語らい寄せて,数百家をいざないすえ,供祭人となした〉といわれる。これら供祭人は,所役を免除され,漁猟を通じて領主に貢納したのであり,〈□□(畿内か)近国幷びに西国浦々関々は,武士の濫妨を停止し,供祭を全うすべし〉といわれる特権を保持して活動した。…

※「長洲御厨」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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