クラレンドン伯(読み)クラレンドンはく(英語表記)Edward Hyde,1st Earl of Clarendon

改訂新版 世界大百科事典 「クラレンドン伯」の意味・わかりやすい解説

クラレンドン伯 (クラレンドンはく)
Edward Hyde,1st Earl of Clarendon
生没年:1609-74

イギリスの政治家,歴史家。オックスフォード大学に学び,フォークランド伯を中心とする学者,文人の集いに参加。ピューリタン革命勃発直前の1640年短期議会に選出され,長期議会においても専制を批判する側に立ったが,〈大抗議文〉の提出(1641)を機に国王支持に転じ,開戦以後はチャールズ1世の側近として対議会交渉にあたった。46年戦局の不利をみて皇太子チャールズ(2世)を連れ亡命。大陸各地を流浪しながら皇太子の相談相手となり,60年王政復古とともに帰国し,爵位を授けられ,国政を指導した。過激な報復を嫌い融和を旨としたため,かえって反発を買い,第2次英蘭戦争の失敗の責任を負わされて失脚,67年再度亡命した。2度の亡命中に執筆した《反乱史》(1702-04)は,国王派側からの革命叙述として,トーリー史観の原点となった。なお,娘アンはヨーク公(ジェームズ2世)と結婚し,のちのイングランド女王2人(メアリーとアン)を産んだ。
クラレンドン法典
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内のクラレンドン伯の言及

【チャールズ[2世]】より

…62年旧教徒であるポルトガル王女と結婚。 治世の初期には亡命中の顧問であったクラレンドン伯が国政を指導したが,財政は迫(ひつぱく)し,また復讐心に燃える騎士議会のピューリタン弾圧,第2次対オランダ戦争(1665‐67),ペストの大流行(1665),ロンドン大火(1666)と人心を動揺させる大事件がつづき,67年クラレンドン伯を解任して,後事を複数の顧問団(カバルCabal)にゆだねた。しかし国王は革命の教訓を忘れて従弟のフランス王ルイ14世の絶対主義体制の強化に憧れを寄せ,70年秘密裏に〈ドーバー条約〉を結び,多額の年金と引きかえにイギリスにおけるカトリックの復活を約し,72年〈信仰自由宣言〉を出した。…

【ピューリタン革命】より


[革命の評価]
 イギリスにおいては,王政復古の直後から18世紀までは,この事件を〈大反乱Great Rebellion〉とみる国王派の立場からの把握が主流を占めた。これには王政復古体制の中心人物クラレンドン伯の《反乱史》(1702‐04)の影響が大きい。しかし18世紀後半以降,急進主義の運動が展開すると,17世紀史に対する再評価の気運が生まれ,当面の課題であった議会改革の先駆としてのこの闘争のもつ意義が見直されて,これまでの〈反乱〉に代わって〈内乱〉と呼ぶ傾向が強くなった。…

※「クラレンドン伯」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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