鞍岡村(読み)くらおかむら

日本歴史地名大系 「鞍岡村」の解説

鞍岡村
くらおかむら

[現在地名]五ヶ瀬町鞍岡

祇園ぎおん山を越えたさんしよ村の西に位置する。北から西にかけては肥後国に接し、南は木浦きうら(現椎葉村)。高千穂一八ヵ郷の一。元弘三年(一三三三)鎮西探題攻めに敗れた菊池一族は鞍岡山に隠れていたが、鎮西探題方の規矩高政軍に攻められ、三月二九日に菊池氏・阿蘇氏の拠った鞍岡城は落城し、生捕二・取頸三二であったという(楠木合戦注文・博多日記)。正平三年(一三四八)九月日の阿蘇惟澄申状(阿蘇文書)によれば、惟澄は護良親王令旨を下され、阿蘇郡鞍岡合戦において傷を被ったと注進している。建武三年(一三三六)多々良浜の合戦に敗れた際も菊池一族は鞍岡山に逃れている(楠木合戦注文・博多日記)古来、この地域は肥後国阿蘇郡知保ちほ郷に属していたといわれる。鞍岡の地は肥後阿蘇と日向高千穂の境にあり、この地の土豪の動向は重要で、その支配は阿蘇社が関係していた。康安二年(一三六二)と推定される九月一六日の斯波氏経書状写(阿蘇文書)によると、北朝方の氏経が「矢部・支知・大野・鞍岡者共」の軍忠を褒賞している。文明四年(一四七二)一一月六日の阿蘇山本堂造営料足日記(同文書)では「大野・倉岡」の料足が納められているが、倉岡は当地のことと思われる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報