ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「テレーズ・ラカン」の意味・わかりやすい解説
テレーズ・ラカン
Thérèse Raquin
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… しかし,自然主義に明確な理論的基盤が与えられ,流派が形成されるには,なおゾラの登場を待たなければならなかった。ゾラは,まず《テレーズ・ラカン》(1867)によって科学研究に類する小説を書きえたと自負し,構築しつつあった自然主義理論に対する確信を深めたあと,やがて,遺伝と環境に支配された〈一家族の自然的社会的歴史〉を描きつくすという壮大な意図のもとに,20巻の小説から成る〈ルーゴン・マッカール叢書〉(1871‐93)を書き始める。また,小説執筆のかたわら,ゾラは自らの自然主義文学理論を《実験小説論》(1880)にまとめあげた。…
…次いでアナトール・フランスの同名の小説(1903)を映画化した《クランクビーユ》(1922)が,ドイツの表現主義映画と30年代のフランス映画の〈詩的リアリズム〉の橋渡しとなった作品として評価され,アメリカでも〈映画芸術の父〉といわれたD.W.グリフィス監督に激賞された。その後,アルプス山ろくの寒村を背景に少年と継母の心理的交渉を描いた《雪崩》(1923),写真屋に飾られた写真の女をもとめてさまようというジュール・ロマンのオリジナルシナリオによる〈ユナニミスム文学〉のロマンティックな映画化《面影》(1924),エミール・ゾラ原作の《テレーズ・ラカン》(1928)などをつくり,28年にはフランス国籍をとったが,ロベール・ド・フレールとフランシス・ド・クロアッセの喜劇をもとにした風刺映画《成上りの紳士たち》(1928)が議会と閣僚の威厳を非難するものとして公開禁止になり(1929年になって解除された),失意のうちにハリウッドへ渡り,グレタ・ガルボの最後のサイレント映画《接吻》(1929)を撮るとともに,ガルボ映画《アンナ・クリティ》のドイツ語版(1930)などをつくるが,ハリウッドになじめず31年に帰国した。 同じベルギー出身の脚本家シャルル・スパーク(1903‐75)との共同脚本と夫人のロゼー主演の《外人部隊》(1934),《ミモザ館》《女だけの都》(1935)は1930年代フランス映画の代表作であるにとどまらず,世界映画史を飾る作品に数えられているが,《女だけの都》はナチの侵入後ゲッベルスによって公開を禁止され,フェデルは戦争の間スイスへ避難することを余儀なくされた。…
※「テレーズ・ラカン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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