メアリー

デジタル大辞泉 「メアリー」の意味・読み・例文・類語

メアリー(Mary)

英国の女王。
(1世)[1516~1558]在位1553~1558。ヘンリー8世キャサリンの子。スペインフェリペ2世と結婚、旧教の復活を進め新教徒を迫害したので「血のメアリー」とあだ名された。
(2世)[1662~1694]在位1689~1694。ジェームズ2世の長女。オレンジ公ウィリアムウィリアム3世)と結婚してオランダに渡ったが、名誉革命後、英国王に迎えられ、夫とともに共同統治した。

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精選版 日本国語大辞典 「メアリー」の意味・読み・例文・類語

メアリー

  1. ( Mary ) イギリスの女王。
  2. [ 一 ] ( 一世 ) ヘンリー八世と最初の妃キャサリンの子(在位一五五三‐五八)。旧教復帰政策をかかげて、新教徒を迫害。スペイン皇太子(のちのフェリペ二世)と結婚。フランスとの戦争にまきこまれて大陸における最後の拠点カレーを失った。(一五一六‐五八
  3. [ 二 ] ( 二世 ) ジェームズ二世の娘(在位一六八九‐九四)。オレンジ公ウィリアム(ウィリアム三世)と結婚。名誉革命により夫とともに即位して共同統治し、議会政治の優位を確認してイギリス立憲君主制の基礎を置いた。(一六六二‐九四

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百科事典マイペディア 「メアリー」の意味・わかりやすい解説

メアリー[1世]【メアリー】

チューダー朝イングランドの女王(在位1553年―1558年)。メアリー・チューダーとも。ヘンリー8世と最初の王妃キャサリンとの子。熱心な旧教徒で,異母弟エドワード6世の治世には迫害をうけたが,即位後スペイン皇太子フェリペ(のちの2世)と結婚し,英国をローマ教会に復帰させた。新教徒の迫害を行って国民の反感をかい,〈流血好きのメアリーBloody Mary〉とあだ名された。スペインと結んだフランスとの戦争の結果大陸に残された最後の領土を失った。
→関連項目ウォリック伯エリザベス[1世]キャサリン[アラゴンの]クランマーステーショナーズ・カンパニーブラディメアリーレスター伯

メアリー[2世]【メアリー】

イングランド女王(在位1688年―1694年)。ジェームズ2世の子。新教の教育を受け,オランダ統領オレンジ公ウィリアム(後のウィリアム3世)と結婚。1688年名誉革命によってイングランド王位に迎えられ,夫と共同統治。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「メアリー」の意味・わかりやすい解説

メアリー(1世)
めありー
Mary Ⅰ
(1516―1558)

イギリス女王(在位1553~58)。メアリー・チューダーともいう。ヘンリー8世とその最初の王妃キャサリンとの子。幼時すでにフランス王家とハプスブルク王家から婚約申し出を受けるという恵まれた地位にあったが、母后の離婚問題を契機として状況は一変、自身の嫡出でないことを認めさせられ、苦悩の生活を余儀なくされた。1544年王位継承の資格を回復したが、異母弟のエドワード6世治下ではしばしば亡命を意図するほどであった。エドワードの早世後ノーサンバーランド公の企てを排して即位(1553)、翌年反対を抑えてスペインの皇太子フェリペ(後の2世)と結婚。また父王の政策を否定して旧教会を復活、これに伴う迫害が「血なまぐさいメアリー」Bloody Maryとの悪名を残すこととなる。フェリペの滞英は1年にすぎなかったが、女王は夫に強いられてスペインの対フランス戦争に参加、結局カレーを奪われて憂悶(ゆうもん)のうちに死去した。

[植村雅彦]


メアリー(2世)
めありー
Mary Ⅱ
(1662―1694)

スチュアート朝のイギリス女王(在位1689~94)。ヨーク公ジェームズ(後のジェームズ2世)の長女として生まれ、プロテスタントの教育を受けて成長した。1677年オランダのオレンジ公ウィリアム(オラニエ公ウィレム)のもとに嫁し、イギリス、オランダ両国民の祝福を受けたが、父の即位後は夫と父の対立から微妙な立場にたたされた。88年の名誉革命に際して母国より招請を受け、89年権利宣言を受諾して、夫ウィリアム(3世)とともにイギリス史上では異例の共同王位についた。病弱で子に恵まれず、権利章典の規定によって夫の死(1702)後は妹アンが王位を継いだ。

[大久保桂子]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「メアリー」の意味・わかりやすい解説

メアリー[モデナ]
Mary of Modena; Marie Beatrice D'Este

[生]1658.10.5. モデナ
[没]1718.5.7. サンジェルマンアンレ
イングランド王ジェームズ2世の妃。モデナ公アルフォンソ4世の娘。 1673年フランス王ルイ 14世の仲立ちで当時ヨーク公のジェームズと結婚。カトリック教徒であったため,夫のカトリック政策の黒幕とみなされた。 88年皇太子で,のち大王位僭称者と呼ばれた J.F.E.スチュアートの誕生が名誉革命のきっかけの一つになり,彼女は同年 12月皇太子とともにフランスに亡命した。

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デジタル大辞泉プラス 「メアリー」の解説

メアリー

2000年に台風委員会により制定された台風の国際名のひとつ。台風番号、第115号。北朝鮮による命名。「やまびこ」を意味する。2004年に発生した台風21号は、がけ崩れや土石流などによる死者25名の被害をもたらした。

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世界大百科事典(旧版)内のメアリーの言及

【ウィリアム[3世]】より

…オラニエ公ウィレム,のちイギリスではオレンジ公ウィリアムとしても知られる。母はイギリス国王チャールズ1世の長女メアリーで,ウィレム自身のちにチャールズ1世の孫メアリー2世(ジェームズ2世の娘)と結婚(1677)しているので,イギリスのスチュアート王家とは姻戚関係にある。オランダは16世紀後半にスペインから独立したものの,たびたびフランス王ルイ14世の侵略をうけ,国内ではアムステルダムの商人層を支持基盤とするヨハン・デ・ウィト派と中産的生産者層を基盤とするオラニエ派が対抗していた。…

【スコットランド】より

…その後ダンカンの血統が絶え,1371年ロバート2世が即位してスチュアート朝を開始。フランスとの提携が強まり,ジェームズ5世(在位1513‐42)は2人の王妃をフランスから迎え,その娘の女王メアリー(メアリー・スチュアート)はフランス王妃ともなった。 スチュアート王家,フランス勢力と結びついたローマ・カトリック教会に対する反抗として,1559年宗教改革戦争が始まり,J.ノックスの指導のもとにカルバン系の改革教会が樹立された(1560)。…

【名誉革命】より

…1688‐89年にイギリスで起こった革命。国王ジェームズ2世を追放して,王の長女メアリーとその夫オランダ総督ウィレムを共同統治者として迎え,立憲君主制の基礎を固めた。 王政復古体制下の1670年代末期,チャールズ2世の弟でカトリック教徒のジェームズを王位継承から排除する法案の議会提出をめぐって政治危機は深刻となった。…

※「メアリー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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