静寛院宮(読み)せいかんいんのみや

精選版 日本国語大辞典 「静寛院宮」の意味・読み・例文・類語

せいかんいん‐の‐みや セイクヮンヰン‥【静寛院宮】

一四代将軍徳川家茂の夫人仁孝天皇の第八皇女和宮親子(かずのみやちかこ)内親王。将軍の死後、落飾して静寛院宮と称した。→和宮

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デジタル大辞泉 「静寛院宮」の意味・読み・例文・類語

せいかんいん‐の‐みや〔セイクワンヰン‐〕【静寛院宮】

和宮かずのみや剃髪ていはつ後の称。

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朝日日本歴史人物事典 「静寛院宮」の解説

静寛院宮

没年:明治10.9.2(1877)
生年:弘化3.閏5.10(1846.7.3)
江戸幕府14代将軍徳川家茂の妻。仁孝天皇の第8皇女。孝明天皇の妹。母は典侍橋本経子(観行院)。幼称は和宮。諱は親子。嘉永4(1851)年有栖川宮熾仁親王と婚約したが,万延1(1860)年内憂外患に苦慮する幕府が幕権回復(「公武合体」)のため皇女降嫁を奏請したことから運命が一変した。孝明天皇の反対などによって紆余曲折を経たものの2年後に降嫁。これに先立ち,内親王宣下を受ける。江戸城大奥での生活は,生活習慣の違い,皇女という立場,天璋院(徳川家定御台所,家茂の養母)との不和,さらに政局の影響などもあって苦労が多かったという。慶応2(1866)年家茂の死去により薙髪して静寛院と号した。家茂哀悼の和歌「空蝉の唐織ごろもなにかせむ綾も錦も君ありてこそ」は有名だが,偽作との説もある。その後,宮の帰京が議せられるなか朝幕開戦となり,徳川家の存続朝廷に嘆願した。明治2(1869)年京都に帰住するが,5年後再び東京へ移居。脚気衝心により療養先の箱根で没した。墓所は芝増上寺。<参考文献>武部敏夫『和宮』,『静寛院宮御日記』

(久保貴子)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「静寛院宮」の解説

静寛院宮 せいかんいんのみや

和宮(かずのみや)

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367日誕生日大事典 「静寛院宮」の解説

静寛院宮 (せいかんいんのみや)

生年月日:1846年5月10日
江戸時代;明治時代の皇族
1877年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

山川 日本史小辞典 改訂新版 「静寛院宮」の解説

静寛院宮
せいかんいんのみや

和宮(かずのみや)

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「静寛院宮」の意味・わかりやすい解説

静寛院宮
せいかんいんのみや

和宮

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の静寛院宮の言及

【和宮】より

…第14代将軍徳川家茂夫人。名は親子,和宮のち静寛院宮と称す。1851年(嘉永4)有栖川宮熾仁(たるひと)親王と婚約したが,日米修好通商条約の勅許問題や,将軍継嗣問題によって悪化した朝幕関係を融和するために,60年(万延1)徳川家茂へ降嫁するように幕府より求められた。…

※「静寛院宮」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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