護良親王(読み)モリナガシンノウ

デジタル大辞泉 「護良親王」の意味・読み・例文・類語

もりなが‐しんのう〔‐シンワウ〕【護良親王】

[1308~1335]後醍醐天皇の第1皇子。名は「もりよし」とも。落飾して天台座主ざすとなり、尊雲と号す。元弘の変に僧兵を率いて活躍、還俗して護良と改め、建武新政府では征夷大将軍となったが、のち、足利尊氏反目、鎌倉に幽閉され、中先代なかせんだいの乱で殺された。大塔宮おおとうのみや

もりよし‐しんのう〔‐シンワウ〕【護良親王】

もりながしんのう(護良親王)

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共同通信ニュース用語解説 「護良親王」の解説

護良親王

醍醐天皇の皇子。天台座主を務め、後醍醐天皇による鎌倉幕府討幕運動の中心となった。

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精選版 日本国語大辞典 「護良親王」の意味・読み・例文・類語

もりよし‐しんのう‥シンワウ【護良親王】

  1. ( 「もりながしんのう」とも ) 後醍醐天皇の第一皇子。母は源親子。世に大塔宮(だいとうのみや)という。嘉暦元年(一三二六)出家して尊雲と称した。元弘の乱に近畿諸大寺の僧兵を率いて活躍。その間に還俗して護良と改め、建武新政府で征夷大将軍・兵部卿となった。しかし、足利尊氏と反目、謀反人として捕えられて鎌倉に護送され、中先代の乱の渦中に殺された。延慶元~建武二年(一三〇八‐三五

もりなが‐しんのう‥シンワウ【護良親王】

  1. もりよししんのう(護良親王)

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改訂新版 世界大百科事典 「護良親王」の意味・わかりやすい解説

護良親王 (もりよししんのう)
生没年:1308-35(延慶1-建武2)

後醍醐天皇の皇子。〈もりなが〉とも読む。母は北畠師親の女親子。北畠親房とはいとこ関係。当初,延暦寺大塔に入室,このため大塔宮(おおとうのみや)と称す。法名尊雲。1325年(正中2)梶井門跡,27年(嘉暦2)天台座主(ざす)となる。異例の若さで天台宗門の最高峰に立ったのは,父帝の討幕計画の一環として山門の勢力を掌握するためであった。29年(元徳1)座主に再任されたが,父帝の討幕運動の本格化とともにこれに応じ,32年(元弘2)還俗して護良と名のり,父帝の隠岐配流中討幕運動の中心として活躍した。このため討幕の功の大半はこの親王の計略によるとまでいわれた。同年6月ころより熊野山,高野山など畿内近辺の寺社を中心に軍勢催促にのり出し,翌33年に入ると遠く九州や東北の武士にも挙兵を促すなど,全国的な討幕勢力の組織化に大きな役割を果たした。同年5月の六波羅探題攻撃では,足利尊氏の軍と連合してこれを滅ぼしたが,尊氏の動向を警戒した親王はなおも軍を解かず,信貴山に拠って対峙した。親王が正式に征夷大将軍となる1ヵ月以前の5月ころより,その令旨にこの称号を用いている事実よりみれば,親王の政治構想は武家政治の後継者を自任する尊氏とも,また徹底的な天皇親政を行おうとする父帝とも相いれるはずはなかった。このことが親王に悲劇をもたらした。父帝は親王の令旨を無効とし,9月には親王の将軍職を解いた。親王の令旨が10月まででとぎれる事実からも,そのきびしい立場をうかがうことができる。34年(建武1)10月には帝の親衛隊長格の結城親光名和長年に捕らえられ,武者所に拘置された。《太平記》は尊氏が親王を除こうとして天皇に讒言(ざんげん)した,と記している。親王は翌月鎌倉へ流され,足利直義のもとに幽閉されたが,35年北条時行が乱を起こしたとき,一旦鎌倉を撤退しようとする直義によって殺害された。
執筆者:

一般には大塔宮(だいとうのみや)の名で知られるこの皇子は,《太平記》に登場する悲劇的な南朝の英雄たちの中でも,父天皇との葛藤と敗北というさらに悲劇的な運命をたどった人物として伝えられた。早くから将来を期待されたこの皇子は,天台座主になりながら仏事をよそに武芸に熱中して人々を驚かせ,内乱が始まるや軍勢を率いて縦横に活動した。敵の追及を欺くために,般若寺の大般若経の経箱に隠れた話や,村上義光(よしてる)・義隆父子を従えて吉野,熊野を潜行中,つぎつぎに危難を逃れるが,ついに敵の手中に落ちたとき,義光の壮烈な身替りの自刃によって脱出した話などは,《太平記》の名場面として語られた。奸計に陥って鎌倉に流され,長期の土牢幽閉で足もなえた親王が,志を果たせず怨念を抱いて殺される最期の場面は,とくに人々の心を動かし,浮世絵の画題にもなった。1869年,明治政府は鎌倉の土牢跡に親王の霊をまつり,義光の霊も併祀したが,この社はその後官幣中社鎌倉宮となった。
執筆者:


護良親王 (もりながしんのう)

護良親王(もりよししんのう)

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朝日日本歴史人物事典 「護良親王」の解説

護良親王

没年:建武2.7.23(1335.8.12)
生年:延慶1(1308)
鎌倉末・南北朝期の皇族。後醍醐天皇の皇子。母は源師親の娘親子。文保2(1318)年2月,三千院(梶井門跡)に入室したと伝える。嘉暦1(1326)年9月,落飾して尊雲法親王と号した。翌年天台座主に補任された。元徳1(1329)年延暦寺大講堂を修理した。天台座主への就任は,延暦寺の勢力を討幕運動に組み込むための布石であった。後醍醐天皇の第2次討幕運動(元弘の変)に際し,弟尊澄法親王(宗良親王)と共に八王子に布陣したが,六波羅軍との合戦に敗れ,楠木正成の籠もる赤坂城へと逃れた。しかし,赤坂城も落ちたため,十津川,熊野へと逃れ,再起を期して,畿内各地の野伏,地侍に呼びかけ反幕府軍を組織した。正慶1/元弘2(1332)年11月,還俗して護良と改名,吉野で挙兵し討幕の令旨を各地の反幕府勢力に送った。この令旨に応じて,楠木正成が千早城で,赤松則村が播磨苔縄城(兵庫県上郡町)で挙兵した。千早城が鎌倉幕府軍に包囲されたとき,護良親王は吉野,十津川,宇多,内(宇智)郡の野伏に,兵糧米が包囲軍の手に渡らないように,往来の路を塞ぐことを命じている。のち,親王は河内信貴山に兵を進めて,赤松則村による京都侵入,六波羅攻撃を援助した。正慶2/元弘3年6月,後醍醐天皇が帰京して新政府を樹立した際,征夷大将軍の任官をめぐって足利尊氏と対立した。翌年10月,尊氏と阿野廉子の讒言を信じた天皇の命を受けた結城親光,名和長年らによって,清涼殿の和歌の席において捕縛された。翌月,鎌倉に護送され足利直義によって鎌倉二階堂の東光寺に幽閉された。建武2(1335)年7月,北条時行が鎌倉へ侵攻した際(中先代の乱),直義の家人淵辺義博によって殺害された。墓所は二階堂理智光寺谷にある。護良親王を祭る鎌倉宮は明治2(1869)年に創建されたものである。<参考文献>佐藤和彦『太平記を読む』

(佐藤和彦)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「護良親王」の意味・わかりやすい解説

護良親王(もりよししんのう)
もりよししんのう
(1308―1335)

建武(けんむ)政権下の征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)。後醍醐(ごだいご)天皇皇子、母は源親子。「もりなが」と読む説もある。梶井(かじい)門主を経て、1326年(嘉暦1)落飾、翌年天台座主(てんだいざす)となる。法名を尊雲という。大塔宮(おおとうのみや)と称される。関東調伏(ちょうぶく)の祈祷(きとう)を行い、また山門衆徒を味方につけて、父天皇の討幕計画に協力した。元弘(げんこう)の変(1331)が起こり、32年(元弘2)天皇が隠岐(おき)に流されたころ還俗(げんぞく)した親王は、幕府の追及を逃れて大和(やまと)、紀伊(きい)辺に潜行し、各地の寺社、武士に令旨(りょうじ)を発して兵を募った。翌33年、幕府方であった足利高氏(あしかがたかうじ)(のち尊氏)の寝返りにより六波羅(ろくはら)が落ち、6月天皇が入京した。同月に親王は征夷大将軍に任命された。しかし、まもなく父後醍醐との疎隔が深まり、征夷大将軍を解任され声望を失った。さらに尊氏とも対立し、尊氏を襲撃しようとしたが失敗した。34年(建武1)10月、護良に帝位を奪う陰謀あり、と尊氏が親王の継母新待賢門院廉子(しんたいけんもんいんれんし)を通じて天皇に知らせたため、謀反人として捕らえられた。やがて流罪と決まり、鎌倉に護送され、足利直義(ただよし)の監視下に置かれた。翌35年7月北条時行(ときゆき)(高時(たかとき)遺児)が鎌倉を攻めた中先代(なかせんだい)の乱に際し、形勢不利のため西上する直義の命によって、23日(一説に22日)親王は殺された。この親王の非業の最期は、直義の命を帯びた淵辺義博(ふちのべよしひろ)が実は親王を逃したという伝説を生んだ。

[田辺久子]

『佐藤進一著『南北朝の動乱』(『日本の歴史9』1965・中央公論社)』


護良親王(もりながしんのう)
もりながしんのう

護良親王

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「護良親王」の意味・わかりやすい解説

護良親王
もりながしんのう

[生]延慶1(1308).京都
[没]建武2(1335).7.23. 鎌倉
後醍醐天皇の皇子。母は権大納言源師親の娘,親子。名の「良」は「よし」と読む説もある。鎌倉幕府追討のため有力社寺との連絡を考慮した後醍醐天皇の意を受け,梶井門跡の大塔に入室。嘉暦1 (1326) 年落飾して尊雲と称し,世に大塔宮といわれた。同2年天台座主となり,関東調伏の祈祷をし,山門衆徒の収攬に努めた。元徳3 (31) 年元弘の乱が起ると翌元弘2=正慶1 (32) 年還俗して護良と改名,吉野に兵をあげた。楠木正成の赤坂城が落ちてからは幕府の追及を逃れて十津川,吉野,熊野などに転じ,各地の武士や社寺に反幕府の決起を促した。元弘3=正慶2 (33) 年後醍醐天皇の京都還御とともに入洛して征夷大将軍となり,兵部卿に任じられたが,まもなく足利尊氏との反目が起り,その勢力削減をねらって楠木,新田,名和氏らと画策したが失敗した。一方,成良親王の皇太子が廃止されるのを恐れた後醍醐天皇の後宮藤原廉子 (のちの新待賢門院) の讒言もあって,建武1 (34) 年鎌倉に流されて幽閉され,同2年7月中先代の乱が起ると,足利直義の命を受けた淵辺義博に弑殺された。

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百科事典マイペディア 「護良親王」の意味・わかりやすい解説

護良親王【もりよししんのう】

〈もりなが〉とも読む。後醍醐天皇の皇子。初め出家して尊雲と称し,世に大塔宮(おおとうのみや)という。元弘の乱に僧兵を率いて活躍,この間に還俗(げんぞく)して護良と称した。建武政権では征夷大将軍,兵部卿となったが,のち足利尊氏と反目して鎌倉に幽閉され,中先代の乱の際,足利直義に殺された。
→関連項目鎌倉宮親王将軍

護良親王【もりながしんのう】

護良親王(もりよししんのう)

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「護良親王」の解説

護良親王
もりよししんのう

1308~35.7.23

「もりなが」とも。後醍醐天皇の皇子。母は源親子といわれる。1323年(元亨3)頃延暦寺梶井門跡の大塔に入室し大塔宮(おおとうのみや)とよばれる。法名尊雲。27年(嘉暦2)天台座主となり討幕運動を開始。31年(元弘元)討幕運動発覚後,比叡山をのがれ,翌年還俗して護良と名のる。こののち約1年間,討幕運動の中心として令旨(りょうじ)を発給。33年の討幕後は将軍宮を称し,足利尊氏と対立して信貴山に籠城。後醍醐天皇にさとされ帰京後,征夷大将軍・兵部卿となるが,なお尊氏と対立。尊氏や新待賢門院の讒言(ざんげん)にあって34年(建武元)拘禁され,鎌倉の足利直義(ただよし)のもとへ送られる。35年中先代(なかせんだい)の乱に際し,親王が北条氏の手に渡ることを恐れた直義により殺された。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「護良親王」の解説

護良親王 もりよししんのう

1308-1335 鎌倉-南北朝時代,後醍醐(ごだいご)天皇の皇子。
延慶(えんきょう)元年生まれ。母は源親子。出家して梶井門跡(もんぜき),天台座主(ざす)となり,大塔宮(おおとうのみや)と称される。父天皇の討幕運動に協力し,元弘(げんこう)の乱に際し還俗(げんぞく)して吉野に挙兵した。建武(けんむ)の新政で征夷(せいい)大将軍となるが,足利尊氏と対立。謀反(むほん)の罪で鎌倉に幽閉され,建武2年7月23日中先代(なかせんだい)の乱のとき殺された。28歳。法名は尊雲。
【格言など】武家(尊氏)よりも君(父天皇)のうらめしく渡らせ給ふ(「梅松論」)

護良親王 もりながしんのう

もりよししんのう

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旺文社日本史事典 三訂版 「護良親王」の解説

護良親王
もりよししんのう

1308〜35
鎌倉末期・南北朝初期の皇族
後醍醐 (ごだいご) 天皇の皇子。初め比叡山に入り尊雲入道親王として天台座主 (ざす) となる。大塔宮という。元弘の変(1331)では楠木正成の赤坂城に入り,十津川・吉野・熊野などで反幕府勢力を蜂起させ,還俗 (げんぞく) して護良と改める。建武新政府では征夷大将軍に任ぜられたが,足利尊氏と対立。'34年鎌倉に幽閉され,'35年中先代の乱に際し,足利直義 (ただよし) に殺された。

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世界大百科事典(旧版)内の護良親王の言及

【護良親王】より

…後醍醐天皇の皇子。〈もりなが〉とも読む。母は北畠師親の女親子。北畠親房とはいとこ関係。当初,延暦寺大塔に入室,このため大塔宮(おおとうのみや)と称す。法名尊雲。1325年(正中2)梶井門跡,27年(嘉暦2)天台座主(ざす)となる。異例の若さで天台宗門の最高峰に立ったのは,父帝の討幕計画の一環として山門の勢力を掌握するためであった。29年(元徳1)座主に再任されたが,父帝の討幕運動の本格化とともにこれに応じ,32年(元弘2)還俗して護良と名のり,父帝の隠岐配流中討幕運動の中心として活躍した。…

【鎌倉宮】より

…神奈川県鎌倉市にあり,後醍醐天皇の皇子護良(もりよし)親王をまつる神社。護良親王は,1334年(建武1)足利尊氏と反目して鎌倉に幽閉され,翌年足利直義に殺された。…

【建武新政】より

…配流地でもみずから定めた元弘の元号を使い続けた後醍醐は33年5月,光厳朝の人事をいっさい認めず旧に復し,関白を廃止,6月には元弘の乱中の所領の移動ももとに戻し,敵対者の所領,幕府建立の寺院領を没収,所領の安堵・移動はすべて綸旨によるという綸旨絶対の政治を,腹心の貴族・武士で構成した記録所・恩賞方を通じて推進した。しかし討幕に大功ある護良(もりよし)親王の要求する征夷大将軍の職を認めざるをえず,所領に不安を抱く武士たちが安堵の綸旨を求めて京に殺到,足利尊氏の下に集まるものも多く,新政は直ちに障害に逢着する。これに対し7月,後醍醐は敵対者の範囲を北条氏一族に限定し,当知行安堵を国司の所管とした諸国平均安堵法を発し,旧幕府の官僚を採用して所領相論の裁決権を持つ雑訴決断所を設置,綸旨万能を緩和した。…

※「護良親王」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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