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後醍醐天皇の皇子。〈もりなが〉とも読む。母は北畠師親の女親子。北畠親房とはいとこ関係。当初,延暦寺大塔に入室,このため大塔宮(おおとうのみや)と称す。法名尊雲。1325年(正中2)梶井門跡,27年(嘉暦2)天台座主(ざす)となる。異例の若さで天台宗門の最高峰に立ったのは,父帝の討幕計画の一環として山門の勢力を掌握するためであった。29年(元徳1)座主に再任されたが,父帝の討幕運動の本格化とともにこれに応じ,32年(元弘2)還俗して護良と名のり,父帝の隠岐配流中討幕運動の中心として活躍した。このため討幕の功の大半はこの親王の計略によるとまでいわれた。同年6月ころより熊野山,高野山など畿内近辺の寺社を中心に軍勢催促にのり出し,翌33年に入ると遠く九州や東北の武士にも挙兵を促すなど,全国的な討幕勢力の組織化に大きな役割を果たした。同年5月の六波羅探題攻撃では,足利尊氏の軍と連合してこれを滅ぼしたが,尊氏の動向を警戒した親王はなおも軍を解かず,信貴山に拠って対峙した。親王が正式に征夷大将軍となる1ヵ月以前の5月ころより,その令旨にこの称号を用いている事実よりみれば,親王の政治構想は武家政治の後継者を自任する尊氏とも,また徹底的な天皇親政を行おうとする父帝とも相いれるはずはなかった。このことが親王に悲劇をもたらした。父帝は親王の令旨を無効とし,9月には親王の将軍職を解いた。親王の令旨が10月まででとぎれる事実からも,そのきびしい立場をうかがうことができる。34年(建武1)10月には帝の親衛隊長格の結城親光,名和長年に捕らえられ,武者所に拘置された。《太平記》は尊氏が親王を除こうとして天皇に讒言(ざんげん)した,と記している。親王は翌月鎌倉へ流され,足利直義のもとに幽閉されたが,35年北条時行が乱を起こしたとき,一旦鎌倉を撤退しようとする直義によって殺害された。
執筆者:森 茂暁
一般には大塔宮(だいとうのみや)の名で知られるこの皇子は,《太平記》に登場する悲劇的な南朝の英雄たちの中でも,父天皇との葛藤と敗北というさらに悲劇的な運命をたどった人物として伝えられた。早くから将来を期待されたこの皇子は,天台座主になりながら仏事をよそに武芸に熱中して人々を驚かせ,内乱が始まるや軍勢を率いて縦横に活動した。敵の追及を欺くために,般若寺の大般若経の経箱に隠れた話や,村上義光(よしてる)・義隆父子を従えて吉野,熊野を潜行中,つぎつぎに危難を逃れるが,ついに敵の手中に落ちたとき,義光の壮烈な身替りの自刃によって脱出した話などは,《太平記》の名場面として語られた。奸計に陥って鎌倉に流され,長期の土牢幽閉で足もなえた親王が,志を果たせず怨念を抱いて殺される最期の場面は,とくに人々の心を動かし,浮世絵の画題にもなった。1869年,明治政府は鎌倉の土牢跡に親王の霊をまつり,義光の霊も併祀したが,この社はその後官幣中社鎌倉宮となった。
執筆者:大隅 和雄
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(佐藤和彦)
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建武(けんむ)政権下の征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)。後醍醐(ごだいご)天皇皇子、母は源親子。「もりなが」と読む説もある。梶井(かじい)門主を経て、1326年(嘉暦1)落飾、翌年天台座主(てんだいざす)となる。法名を尊雲という。大塔宮(おおとうのみや)と称される。関東調伏(ちょうぶく)の祈祷(きとう)を行い、また山門衆徒を味方につけて、父天皇の討幕計画に協力した。元弘(げんこう)の変(1331)が起こり、32年(元弘2)天皇が隠岐(おき)に流されたころ還俗(げんぞく)した親王は、幕府の追及を逃れて大和(やまと)、紀伊(きい)辺に潜行し、各地の寺社、武士に令旨(りょうじ)を発して兵を募った。翌33年、幕府方であった足利高氏(あしかがたかうじ)(のち尊氏)の寝返りにより六波羅(ろくはら)が落ち、6月天皇が入京した。同月に親王は征夷大将軍に任命された。しかし、まもなく父後醍醐との疎隔が深まり、征夷大将軍を解任され声望を失った。さらに尊氏とも対立し、尊氏を襲撃しようとしたが失敗した。34年(建武1)10月、護良に帝位を奪う陰謀あり、と尊氏が親王の継母新待賢門院廉子(しんたいけんもんいんれんし)を通じて天皇に知らせたため、謀反人として捕らえられた。やがて流罪と決まり、鎌倉に護送され、足利直義(ただよし)の監視下に置かれた。翌35年7月北条時行(ときゆき)(高時(たかとき)遺児)が鎌倉を攻めた中先代(なかせんだい)の乱に際し、形勢不利のため西上する直義の命によって、23日(一説に22日)親王は殺された。この親王の非業の最期は、直義の命を帯びた淵辺義博(ふちのべよしひろ)が実は親王を逃したという伝説を生んだ。
[田辺久子]
『佐藤進一著『南北朝の動乱』(『日本の歴史9』1965・中央公論社)』
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1308~35.7.23
「もりなが」とも。後醍醐天皇の皇子。母は源親子といわれる。1323年(元亨3)頃延暦寺梶井門跡の大塔に入室し大塔宮(おおとうのみや)とよばれる。法名尊雲。27年(嘉暦2)天台座主となり討幕運動を開始。31年(元弘元)討幕運動発覚後,比叡山をのがれ,翌年還俗して護良と名のる。こののち約1年間,討幕運動の中心として令旨(りょうじ)を発給。33年の討幕後は将軍宮を称し,足利尊氏と対立して信貴山に籠城。後醍醐天皇にさとされ帰京後,征夷大将軍・兵部卿となるが,なお尊氏と対立。尊氏や新待賢門院の讒言(ざんげん)にあって34年(建武元)拘禁され,鎌倉の足利直義(ただよし)のもとへ送られる。35年中先代(なかせんだい)の乱に際し,親王が北条氏の手に渡ることを恐れた直義により殺された。
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…後醍醐天皇の皇子。〈もりなが〉とも読む。母は北畠師親の女親子。北畠親房とはいとこ関係。当初,延暦寺大塔に入室,このため大塔宮(おおとうのみや)と称す。法名尊雲。1325年(正中2)梶井門跡,27年(嘉暦2)天台座主(ざす)となる。異例の若さで天台宗門の最高峰に立ったのは,父帝の討幕計画の一環として山門の勢力を掌握するためであった。29年(元徳1)座主に再任されたが,父帝の討幕運動の本格化とともにこれに応じ,32年(元弘2)還俗して護良と名のり,父帝の隠岐配流中討幕運動の中心として活躍した。…
…神奈川県鎌倉市にあり,後醍醐天皇の皇子護良(もりよし)親王をまつる神社。護良親王は,1334年(建武1)足利尊氏と反目して鎌倉に幽閉され,翌年足利直義に殺された。…
…配流地でもみずから定めた元弘の元号を使い続けた後醍醐は33年5月,光厳朝の人事をいっさい認めず旧に復し,関白を廃止,6月には元弘の乱中の所領の移動ももとに戻し,敵対者の所領,幕府建立の寺院領を没収,所領の安堵・移動はすべて綸旨によるという綸旨絶対の政治を,腹心の貴族・武士で構成した記録所・恩賞方を通じて推進した。しかし討幕に大功ある護良(もりよし)親王の要求する征夷大将軍の職を認めざるをえず,所領に不安を抱く武士たちが安堵の綸旨を求めて京に殺到,足利尊氏の下に集まるものも多く,新政は直ちに障害に逢着する。これに対し7月,後醍醐は敵対者の範囲を北条氏一族に限定し,当知行安堵を国司の所管とした諸国平均安堵法を発し,旧幕府の官僚を採用して所領相論の裁決権を持つ雑訴決断所を設置,綸旨万能を緩和した。…
※「護良親王」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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