( 1 )特定のジャンルを指すものとして用いたのは、中国では①の「漢書‐芸文志」が古い。その内容は伝説や説話の類で、とるに足りない価値のないものととらえられている。日本では平安時代初期の「日本紀私記」や「聖徳太子伝暦」などに見える。
( 2 )近世に入り、唐話学の隆盛、中国の近代の文学に関する知識の浸透にしたがって、「小説」は、唐宋以降、特に明・清の白話小説を指すとともに、国文の戯作をも指すようになる。
( 3 )②について、novel 以外の関連する原語、fable, fiction, romance, story, tale 等に広げて考えれば、訳語としての「小説」は蘭学時代を含めて、坪内逍遙以前にもかなり一般化していた。
19世紀から20世紀にかけて、小説はもっとも代表的な文学の形式となった。そして21世紀においても、それは変わらないであろう。小説は、ほとんど文学の代名詞だとさえいえる。しかしそのために、かえって小説とは何か、という定義が下しにくくなっている。小説ということばから思い浮かべるもの、想像されるもの、それらがあまりにも多様化したため、一つの定義では総括できそうもない、というのが実状であろう。
作家や批評家や文学研究家は、それぞれの小説観をもっている。その理念、その様式はかならずしも一致しない。そしてそれは、現代に限ったことではない。しかし現代における小説ということばの多様化、混乱は、過去のどの時代とも違っている。これは、小説というものが、人間の歴史のなかで拡大し続けた結果である。長い時代の文明や文化のなかで変化し続けてきた結果である。その変化、拡大による多様化は、日本だけでなく、世界的な現象である。そして、だからこそ現代は、小説とは何かという問題を、日本文学の問題としてだけでなく、世界文学の普遍的な問題として、改めて復習してみるのによい機会であるともいえるだろう。
[後藤明生]
もともと小説は、文学史のなかにもっとも遅れて出現したジャンルであった。そして、これも世界共通である。このことは、文学の起源がそもそも口承であったことを考えれば、当然だといえる。つまり、「はじめにことばありき」である。そして、ことばは神とともにあった。この「神」は、特定の宗教の「神」ではなく、いわゆる「神話」の神々という意味である。
日本の場合には『古事記』『日本書紀』などがこれにあたるが、世界でもっとも大衆化しているのはギリシア神話だろう。そして、中国の場合にはこの後に述べるが、ヨーロッパ文学の起源はギリシア神話にある。ここからさまざまな文学のジャンルが発生した。まず叙事詩で、ホメロスの『イリアス』『オデュッセイア』の2編はその代表である。
叙事詩が神々や英雄を描いたのに対して、叙情詩は個人の感情を表現した。ギリシア文学を代表する悲劇は、ディオニソス神の祭礼に奉納する競技として開始された新しいジャンルであるが、劇中の対話は、やはり韻律をもった詩から始まっている。また悲劇の素材は原則として神話からとられた。
これに対して喜劇は、いわゆる世話物で、日常生活や政治や事件や実在の人物が素材にされ、遠慮なく批判されたり、風刺されたりした。のちに喜劇も、ディオニソス神の祭礼に奉納する競技となったが、もともとは「茶番劇」や、風刺的な対話、ファルスなどの散文だったらしい。ギリシア喜劇はそれらを吸収した新しいジャンルである。どういうわけか、ギリシア喜劇では、完全な形で残っているのはアリストファネスの作品だけだということであるが、『女の平和』にしても『蜂(はち)』にしても、そこには、悲劇の重々しいせりふとは反対に、俗語、卑語がふんだんに用いられている。つまり、発生、素材、主題、言語、すべての点でギリシア喜劇は、いわゆる小説に近かったといえる。
[後藤明生]
ギリシア時代にも散文は書かれた。ただしこの「散文」は、哲学、歴史、地誌学、雄弁術などであって、小説ではない。プラトンの対話篇は、これまでの分類では哲学のジャンルに入れられている。実際、それらは、ソクラテスとさまざまな人物との対話形式による「プラトン哲学」に違いない。しかし、プラトンの対話の形式は、単なる哲学のための道具としては、あまりに手がこんでいる。『饗宴(きょうえん)』などはとくにそうである。
『饗宴』の主題はエロス論である。そしてそれはソクラテスの説ということになっているが、その饗宴は十数年前に行われたことになっており、その後何年かたって、そこに出席していた一人物からその模様を聞いたアポロドロスなる青年が、そのあとさらに何年かたって、彼の友人たちに自分が聞いた話を聞かせる、という形になっている。
つまり、この対話は三重の構造をもつ。まずアポロドロスと友人たちとの対話が現在の枠組みとしてある。その内側に、饗宴の模様を語ってくれた人物とアポロドロスとの数年前の対話があり、そのもう一つ内側に十数年前に行われた饗宴そのものの場面がはめ込まれている。しかも、その饗宴の出席者はソクラテスほか7名で、各人のエロスをめぐる演説が、対話のなかの対話として延々と続く。これだけをみても、プラトンの対話篇は単なる哲学のための道具ではない。これはすでに、対話篇という新しいジャンルの創造である。そしてそれは、もっとも小説に近いジャンルだといえる。
たとえば、その饗宴には喜劇作家アリストファネスAristophanēs(前450―前388以後)も出席しており、演説の前にひどいしゃっくりの発作をおこす。それから、人間はいまは男女両性であるが、大昔はもう一つの両性具有の性があったという「人間三性説」を唱える。これが、いわゆる「プラトニックラブ」として伝えられている説の原型であるが、それをアリストファネスに語らせているのは、もちろんプラトンのフィクションである。
また、ソクラテスにエロスの講義をしたという、ディオティマという謎(なぞ)めいたシャーマン的な女性も、架空の人物である。かと思うと、女の楽隊を引き連れて突然乱入してきたアルキビアデスに絡まれ、助けを求めるソクラテスの描写もある。それらはすべて小説的であるが、もっとも新しい意味で小説的であるのは次の点であろう。
饗宴も終わりに近く、ぶどう酒に酔ったアリストファネスは居眠りを始める。その彼を前にしてソクラテスは次のように語る。悲劇と喜劇の違いは素材によるものではなくて、「術」によるものだ、と。これは、先に述べた、悲劇は神話、喜劇は世話物という「素材論」を真正面から否定する「方法論」である。
[後藤明生]
このプラトンの悲劇および喜劇批判は、対話篇という形式についての、プラトンのはっきりした意図を物語っている。彼自身は、対話篇とは詩と散文の「中間のもの」だ、といったそうであるが、この「中間のもの」は、詩にも散文にも属さないジャンルということだろう。もちろん、悲劇にも喜劇にも属さない。しかも、ただ属さないだけでなく、それらの、すでにあるジャンルを批判するジャンルである。そして、その点において、プラトンの対話篇はもっとも小説的だといえる。つまり、既成の、先行するさまざまなジャンルを批評することによって出現した新しいジャンル、それが世界の文学史にもっとも遅れて登場した小説というジャンルにほかならないからである。
これは、小説がすべてプラトンの対話篇のような哲学的なものだ、ということではない。また、それ以前にあった他のジャンルよりも上位に属する高等なる文学ということでもない。要するに、兄弟でいえば末っ子のようなものであって、よくもあしくも、兄や姉たちのさまざまな性質や要素を吸収し、その影響を受け、それらを模倣しながら、同時にそれらを批評することによってしか存在しえない、といった性質のジャンルだということである。
[後藤明生]
つまり小説は、その発生において、そもそも混血的、複合的なものであった。また、「模倣」と「批評」という相反する要素を同時にもった分裂体であった。もともと定義しにくいジャンルだったのである。そして、その性質は、20世紀も世紀末を迎えた現在、いまなお変わっていないが、この定義しにくい「末っ子」はいつごろ誕生したのだろうか。
西洋では、ギリシア・ローマ時代のあとにきた中世においてだといわれている。中世はキリスト教と封建王侯の時代であり、キリスト教はやがて、西欧を中心とするカトリック派と、ギリシア、スラブなどのギリシア正教会派に分裂した。そして1096年、カトリック派の十字軍によるイスラム圏への遠征が始まった。
[後藤明生]
十字軍の大遠征は失敗に終わったが、結果として東西世界の交通を発達させ、聖地への騎士や物資輸送の拠点となったベネチアは、貿易港として繁栄した。そしてもう一つ、いわゆる中世騎士道物語を生んだ。もちろん、騎士道物語の歴史は十字軍よりずっと古い。その代表的なものがイギリスのアーサー王伝説である。この伝説的王公と円卓の騎士物語は、ヨーロッパ中に無数の英雄物語「武勲詩」を生んだ。それらは主として吟遊詩人や旅芸人たちによって町や村の四辻(よつつじ)や広場で朗誦(ろうしょう)された。つまり大衆のための娯楽的な朗誦文芸である。
中世ヨーロッパにおける貴族・知識階級の公用語はラテン語であった。しかし大衆・農民はそんなことばは知らない。したがって吟遊詩人や旅芸人たちは、大衆・農民たちのことば=ロマン語で語り、朗誦した。ロマン語とは、ごく簡単にいえば、ラテン語の口語が変化したもので、南フランス(ロマンス地方)で使われていた日常語(方言、俗語)である。そして、そのロマン語で語られ、朗誦された英雄武勲詩、騎士物語、英雄・騎士たちの恋愛物語がロマンつまり小説の起源とされている。英語ではロマンスである。
ロマンスは騎士たちの武勇と恋の冒険譚(たん)である。十字軍遠征はロマンスに新しい材料を提供した。古い武勲詩や騎士道物語に登場する伝説化された特定の騎士や英雄ではない、新しい無数のヒーローを生んだ。架空のヒーローも誕生したであろう。なにしろ200年にわたって何十万という騎士たちが異教徒の国へ遠征したのである。古い伝説や英雄譚から解放されて自由になった物語は、同時に異国の情報源にもなったであろう。ここで、古い類型としてのロマンス以外の、新しいいくつかの型をもつロマンス作者の存在が浮かび上がってくる。
[後藤明生]
しかし、なによりもロマンスを大発展させたのは、紙と印刷の出現である。紙は14世紀に出現した。それから木版印刷が現れ、15世紀なかばにはドイツ人のグーテンベルクによって本格的な活版印刷が発明され、これがロマンスを一変させた。書物の量産である。活版印刷は、吟遊詩人や旅芸人にかわって、直接ひとりひとりにロマンスを送り届けることを可能にした。活字を媒介にして作者と読者の「一対一」の関係が成立したのである。活版印刷の革命は、物語の文体にも及んだ。吟遊詩人たちによって朗誦されるにふさわしかった叙事詩的、叙情詩的な文体よりも、正確で、読みやすい文体が歓迎された。貴族的な、修飾の多い文章よりも、日常的で簡明な散文が要求された。
[後藤明生]
こうして、中世騎士道という「勧善懲悪」をたてまえにしたメロドラマ=ロマンスは産業化されたが、14世紀なかばごろ、イタリアにロマンスとは別の新しいジャンルが生まれた。ボッカチオの『デカメロン』である。これは別名「十日物語」とよばれるように、ペストを逃れて別荘に避難した10人の男女が、退屈しのぎに1人ずつなにか物語をするという形式で、それぞれの物語の内容は、ロマンス的なもの、エロティックなもの、滑稽(こっけい)なものなどの集合体であり、王侯貴族から僧侶(そうりょ)、商人、芸人、農民、料理人その他、当時のイタリアのさまざまな階層に属する人物が登場する。
この新しいジャンルはイタリア語で「ノベルラ」novellaとよばれた。これは英語の「ノベル」で、「新奇なるもの」を意味する。そして、西洋文学においては、このロマンスとノベルが小説の二つの源流だとされている。虚構を意味する英語のフィクションは、その両者をあわせたものと考えてよいだろう。そして、そのロマンスとノベルという英語を、坪内逍遙(しょうよう)は『小説神髄』のなかで「小説」と翻訳した。
[後藤明生]
『小説神髄』は、ロマンスからノベルへ、という小説進化論だともいえる。同時に、日本の小説は「勧善懲悪」の道具としての戯作(げさく)から脱し、小説という芸術の一ジャンルとして自立すべしという、小説改造論である。ただ、ロマンスとノベルとの関係は、現在ではかならずしも進化論的には考えられていない。むしろ、スタイル、方法、テーマなどによって、小説を「ロマンス型」と「ノベル型」に区分する場合が普通である。
また、「小説」ということばが『小説神髄』によって初めて日本に出現したわけでもない。しかし、それを西洋のロマンス、ノベルの概念を表す翻訳語として用いたのは、逍遙が初めてである。そして、日本の近代小説の概念は、いちおうその翻訳語によってできあがった。つまり、それまで「物語」「説話」「戯作」「草子(そうし)」「読本(よみほん)」などと、さまざまなよび方をされてきたものが、「小説」という文学用語によって、初めて総括され、定着したのである。
[後藤明生]
では「小説」ということばはいつ、どこからきたのか。これは中国産であり、最初からいまのように複雑なものではなく、単純なものであった。たとえば、古代中国の道教書『荘子(そうじ)』では、文字どおり、小さな説、取るに足らぬ説を小説とよんだ。つまり天下国家を論じる説が大説であり、儒教、仏教、道教の経典が主流であった。また前漢の歴史書『漢書(かんじょ)』「芸文誌(げいもんし)」では、民間の小事件、流行、風俗、噂(うわさ)話などを小説とよんだ。つまり市中の小情報で、それを集める役人が稗官(はいかん)とよばれた。稗は米の砕けたものという意味で、稗官すなわち下級官吏ということになり、彼らの報告書は稗史とよばれた。
稗史は文字どおり歴史の断片であり、信じるに足りないデマに類するものもあった。行政者は、いわゆる「下情」を知る資料としてそれを収集させたのである。稗官の制度が廃止されたあとも、これらの収集を続ける者があり、彼らが「小説家」とよばれた。もちろんこの「小説家」は、いま用いられている意味とはまったく別である。むしろ反対に近い。彼らはあくまでも蒐集(しゅうしゅう)家であり、記録者であり、個人の主観、想像、思想によって断片を書き換えることはしなかった。つまり、古代中国においては「小説」も「小説家」も文学用語ではなかった。
中国文学の正統も、ギリシアと同じく、詩、歌、賦、詞などの韻文および文言(文語体散文)であって、紀元前1000年ごろ成立したといわれている『詩経』は、世界最古の詩集である。
[後藤明生]
しかし中国における小説の扱われ方は、小説というものの発生、変成の典型的な過程を示すものといえる。最初それは、文学でもなく、歴史でもなく、思想でもなかった。それらのどの部類にも分類されない、体系外の雑物として扱われてきた。それが、六朝(りくちょう)に入ると、その内容によって「志怪」と「志人」に分類された。「志怪」は、幽鬼物語、異類婚、変形譚(たん)、転生伝説などの怪異譚であり、「志人」は、ある人物の品評、エピソード、滑稽譚などである。唐代に入ると、これに「伝奇」が加わった。「伝奇」も怪異譚であるが、「志怪」の「志」が記録の意味であるのに対して、「伝奇」の「伝」は「物語る」の意味をもつ。つまり、そこにようやく、単なる記録ではない、「物語る」者=個人の作意、主観が認められたわけである。ここで、最初は市中の稗史であった「小説」に、虚構の要素が加わった。また、その虚構の作者の存在が加わった。宋(そう)代を経て明(みん)代に入ると、瞿佑(くゆう)(1341―1427)が『剪燈新話(せんとうしんわ)』を書き、また『三国志演義』(1494)、『水滸伝(すいこでん)』(1510)、『金瓶梅(きんぺいばい)』(1600ころ)とともに中国四大奇書とよばれる『西遊記(さいゆうき)』(1570ころ)が書かれた。
[後藤明生]
この小説がどのようにして現在読まれているような形になったか、その変成の過程は、そのまま小説というジャンルの発生、発展の歴史だともいえる。つまり、まず最初に唐僧玄奘(げんじょう)の史実があり、『大唐西域記(だいとうさいいきき)』『慈恩寺三蔵法師伝』が書かれた。そこから無数の伝説が生まれ、宋代に入って説教書『大唐三蔵取経詩話』となり、それが辻説法師(つじせっぽうし)、遊芸人たちによって無数のバリエーションを生み、元(げん)代に入って「平話」となり、雑劇となり、「仮面」を生んだ。実際、「仮面」による獣面人身の妖怪(ようかい)どもは人間のせりふを語ることができるのであるから、仮面劇によってフィクションの世界は飛躍的に拡大したのである。
そして次の明代に入り、それらのすべてのジャンルを吸収し、総合した「超ジャンル」としての小説『西遊記』は書かれたといえる。この間、900年以上である。この生成、発展のプロセスは、小説というジャンルと、それに先行する他のさまざまなジャンルとの関係を、典型的に示しているといえるだろう。しかし、もちろんこれは近代小説ではない。中国近代小説の成立は、日本の場合と同様、西洋の介入によらなければならなかった。
[後藤明生]
日本のもっとも古い書物は『古事記』(712ころ)である。ついで『日本書紀』があり、いずれも国家・民族の起源を語った神話、伝説、説話などによる国史である。と同時に、そのどちらにも、いわゆる「記紀歌謡(古代歌謡)」とよばれる恋愛、戦闘、狩猟、祭祀(さいし)など古代人の生活全般を表現した長短さまざまな歌が収録されている。そのあとの『万葉集』が、文字で書かれた日本初の文学であるが、文学の始まりが詩歌であったこと、また、それらの詩歌が口誦(こうしょう)され、節をつけて歌うことのできるものであったことも、中国、ギリシアと同様である。
ただし、『古事記』にしても『万葉集』にしても、その出現は中国、ギリシアの古典から1500年以上も遅い。これは、日本が固有の文字をもたなかったことを考えれば当然といえるだろう。漢字が輸入されたのは4世紀なかばごろといわれており、以来、公の文書にはもっぱらこれが用いられた。男性の文学ももっぱら漢詩文であった。のち、古来(文字以前)の日本語に当てはめて漢字を変形させた仮名文字がつくられ、和歌、女流文学はこれを用いるようになった。
つまり、日本文学は、そもそもの始まりにおいて、古来の日本語と中国の文字との混血文学である。このことは、日本文学を考える場合、つねに忘れられてはならない。
日本で最初の物語は『竹取物語』(900ころ)だといわれている。中国の歴史では唐代末期にあたるが、これは文字の使用が遅かったわりには早い発生である。作者は不詳で、内容形式は「伝奇」に相当する。平安時代は貴族社会で、わが国の物語はまずその時代に発生したわけであるが、その平安文学は次の3種に大別することができる。「伝奇物語」「歌物語」「日記」である。空想性、虚構性の強い「伝奇」の系統からは『うつほ物語』『落窪(おちくぼ)物語』などが生まれた。日常性、私性の強い「歌物語」「日記」の系統では『伊勢(いせ)物語』『土佐日記』などが代表である。そして、それらの平安文学の3要素を取り入れ、総合したのが『源氏物語』である。
[後藤明生]
作者の紫式部は当時の中流以下の貴族藤原為時(ためとき)の娘で、宮廷の女官であった。しかし、光源氏という美男貴族のさまざまな女性遍歴を描いたこの物語は、作者の体験や実生活からまったく独立した虚構の世界である。その点においても、『源氏物語』は、日本の小説史上、特筆されるべきである。日本文学史だけでなく、世界文学史上の傑作でもある。もちろん、それ以後の文学に与えた影響も大きい。というより、それ以後の日本文学は、この物語抜きには考えられないといっても、けっしていいすぎではないであろう。優れた小説は、一時代に特有の時代精神や時代の価値観を超えて生き続ける。それが「古典」とよばれている作品であるが、と同時に、いかなる小説も時代と無関係には生まれてこない。『源氏物語』もけっして例外ではなく、宮廷を中心とした平安貴族文化のなかからこの物語は生まれたのであり、また、その文化がなければ、この偉大なる架空の物語=虚構が受け入れられることもなかったであろう。
平安王朝文学の理念は、一言でいえば「もののあはれ」だといわれている。『源氏物語』は、その美的理念、美意識を完成させたものであった。それをさらに日本文学の最高理念、日本文学の文学精神そのものとして絶対化したのが、江戸中期における本居宣長(もとおりのりなが)の『源氏物語玉の小櫛(おぐし)』である。
[後藤明生]
しかしその同じ平安時代には、もう一つの散文のジャンルがあった。『日本霊異記(りょういき)』に始まる「説話」集で、末期には『今昔(こんじゃく)物語集』が成立した。「天竺(てんじく)(インド)」の部、「震旦(しんたん)(中国)」の部、「本朝(日本)」の部と三大部門に分かれた全31巻で、「本朝」の部には貴族、僧侶(そうりょ)、武士から、貴族文学(物語)にはみることのできない農民、商人、漁夫、芸人、遊女、くぐつ、盗賊、乞食(こじき)に至る、ありとあらゆる階層の男女が登場する。鳥獣、妖怪変化(ようかいへんげ)も登場する。蛇淫(じゃいん)、狐妖(こよう)、鬼女、天狗(てんぐ)など、まさに百鬼夜行であって、貴族社会とは裏腹の暗黒、貧困、猥雑(わいざつ)な現実が生々しく描かれている。
その数は1000編を超えるが、すべて「今は昔」で始まる。文体は単純、簡潔で、和漢混交文と俗語、卑語が自在に同居している。説話は、特定の語り手、個人の思想や主張を表面に表さない形式であるが、話のあとにかならず「寸評」がつく。歴史的事件、人物の記述のあとに「太子公曰(いわ)く」と「寸評」をつけた司馬遷(しばせん)の『史記』と同形である。ただし『今昔物語』の寸評は、ある個人の批評ではない。原則的に説話には、語り手としての個人は存在しない。
しかし登場人物は、すべて例外なく「寸評」において批判され、風刺される。この作者不在の批評は、たてまえとしては仏教や儒教の教訓だといえる。しかし、実際に読んでみると、それは仏教とか儒教の体系を無視した、自由で現実的な文明批評、人間批評である。あるときには、たてまえとしての儒教や仏教そのものさえ批評する本音だともいえる。
芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)は、『今昔物語集』の芸術的生命は生々しさだけでなく、brutality(野性)の美しさであり、「優美とか華奢(きゃしゃ)とかには最も縁の遠い美しさである」といっている。そして「本朝世俗部」に取材した『藪(やぶ)の中』その他のパロディー小説を書いた。
[後藤明生]
貴族にかわって新興階級となった武士が支配した鎌倉時代には、『平家物語』が生まれた。これは、「読む」物語『源氏物語』に対して、「平曲」として琵琶(びわ)にあわせて「語る」ための物語であって、そこから「語物」とよばれる独自の文体が生まれた。
七五調を基本にした和漢混交文で、節をつけて歌う韻文でもなく、単なる「会話」的な散文でもなく、両者の中間である。漢詩と和歌を複合した「和漢混血」の韻律といってもよいだろう。「語り手」は盲目の琵琶法師たちで、これはヨーロッパ中世の吟遊詩人や旅芸人にあたる。『平家物語』は彼らによってさまざまに変奏され、語り替えられ、増殖し続けた。そして貴族文学とは無縁であった大衆が新しい物語ファン層を形成した。新興勢力である武士と、没落していく貴族の物語が大衆の娯楽となりえたのは、琵琶という音楽との結び付きも大きかった。しかしそれだけではなく、「おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし」という、階級を超えた普遍的なテーマによる。
[後藤明生]
江戸時代の散文作品は、「物語」から「戯作」に変わった。徳川300年の政治は、対外的には鎖国、国内では士農工商の身分制度のうえで安定した。戦争がなくなり、武士は身分的には最上位に置かれながら、単なる制度上の存在となった。反対に、身分として最下位に置かれた町人は、経済力をもち、幕府や大名はその経済力に依存しなければやってゆけないという、制度と実体とが逆転した社会が出現した。文学の世界も同様で、武士階級の文学は漢詩文、和歌であり、これが上位に置かれた。それらの制度上の「上位」文学の下位に属する読み物が「戯作」である。
そこには前の時代までにはなかった「遊び」の精神が強く反映している。「物語」も「説話」も「平曲」も、室町期に現れた「御伽草子(おとぎぞうし)」や「説経節」なども、それぞれ庶民大衆の娯楽であった。ただ、それらが、なんらかの形で宗教、道徳、人生的教訓を含んだ「生活のための娯楽」であったのに対して、「戯作」は「娯楽のための娯楽」だといえる。いわば娯楽としての読み物の純粋化であり、娯楽の独立である。遊里案内、遊女評判記などを主とした「浮世草子」はその代表といえるだろう。これは現代のタウン情報誌的性格をもっている。また、都市小説的性格をもっている。そして、それらの新しい条件を土台にして、それを超えたのが井原西鶴(さいかく)の『好色一代男』(1682)である。
[後藤明生]
西鶴は談林派の俳諧(はいかい)から出発した。これは、当時の生活に困らない町人子弟の、いわば標準的な文芸入門コースであり、同時に遊民入門コースであったらしい。『好色一代男』の文体は、普通、俳文とよばれているが、それは、散文の間に俳句を挟んだ、散文と俳句の混合・折衷ではない。俳句と散文との混血による新しい散文の方法である。この西鶴の方法は、文体だけでなく、作品全体の構成についてもいえる。『好色一代男』は、主人公世之介(よのすけ)の7歳から60歳までの女性遍歴物語である。つまり、7歳から60歳までの54年間がこの物語の現実的な時間で、きちんと1年刻みのカレンダー式章立てになっている。しかし、その極端にリアルな時間的章立てとは正反対に、各章つまり1年は、たった一つのエピソードによって語られている。その年、ある場所における一つの事件=世之介と女性とのエピソードによって1年が終わる。したがって、物語のなかの時間は1年が1日、あるいはその女性とのエピソードに要する数時間にすぎない。これはカレンダー式時間の反対の時間である。
[後藤明生]
阿部次郎は『好色一代男おぼえがき』で、『好色一代男』は、長編小説としては「主人公の性格の一貫性を欠き」「一つの世界を作り上げようとする意志の欠乏からくる破綻(はたん)を含んで」おり、したがって長編小説ではなくて「短編小説の花輪(ノベルレンクランツ)」だと書いている。つまり、構成が平板で、短編小説的エピソードの羅列だということだろう。
この説は、おそらく西洋の、いわゆるビルドゥングスロマンBildungsromanを基準にしたものであろう。そして、これまでは、専門の西鶴研究家さえこの説に賛成してきたようであるが、ビルドゥングスロマンだけが長編小説の構成、方法ではない。ビルドゥングスロマンは、ひとことでいえば、主人公の人格形成物語である。主人公の精神、内面がどのように発展し、形成されたか。そのプロセスを描く長編小説であって、物語は、縦に一貫する「時間」を軸に成立している。
しかし『好色一代男』の「時間」は、縦に一貫する「時間」だけではない。阿部説は、そのもう一つの「時間」を見落としている。先にも触れたとおり、『好色一代男』の「時間」は、カレンダー式の極端に連続した時間と、「1年1話」という極端に飛躍し、省略され、抽象化された時間との組合せである。そしてこの相反する二つの時間の組合せが、この物語を虚構たらしめている「時間」なのである。
[後藤明生]
その点、『好色一代男』を現代語訳した吉行淳之介は、この小説をビルドゥングスロマン+ピカレスク・ロマン(ピカレスク小説)として読むことを提唱している。ピカレスク・ロマンについては『ドン・キホーテ』の部分で触れることにするが、ただ、「時間」に限っていえば、ビルドゥングスロマンが、縦に一貫する時間を軸にしているのに対して、ピカレスク・ロマンは、主人公が諸国を遍歴、流転する空間性をもつ。いわば横の「時間」をもつ。
その意味で吉行説は一つの新しい解釈といえる。『好色一代男』の、人格主義的・教養主義的解釈の限界はすでに明らかだろう。物語=小説における叙事詩的「一貫性の法則」は、20世紀においては、すでに破算した「神話」だからである。つまり、ビルドゥングスロマンの基準からみて「破綻」とみなされたものが、実はもっとも現代的だということであるが、この点についてはまた後で触れる。
[後藤明生]
『好色一代男』の54年=54章という構成は、『源氏物語』54帖(じょう)の枠組みを意識したものだ、といわれている。枠組みだけでなく、町人・世之介は貴族・光源氏のパロディーであり、『好色一代男』における「をかし」の精神は、『源氏物語』における「もののあはれ」に対立する、もう一つの文学理念である。
もともと西鶴は反逆者であった。花鳥風月を至上とする伝統俳諧に反逆し、貞門(ていもん)一派から「おらんだ俳諧」などと罵倒(ばとう)されたのである。「あはれの文学」としての『源氏物語』と、「をかしの文学」としての『好色一代男』の関係は、ほとんどそのまま、花鳥風月の貞門派に対する西鶴の関係に一致する、といえるだろう。
[後藤明生]
西鶴の「笑い」は、江戸時代の、制度=たてまえと実体=本音が転倒した社会の必然的な産物である。しかし、それは、ただ実力を握った新興階級としての町人(ブルジョアジー)の、武士および武士道に対する、単なる風刺や嘲笑(ちょうしょう)ではない。単なる楽天的な、町人肯定の「笑い」でもない。実際、西鶴は町人でありながら、身分としての町人を自ら放棄したアウトサイダーであった。武士でもなければ町人でもなく、出家した僧侶(そうりょ)でもない、一遊民である。すでに自己の階級に安住できない自意識をもった近代的な都市人間である。『好色一代男』の笑いは、その宙づり状態にある遊民=アウトサイダーの目による批評的「笑い」である。町人・世之介は、その目で描かれたグロテスクな戯画だともいえる。作者の意識は、ある階級に属する集団的なものではなく、すでに完全なる個人意識である。いかなる階級からもはみ出したアウトサイダーの自意識である。
当時の「大坂」そのものが、制度と実体の転倒のうえで成り立っている一つの虚構=フィクションであった。西鶴の目にはそうみえたに違いない。しかし、その転倒したフィクションとしての都市に存在する自己とは何か。つまり、フィクションとしての都市をみる目(批評)は、そのまま自分をみる目=自己批評とならざるをえない。これが西鶴の自意識であり、『好色一代男』の「笑い」は、その自意識による「笑い」、すなわち自己喜劇化による「笑い」である。そしてそれが『好色一代男』の近代性である。『源氏物語』がその超ジャンル性において、日本の小説の母であったのに対して、『好色一代男』は、その自己喜劇化の方法によって、日本の近代小説の父といえる。同時にそれは、本居宣長の「もののあはれ」論が日本文学唯一の美的理念ではないことの証明でもある。
[後藤明生]
上田秋成(あきなり)の『雨月物語』は、『好色一代男』の約100年後(1776)に刊行された。この怪談集は9編の怪異譚からなるが、それはいずれも中国古典あるいは先行するさまざまなジャンルのパロディー、翻案である。秋成も西鶴と同じく、まず俳諧から出発した町人であるが、彼はまた「私生児」でもあった。母親は大坂曽根崎(そねざき)新地の遊妓(ゆうぎ)であったといわれているが、紙油商人上田家にもらわれて経済的には裕福に育った。しかし、「父無シ其ノ故(そのゆえ)ヲ知ラズ」という「自像筥記(じぞうきょき)」中のことばと、彼の文学を切り離しては考えられない。つまり、彼にとっては、自分がこの世に出現した原因(父母)のうち、最初からその半分が不明であった。
これはそのまま『雨月物語』の世界だともいえる。集中の9編はいずれも、生者と死者、現世と霊界、人間と怪異とが、対等に棲(す)む世界である。すなわち、原因のわかる部分が五分、原因不明の部分が五分。つまり、条理と不条理が五分五分に共存する世界である。
それは「父無シ其ノ故ヲ知ラズ」という彼の「私生児意識」そのもののメタファーだともいえる。同時に、まさにわれわれが生存しているこの世界の構造そのものだともいえるだろう。『雨月物語』の、単なる「怪談」を超えた文学的普遍性は、そこにある。
[後藤明生]
『雨月物語』の文体は和漢混交体である点において『平家物語』と共通している。と同時に、その文体は『源氏物語』、謡曲、軍記物語、和歌、怪異譚、説話、その他先行するさまざまなジャンルの文体を組み合わせた織物である。つまり、文体も素材もテーマも、すべて古今「和漢」の混血、複合である。外来の思想体系、儒教、仏教、道教などの「理」=論理性をすべて「漢意(からごころ)」として排した本居宣長との論争は、当然だったといえるだろう。
[後藤明生]
『雨月物語』を『好色一代男』とともに江戸時代を代表する2作としてあげる最大の理由は、その小説としての近代性にある。たとえば『浅茅(あさじ)が宿』の主人公の名は「勝四郎」であり、『吉備津の釜(きびつのかま)』の主人公の名は「正太郎」、『蛇性の婬(いん)』の主人公の名は「豊雄(とよお)」である。もちろん、だから近代的ということではない。近代性は、それらの近代的な名前を与えられた人物たちの意識にある。
勝四郎は下総(しもうさ)の国の代々続いた農民(地主)であるが、農事を嫌い、絹の行商人にあこがれ、妻を残して京都へ出て行く。正太郎は武士から帰農した3代目農民であるが、やはり農事を嫌い、遊蕩(ゆうとう)のあげく、遊女と故郷を出奔し、妻の亡霊に取り殺される。豊雄は紀州の大網元の次男坊であるが、家業を嫌い、学問にあこがれて新宮(しんぐう)へ通い始め、蛇女に取り憑(つ)かれた。
彼ら3人に共通するのは、自分の境遇、階級に安住できない意識である。彼らの社会的地位は共同体のなかで安定しており、経済的にも富裕である。しかし彼らの意識は、そこに安住できず、はみだし、共同体内部において完結した人格をもつことができない。彼らの意識は、共同体内部と、共同体の外部に分裂している。そしてあるとき、何ものかに手招きされるようにしてさまよい出で、境界線を越え、未知なるもの=不条理に遭遇するのである。
それは共同体におけるエートスの崩壊だともいえる。秋成は、そこからはみだし、故郷を脱出していく個人意識を描いた。秋成は『雨月物語』において、安住の地を喪失し、分裂して宙づりになったそのような個人意識を、未知との遭遇=怪談という形に「異化」したのである。「小説」という用語はまだ使われていないが、事実上、小説の「近代」は、すでにそこから始まっていたといえるだろう。
[後藤明生]
活版印刷は小説を産業化し、だれでも買える値段で量産される小説は、ルネサンス以後、急速に発展した市民階級の一般的娯楽として大いに普及した。そして、この量産のシステムは、近代、現代においても同様である。しかし、小説そのものは時代とともに変化する。いつまでも騎士道物語が続くわけではない。「知的世界観に関する限り、近代は17世紀に始まった」と、ラッセルBertrand Arthur William Russell(1872―1970)はその『西洋哲学史』に書いている。そして、ティコ・ブラーエの天体観測データを基にしてケプラーが発見した惑星運動の三法則を紹介している。すなわち、惑星の軌道は楕円(だえん)であり、太陽はその焦点の一つにすぎない、というものである。ケプラーによるこの宇宙楕円説は、完全なるもの=円という、それまでの観念を打ち砕いた。世界の中心は一つではない。つまり、世界の形が変わったのである。
[後藤明生]
セルバンテスの『ドン・キホーテ』(1605、1615)の出現は、小説の世界におけるケプラー説だともいえるだろう。もちろん、この小説は、ある日突然生まれたのではない。スペインにはセルバンテスの前に、16世紀なかばごろ『ラサリーリョ・デ・トルメスの生涯』という、作者不明のピカレスク小説novela picarescaが存在していた。ピカレスク小説は、普通「悪漢小説」とよばれているが、わかりやすくいえば、世の中の形式主義を裏返しにして滑稽(こっけい)化する、暴露的、喜劇的リアリズムである。
この小説の主人公はもともとは農民であった。ところが騎士道物語に読みふけり、ついに猟も畑仕事もしなくなったばかりか、畑を売ってはロマンスを買い込む。買い込んではむさぼり読む。そしてついに騎士道物語のヒーローと同一化する。ときに彼、50歳。彼は「世の不正、不条理と戦うべし」という「騎士道」の声を聞く。それは同時に「甘美で高尚な」恋の夢想と結び付く。そしてついに、古ぼけた鎧兜(よろいかぶと)に身を固め、長槍(やり)を抱き、痩(や)せ馬ロシナンテにまたがって遍歴の途につく。その遍歴に、途中から農民の従者サンチョ・パンサが加わる。しかし2人の関係は、絶対的な縦の主従関係とはならず、楕円の二つの焦点のように横に並んでいる。ドン・キホーテのすべての行為、すべてのことばは、彼が読みふけった騎士道物語の「模倣」なのである。一方、サンチョ・パンサはリアリスト、ピカロである。ドン・キホーテの夢想と狂信は、サンチョの目によって笑われ、批評される。
[後藤明生]
『ドン・キホーテ』は、ロマンスによってつくられたロマンスのパロディーであり、ロマンスの模倣とその批評による楕円である。そして、その楕円の遍歴は、そのまま近代小説の出発となった。つまり、1605年は「近代小説元年」となった。
[後藤明生]
つまり『ドン・キホーテ』は、単なる一小説作品であることを超えて、近代小説における普遍的な「ドン・キホーテのテーマ」となった。文学における普遍的なテーマは、神話、伝説、説話、民話、童話などに起源をもつものが多い。たとえば「オイディプスのテーマ」などは、ギリシア神話が生んだもっとも代表的なテーマの一つだろう。また、「変身のテーマ」「分身のテーマ」などは、世界中の神話、伝説、説話、昔話、童話にみられるし、錬金術、中国の道教(タオイズム)、シャーマニズムの世界構造、仏教の輪廻転生(りんねてんしょう)思想、ソクラテスの霊魂論などにもみられる。オウィディウスの『転身譜』は、ギリシア神話中の「変身のテーマ」のコレクションであり、そのほか「貴種流謫(るたく)のテーマ」「シジフォスのテーマ」などがよく知られている。
小説が、先行するさまざまなジャンルを模倣すると同時に批評するという、そもそもの発生において「混血的」「分裂的」なジャンルであることは、プラトンの『饗宴(きょうえん)』を例にあげて始めに述べた。そして、ここでいう「普遍的なテーマ」というのは、その場合の先行する、あるいは同時代において隣接する、一つのジャンルと同じ性質をもつもの、という意味である。つまり、『ドン・キホーテ』は単なる一小説作品であることを超えて、一つのジャンルとなった。したがって、それをいかに意識し、それといかに格闘するかが、それ以後の近代小説の宿命となった。と同時に、それは、さまざまに模倣され批評されることにより、無限の変奏を可能にする普遍的なテーマなのである。
[後藤明生]
18世紀のヨーロッパでは、フランスが中心になった。それは、知識の領域においても、物質文明の領域においても、近代の最先端であり、ルイ王政による絶対的権力と、近代科学と近代経済の法則による、制度と秩序が確立された。
ルソーの『告白録』は、そのような近代化した制度、秩序への批判として書かれた。彼はまず、人間とはそもそも感性的存在であって、理性的存在ではない、と主張する。つまり、近代化された制度としての階級、知識、私有財産などいっさいの社会的条件を剥(は)ぎ取った存在、これが彼のいう人間の原型である。それが、人間性の自然であり、何ものにも支配されない一個の人間=私の内面(感受性)である。
[後藤明生]
彼は、近代化された制度=社会を、そのような「自然としての私の内面」を破壊し、疎外する悪としてとらえた。これが、彼の示した、近代化された社会と「私」(内面)との基本的関係式である。そして、その関係式によって、功利主義的な価値観と、その産物である「虚栄」を、物質文明と近代的知識の奴隷として批判し、そのような制度化され秩序化された知識、理性からの、感受性の解放を主張した。これが彼のロマン主義である。
ルソーのロマン主義は、18世紀のフランスの啓蒙(けいもう)思想家たちとかならずしも一致するものではなかった。しかし、結果として、フランス王政批判に結び付き、フランス革命のための重大な役割を果たすことになった。
[後藤明生]
19世紀は、「小説の黄金時代」とよばれている。その理由はいろいろ考えられるが、その一つは、この世紀の世界文学にアメリカ文学とロシア文学が加わったことである。
フランスでは、大革命のあと英雄ナポレオンが登場したが、そのモスクワ遠征軍にスタンダールも一将校として参加していた。彼は雪のなかを命からがら敗走し、そして2年後、ナポレオンの失脚によって、その文学は開始された。『赤と黒』は、スタンダールが心酔したナポレオン時代のあとにきた王政復古時代における作者の挫折(ざせつ)感とルサンチマン(怨念(おんねん))の産物である。彼は、美青年ジュリアン・ソレルと美貌(びぼう)の人妻レナール夫人の姦通(かんつう)事件を枠組みにして、貴族と僧侶(そうりょ)が支配する社会のシステムを暴露した。同時に、この小説は通俗恋愛心理学の教科書にもされたが、それは、男女の心理が徹底して紋切り型に分析されているためである。ジュリアンは、そのような紋切り型的恋愛心理学をロボットのごとくに実践するドン・キホーテだともいえる。
[後藤明生]
フロベールの『ボバリー夫人』も姦通小説である。女主人公エンマ・ボバリーは、修道女学校の寄宿舎でこっそり恋愛小説に読みふける。『ポールとビルジニー』その他、書名もあれこれ小説中に出てくる。彼女の頭のなかはそれら通俗恋愛小説の類型的場面でいっぱいになる。彼女はやがて田舎(いなか)医師ボバリーと結婚するが、その日常は、かつて頭のなかを満たしていたロマンスとは似ても似つかぬ退屈な世界であった。そこで彼女は、頭のなかを埋めていたロマンスを実行する。2人の男と姦通し、借金に追い込まれ、自殺する。つまり、この小説は、騎士道物語を読みすぎて騎士道のロボットになったドン・キホーテの女性版ともいえる。また、恋愛心理学のロボットであったジュリアンの女性版だ、といえないこともない。
この小説は、「ボバリー夫人は私だ」という作者の謎(なぞ)めいた名文句とともに近代文学史上不滅である。実際、この「名文句」の解釈をめぐって、いまなお日本では決着がつかず、「私小説」論を混乱させている。それだけでも、日本の近代小説とは切っても切れない小説だといえる。
この小説の思想は、ルソーのロマン主義の終焉(しゅうえん)、ということだろう。エンマの自殺は、当時の実証主義という非人間的な思想と、近代経済の原則によるシステムに支配された社会におけるロマンス病患者の死を意味する。では、「ボバリー夫人は私だ」という名文句はどうなるのか。
それは「写実」というこの小説の方法と無関係ではない。つまり作者は、「ロマンス=騎士道物語をただ退屈にしただけではないか」といわれるような物語を、ほとんど無表情に、人物の外側から描写し続ける。したがって、もし「ボバリー夫人は私だ」とすれば、それは「私」の描写だということになる。そして、それが退屈であるのは、実証主義や実験医学の代理人としての、医師であり夫であるボバリー氏の凡庸さのせいであり、また「借金」によるボバリー夫人の自殺は、「近代経済」の原則ということになるのだろう。
つまり、フロベールは、彼自身と社会の関係式を、ボバリー夫人と田舎医師ボバリー氏の関係に置き換えた。この関係式の変換が、彼の写実主義的虚構=リアリズム・フィクションである。そしてそれが彼の思想であり、方法であった。では、例の「名文句」はどうなるのか。それは、たぶんフロベールが心理的にちょっと気どってみたのであろう。つまり、「ボバリー夫人は私の分身だ」といえば、話は簡単だったのである。それが虚構というものの基本だからである。
フロベールと同時代のフランスでは、バルザック、ゾラ、モーパッサンたちが活躍した。彼らの文学はフランス自然主義とよばれ、いずれも日本の明治以後の小説に大きな影響を与えた。ある意味で彼らの影響は、フロベールよりも大きかった。近代写実主義の基本にもっとも忠実であったフロベールの方法=リアリズム・フィクションが、日本ではもっとも理解されにくかったのである。
[後藤明生]
ドイツでは、フランス中心主義に抵抗して、いわゆる「シュトゥルム・ウント・ドラング」運動(1770~1780)がおこった。そして、ドイツ文化の自立をスローガンとするこの運動のなかから、ゲーテの『若きウェルテルの悩み』が生まれ、そのロマン主義は全ヨーロッパを刺激した。また、彼の『ウィルヘルム・マイスターの修業時代』(1796)は、ドイツ教養小説=ビルドゥングスロマンの規範をつくった。
[後藤明生]
18世紀の後半にヨーロッパから分離した新しい国アメリカには、当然のことながら文学的伝統も古典もなかった。したがってポーはギリシア、ヨーロッパの古典から出発したが、短編の形式で書かれた彼の幻想・怪奇小説は19世紀を代表するだけでなく、20世紀文学にもさまざまな影響を与えている。
その一つは「都市のテーマ」である。近代の巨大都市は、土地や故郷を喪失した無数の根なし草人間を生んだ。彼らは群衆のなかで「ひとりごと」をいう。不安定な意識は分裂し、錯乱、妄想、幻想などを育て、犯罪が生まれる。街路、ビルディング、アパート、密室などから、ポーは小説の新しい空間を創造した。ロンドンの街をただ歩き続ける『群衆の人』は、その代表作である。『モルグ街の殺人』『マリー・ロージェの秘密』はパリが舞台である。それらの都市小説は近代推理小説の原型となり、日本にも日本近代推理小説を代表する江戸川乱歩(らんぽ)が誕生した。また、「分身のテーマ」による『ウィリアム・ウィルソン』(1839)は、スティーブンソンの『ジキル博士とハイド氏』より約50年早く書かれている。
[後藤明生]
短編小説のポーに対して、19世紀アメリカの長編小説の代表作はメルビルの『白鯨』である。伝説的な幻の白鯨を追い求める捕鯨船ピークォド号の船長エイハブの名は、『旧約聖書』「列王紀」の異教徒の王からとられている。また、最後にただ一人生き残ってこの物語の語り手となっているイシュメールは、『旧約聖書』「創世記」中のアブラハムの私生児の名である。そして、この小説全体は、『旧約聖書』「ヨブ記」のパロディーだともいえる。つまり、深淵(しんえん)の大魔王モービー・ディックは「ヨブ記」のレビアタンであり、それに挑戦するエイハブは、エホバの神に反逆するヨブだともいえるからである。
しかし、この小説が20世紀まで認められなかったのは、そのためではない。この小説の方法のためである。全133章からなる小説のうち、実際に白鯨を追跡し、白鯨と格闘する場面は最後の3章にすぎない。あとは、『旧約聖書』、ギリシア神話、哲学、歴史、考古学、航海史、錬金術、捕鯨史、海洋伝説、新聞記事その他、そのほか世界中の鯨に関する書物の断片を組み合わせた、書物による織物である。つまり、あらゆるジャンルを巨鯨のように呑み込んだ、超ジャンルとしての小説の見本のような小説だといえる。
この小説の扉には、『緋文字(ひもんじ)』の作家ナサニエル・ホーソンへの献辞が掲げられている。しかし、そのホーソンにも認められなかった。
南北戦争(1861~1865)後のアメリカでは、マーク・トウェーンが『トム・ソーヤの冒険』『ハックルベリ・フィンの冒険』などを書いた。俗語、方言、ほら話などをふんだんに用いた彼の小説は、アメリカ型の新しいピカレスク小説といえるだろう。
[後藤明生]
ロシアの近代は、ピョートル大帝(1世)のペテルブルグ(サンクト・ペテルブルグ)建設によって始まった、といえる。「ヨーロッパよりもヨーロッパ的な都市」というスローガンによるこの近代ロシアの首都は、1712年に完成した。そして、ロシアの近代小説は、ペテルブルグ抜きには考えられない。「ヨーロッパよりもヨーロッパ的な都市」とは、どんな都市か。それは古代ギリシア、ローマの様式から、ゴシック様式、ルネサンス様式、バロック様式、そして近代都市ロンドン、パリに至る建築様式のすべてを同時に並べた都市であった。ロシアは、いわゆる「タタールのくびき」といわれるモンゴルの支配によって、13世紀なかばごろから15世紀末までの約250年間、西欧との交流が断絶した。その250年の遅れを一挙にゼロ化しようとしたピョートル大帝の野心と夢を実現した空間、それがペテルブルグである。
ドストエフスキーは『地下室の手記』のなかで、ピョートル大帝が「西欧への窓」とよんだこの首都を、この地球上でもっとも人工的な街だ、と書いている。実際、ペテルブルグは、フィンランド湾に注ぐネバ川(ネバはフィンランド語で「泥」の意味)の河口の湿地帯の上に、突然、蜃気楼(しんきろう)のように出現した都市である。そのために、この街はいずれ神の怒りに触れて消滅するであろう、と噂(うわさ)されたらしい。ロシアの旧貴族たち、ギリシア正教会の高級僧侶(そうりょ)たちにとっては、ロシアの中心は絶対にモスクワでなければならなかったのである。
しかしピョートルは断固として西欧化を強行した。そのためには、彼を「アンチ・クリスト」よばわりした実弟アレクセイを処刑することさえ辞さなかった。そして、ギリシア語からつくられた古い教会スラブ語の文字を新アルファベットに変え、新しい官僚機構制度をつくり、ロシア文学でおなじみの「官等」を制定した。そして、モスクワ時代の旧貴族たちにとって「黄金時代の象徴」であった、スラブ派の「髭(ひげ)」を剃(そ)り落とすことを命じた。
これがピョートルによるロシアの文明開化である。その手本はフランスで、フランス語が、貴族、知識階級、官吏の公用語となった。この徹底した文化大革命は、スラブ派(スラボフィル)と西欧派(ザーパドニキ)の分裂を生み、それは、19世紀に入って、知識人を二分する「スラブ派」対「西欧派」の大論争となった。そして、同時にそれは、19世紀の近代ロシア小説の一大テーマでもあった。すなわち、「露魂(ろこん)」と「洋才」の分裂=混血のテーマである。
この「露魂」「洋才」の分裂=混血のテーマは、そのままペテルブルグという都市のテーマでもあったといえる。実際ペテルブルグは、スラブと西欧の分裂=混血による近代ロシアの象徴であり、ほとんどメタファーであった。つまり、この首都を描くことは近代ロシアを描くことであり、近代ロシアを描くためには、この首都を描かなければならなかった。なにしろペテルブルグは、ロシアであってロシアでなく、ロシアでもあればヨーロッパでもあり、ロシアでもなければヨーロッパでもない、そういうロシアの首都だったからである。
いわばペテルブルグは、それ自体がすでに、都市というフィクションであった。そして、プーシキン、ゴーゴリ、ドストエフスキーは、この首都をそれぞれの方法で描いた。
[後藤明生]
ロシアの近代小説はプーシキンの『エウゲーニー・オネーギン』(1825~1832)に始まる。彼は貴族の子弟が学ぶ学習院(リツェイ)時代、早くもその才能を認められ詩人として出発した。そしてイギリスの反逆貴族バイロンの影響を受けたが、『オネーギン』においては、すでにバイロンはパロディー化されている。つまり、この小説の主人公オネーギンは、いわばバイロンの『チャイルド・ハロルドの遍歴』を読みすぎて、自らロシアのチャイルド・ハロルドを演じるドン・キホーテとして描かれている。また女主人公のタチヤーナは、これまでの解説では、ロシアの美と魂を代表するロシア女性の理想像ということになっている。しかし、オネーギンに本心を打ち明けようとしてペンをとると、いつのまにかその手紙はフランス語になっていた、とプーシキンは書いている。
オネーギンは、ルソー、アダム・スミスを読み、ラテン語のエピグラム、ホメロスやオウィディウスの一節を暗誦(あんしょう)し、もちろんフランス語は自由自在という貴族青年である。これはほとんど作者の分身といえるが、プーシキンはそれを、「ロンドン仕立てのマントを着たペテルブルグっ子」「ロシア製ヨーロッパ人」の典型として描いている。
この小説は、実は韻文で書かれている。しかし、そこには、叙情詩、叙事詩、風刺詩、自作批評、茶番、悪ふざけや噂話、古典や同時代文学者の文体模写、引用など、あらゆるジャンルのレトリック、文体が自由自在に取り入れられている。それが、スラブと西欧の混血=分裂を自己喜劇化するプーシキンの方法だったのである。同時に彼は、ゴーゴリの「笑い」の最初の発見者でもあった。
[後藤明生]
プーシキンが近代ロシアの反逆貴族だとすれば、ウクライナからペテルブルグに出てきたゴーゴリは「さまよえるロシア人」であった。最初彼は、ウクライナ地方の、魔女や妖精(ようせい)などが出没するフォークロアを素材にした『ジカニカ近郷夜話』(1831)でデビューし、プーシキンに認められた。
しかし、やがて彼のテーマはペテルブルグそのものに移り、『ネフスキー大通り』『狂人日記』『鼻』そして『外套(がいとう)』を書いた。これらは「ペテルブルグもの」とよばれる、ロシア文学の新しいジャンルとなった。ロシア文学の、というより世界文学の新しいジャンルといったほうがよいであろう。
ポーの都市小説とゴーゴリの「ペテルブルグもの」との決定的な相違は、次の点である。ポーは、近代巨大都市の産物である「根なし草人間」を、見知らぬ他者たちの群れのなかを1人で歩き続ける「群衆の人」として描いた。それに対してゴーゴリは、ペテルブルグという分裂=混血都市を、人間関係の謎(なぞ)の空間、迷路としてとらえた、ということである。
[後藤明生]
たとえば『鼻』は、八等官の鼻がある朝突然消えてなくなっていたという「事件」で始まる。彼は新聞に鼻探しの広告を出そうとするが、係員との会話はまるでトンチンカンである。警察署長宅へ出かけて相談をもちかけるが、話せば話すほど会話はどんどんずれていく。このずれが、ゴーゴリにおける人間と人間の、謎としての関係である。迷路としての関係である。このずれは悪夢的な不条理だともいえる。悪夢は原因不明の恐怖である。しかし、ゴーゴリはただ『鼻』という奇怪なる悪夢を描いてみせたのではない。彼は悪夢の方法によって、アイデンティティを喪失した都市人間の意識の分裂を表現した。また『鼻』には「分身のテーマ」も含まれている。それはドストエフスキーの世界につながる。また20世紀のカフカにもつながる。「悪夢の方法」も同様である。『外套』は、ゴーゴリの喜劇の方法を考えるうえでもっとも典型的な作品だといえる。それはひとことでいえば、ロシア・フォルマリストの一人ボリス・エイヘンバウムが『ゴーゴリの「外套」はどのように作られているか』(1919)において指摘したとおり、「語り」という方法による「素材」の「異化」である。この中編小説の主人公はすでに世界中に広く知れわたっている。彼は40を過ぎてまだ独身の万年九等官である。彼は新しい外套を買うためにお茶代まで節約する。しかし、ようやく新調された外套は、何者かによって、あっというまに奪われ、哀れな九等官は死ぬ。そして、その幽霊が他人の外套を剥(は)ぎ取るという噂がペテルブルグ中に広がる。
つまり、この小説の素材、ストーリーは「哀話」であった。しかし小説『外套』は世界中のだれが読んでも喜劇である。そして、この謎を「知恵の輪」のように鮮やかに解いてみせたのが、ロシア・フォルマリズムの「異化理論」であった。すなわち、ゴーゴリは「語り」=「文体」という方法によって、あたかも錬金術のごとく、哀話としての素材を喜劇に「異化」したのである。この『外套』論は、ベリンスキー以来のリアリズム理論によるゴーゴリ解釈を「コペルニクス的」に反転させた。同時にこの理論は、始めに紹介したプラトンの方法論にそのまま通じる。
[後藤明生]
「われわれはみなゴーゴリの『外套』から出てきた」とドストエフスキーはいった。これはなにもロシア文学に限らず、小説は先行するテキスト=作品の「模倣と批評」から生まれるという意味において、普遍的な小説論であり、また小説史論であるということができる。事実、1846年に出現したドストエフスキーの『貧しき人々』は、文字どおりゴーゴリの『外套』の「模倣と批評」そのものである。この小説は、中年を過ぎた貧しい独身の九等官と、貧しいみなしごの娘との往復書簡体であるが、この九等官の外的=社会的条件はほとんど『外套』の九等官そっくりである。ただ、決定的な違いは、『外套』の九等官がほとんど自分のことばをしゃべらない、いわば黙示録的存在であるのに対して、ドストエフスキーの九等官は少女への手紙のなかで徹底的にしゃべりまくる。つまり、ゴーゴリが、九等官を外部から描き出したのに対して、ドストエフスキーは、外的条件において『外套』の主人公とそっくりの九等官を内面から描いた。
そして大胆不敵にも、作中の九等官に『外套』を読ませ、あんな九等官などペテルブルグには存在しない、といわせている。つまり小説のなかで小説を批評する。いわば「九等官のテーマ」を変奏した「メタ小説」であるが、この小説のもう一つのテーマは「三角関係のテーマ」である。『外套』は、外套を奪われる物語であり、『貧しき人々』では、ある日突然出現した中年の地主に少女を奪われるのである。少女がすでに地主の馬車で出発したあと、九等官は「私はこれからだれあてに手紙を書けばいいんです」と書く。この最後の訴えは、なるほど悲痛である。しかし彼は同時に、「あちらへ着いたらまた手紙を下さい」とも書いている。ここで九等官は、単なる老いたる失恋者から「夢想家」に変貌(へんぼう)する。彼の悲痛さは、現実的なものから幻想的なものとなる。その後もドストエフスキーは、この「夢想家のテーマ」「三角関係のテーマ」を、さまざまな組合せによって繰り返し書き続けた。シベリア流刑(1849~1859)以前の代表作『分身』は、「夢想家」「三角関係」に「分身のテーマ」が結び付いたものといえる。
[後藤明生]
ドストエフスキーの作中人物の意識や思想やイデオロギーや行動は、文芸評論家や専門の研究家だけでなく、世界中の哲学者、宗教学者、精神分析学者などによってさまざまに分析されたり、定義づけられたりしてきた。しかし、その最大のテーマは、『地下室の手記』の「語り手」=「私」による次のことばによって総括できる。「ヨーロッパの知識教養を身につけたために、ロシアの大地と国民的本質から切り離された人間、それがわがロシアの知識人である」。
すなわちそれは、スラブと西欧との混血=分裂のテーマであり、「露魂」と「洋才」との混血=分裂のテーマであり、楕円形ロシアのテーマである。プーシキンの『オネーギン』以来のこのテーマは、『地下室の手記』と『悪霊』にもっともはっきりと表れている。そしてドストエフスキーはこのテーマを、ロシア・フォルマリストの一人ミハイル・バフチンが、その『ドストエフスキイ論――創作方法の諸問題』のなかで「ポリフォニー」(多声法)と名づけた方法によって表現したのである。
[後藤明生]
また、バフチンは、ドストエフスキーの作品はその全体が「対話的構造」をもっている、という。彼の作品ではモノローグでさえ対話的だ、という。この「対話」は、現実的な場における実際の「会話」とは限らない。意識=自己の内部における、他者の意識との関係である。つまり、ゴーゴリが、ずれとしての他者との関係を会話の形で外部から書いたのに対して、ドストエフスキーは、そのずれとしての他者との関係を内部から書いた。そのもっともわかりやすい一例は、『地下室の手記』における、「私」と下男アポロンとの関係だろう。そしてその両者の関係は、『ドン・キホーテ』におけるドン・キホーテと従者サンチョ・パンサとの楕円的関係にそのまま重なる。と同時に、その分裂し混血した楕円形は、ほかならぬドストエフスキー自身の内面=自意識の形でもあった。
つまり、これまでしばしば問題にされてきた、彼が西欧派であったかスラブ派であったかという分類は、あまり意味をもたない。「現代は産業の世紀です」と彼は早くも『分身』の主人公にいわせていた。「もはや、ルソーの時代ではないのです」ともいわせている。彼の意識には、当然のことながら、ルソー的な「自然」としての純潔な「内面」は存在しえなかった。と同時に、フロベールのように、実証主義によってシステム化されたブルジョア社会=外部を、「愚劣なる俗物」として「嫌悪」し「軽蔑(けいべつ)」すればすむというものでもなかった。なぜならば、フロベールの「私」=「内面」は、外部を嫌悪し、軽蔑するという形でまだ一貫している。ところが、そのフロベールにおける「私」=「内部」と社会=外部との対立関係が、ドストエフスキーにおいては、すでに、そのまま、ほかならぬ彼自身の意識であり、内面だったからである。つまり、ドストエフスキーにとって、スラブと西欧との混血=分裂都市ペテルブルグは、もはやフロベールにとっての外部=社会ではなく、彼自身の内部そのものがペテルブルグと同じ形に“破裂”してしまっていた。そして、ポリフォニーの文体は、その“破裂”した「私」=「内面」を自己喜劇化する方法だったのである。ドストエフスキー作品の自己意識と方法は、19世紀の境界を超えて、すでに20世紀に突入している。
[後藤明生]
明治以後の日本の近代小説は、これまで紹介してきた外国文学抜きには考えられない。そのなかでロシア文学をいくぶん詳しく紹介したのは、ほかでもない、明治維新(1868)以後の日本の近代化が、ピョートル大帝によるロシアの近代化にほとんどそっくりだといえそうだからである。
[後藤明生]
その類似性をもっとも早く感じ取ったのが、ロシア語によってロシア文学を学んだ二葉亭四迷(ふたばていしめい)であったのは、当然であったかもしれない。彼の『浮雲(うきぐも)』は日本最初の言文一致体小説として文学史上の記念碑であるが、この小説の価値はただそれだけではない。それは、明治近代人の「内面」の分裂を、分裂そのもの、つまり「喜劇」として表現しようとした、そのテーマと方法にあった。
日本の古代文化が、そもそも漢字の輸入に始まる混血=分裂文化であることは、先に述べた。そしてその「和魂漢才」文化は、明治の欧化主義により「和魂洋才」に急変したが、二葉亭はその二重性を『浮雲』において、近代ロシア文学最大のテーマと方法によって実現しようと試みた。すなわち、プーシキンの『オネーギン』以来の「露魂」と「洋才」との分裂=混血のテーマによる、自己喜劇化である。
これはけっして二葉亭のひとりよがりではなく、『小説神髄』の「小説は、見えがたきを見えしめ、曖昧(あいまい)なるものを明瞭(あきらか)にし、限りなき人間の情欲を限りある小冊子のうちに網羅し、之(これ)をもてあそべる読者をして自然に反省せしむものなり」という、まことに基本的な近代小説論にも合致している。しかし、「露魂洋才」の混血=分裂の自己喜劇化が、「和魂」と「洋才」の混血=分裂そのものを映す鏡であると理解した者は、まだいなかった。発表当時の反響をみると、『浮雲』はかならずしも不評ではない。しかしその才能は、明治近代においては「例外」的なものとして扱われた。もっとも普遍的なものが、もっとも「特殊」なものとしてしか受け取られなかったのである。つまり、明治の文学者は「和魂洋才」を、そもそも「分裂」とも「混血」とも意識していなかった。
ましてやそれの「自己喜劇化」に至っては、なおさらである。夏目漱石(そうせき)は確かに、明治の欧化主義による「和魂洋才」に対して疑問と違和感を抱いていた。ただ当時の彼は、英文学を学んだ目で、明治近代を、本物の近代=イギリスとの比較において、「外発的」文明開化=偽(にせ)物として傍観し、批評できる立場にあった。
[後藤明生]
イギリスでコンスタンス・ガーネット夫人がゴーゴリ、ドストエフスキーを英訳し始めたのは20世紀の第一次世界大戦前後で、リットン・ストレーチーがガーネット訳『悪霊』の書評「ロシアのユーモリスト」を書いたのは1914年(大正3)である。『浮雲』発表当時の日本においてドストエフスキー作品の喜劇構造が理解されなかったのは、無理からぬことであったというべきかもしれない。二葉亭自身、『浮雲』を1887年(明治20)から3年がかりで発表したあと、1906年(明治39)に『其面影(そのおもかげ)』を『朝日新聞』に連載するまで、小説への意志を断念していた。そしてこの挫折(ざせつ)は、日本の近代小説を特殊な性格へと方向づける結果になった。
それは『浮雲』とは正反対に、『あひびき』その他の翻訳が明治文壇に大歓迎されたことと、そのまま結び付く。『あひびき』は、ツルゲーネフの叙情的かつ人道主義的な田園スケッチ連作『猟人日記』中の一小品であるが、その訳文の影響は、国木田独歩(どっぽ)から永井荷風(かふう)にまで幅広く及んでいる。これは、なんとも皮肉であると同時に、明治近代小説の限界を象徴するものだといえる。つまり、ロシア文学は大いに愛読されたが、プーシキン、ゴーゴリ、ドストエフスキーたちの「方法」は理解されず、もっぱらツルゲーネフやトルストイの叙情や人道主義(ヒューマニズム)だけが受け入れられたのである。
[後藤明生]
もちろん、この日本流の取り違えは、ロシア文学に限らない。ルソーのロマン主義、フロベールの写実主義に関しても同様であって、作家の認識=思想を表現する方法としてのフィクションは放棄され、作中人物の「生き方」や「感じ方」や人格が、そのまま日本の小説家たちの「生き方」や「感じ方」や人格となった。そして、それが彼らの「近代的」自我=「私」を形成した。
とくにルソーの誤解は甚だしかった。彼のロマン主義は、18世紀フランスの「近代化された理性」からの「私」の解放であった。しかるに日本においては、それが、前近代における制度の象徴としての「家」からの「私」の解放という形で受け入れられた。「近代」からの「私」の解放が、「近代的な私」の自立に逆転したのである。しかもそれは、はっきり逆転と意識されない、きわめてあいまいなものであった。つまり、逆転ならば逆転という日本共通の型に変型された輸入ではなく、その受け入れ方は各人各様で、その無原則的な特殊性がそのままそれぞれの作家の「個性」的人格となった。当然の結果として、ロマン主義、写実主義、自然主義などの用語も、無原則的な混乱のまま使用された。
[後藤明生]
そうした無原則的な混乱のなかでただ一つ共通していたのは、「方法」の放棄であったといえるだろう。もちろん、それは意識的な放棄ではない。いかに自分が「近代的な私」として自立しているか。それをありのままに告白するのに「方法」は不要であった。したがって、ありのままの「私」の「生き方」をありのまま書き表すために彼らが必要としたのは、書くための「方法」ではなく、いかに生きるかという「方法」であった。この「方法」が、いわゆる「生き方」=人格であることは、いうまでもない。そしてその「私」は無原則的な「個」であったから、そのありのままの「生き方」を書くことが、その作家の個性すなわち特殊性となった。こうして、「個」=特殊としての「私」を普遍化する方法としてのフィクションを放棄することによって、日本の「私小説(わたくししょうせつ)」は成立したのである。
そしてそれは日本文学史のなかで「主流」になったり「傍流」になったりしながら、『浮雲』から100年以上のちの現在、いまなお存在している。これでは「ボバリー夫人は私だ」という謎(なぞ)めいたことばの解釈をめぐる決着がいまだにつかないのは当然であろう。ただ、「私小説」の源流は田山花袋(かたい)の『蒲団(ふとん)』だという説だけは、もうそろそろ撤廃されるべきだろう。「私小説」とは「虚構」という方法を放棄した「小説」だとすれば、それは古代中国において用いられた意味における「稗史(はいし)」同様となる。しかし、日本における「私小説」は「稗史」ではありえない。つまり、虚構は捨てているが、「事実」そのものではなく、そこには作者の「生き方」としての「主観」「感想」「感情」「心境」「詠嘆」などが含まれているからである。つまり、事実プラス感想という随筆に近いジャンルに属する。そしてこの定義にもっともふさわしいのは、『蒲団』ではなくて、志賀直哉(なおや)の『網走(あばしり)まで』『城の崎(きのさき)にて』などであることは、両者を読み比べてみれば明らかだろう。『蒲団』の作者および作中人物は、それぞれ当時の段階において近代化された制度、風俗に「汚染」されている。小林秀雄が『私小説論』で使ったことばでいいかえれば、「社会化」されているからである。
しかし、この「社会化」ということばをめぐる解釈も、これまた、いまなお決着がついていない。『私小説論』は、横光利一(よこみつりいち)の『純粋小説論』に批判的に答える形で1935年(昭和10)に書かれた。それは、第一次世界大戦前後の「世界の20世紀」が一挙に日本に押し寄せ、明治、大正2代にわたって形成されてきた日本の近代小説を直撃し、モダニズム文学と激しくしのぎを削ったプロレタリア文学が小林多喜二の「虐殺」によって解体しかけた時期にあたる。
[後藤明生]
ヨーロッパでは、19世紀の世紀末から第一次世界大戦前後にかけて、さまざまな文学芸術運動がおこった。シュルレアリスム、ダダイスム、表現主義、未来派、ロシア・シンボリズム、ロシア・フォルマリズムなどなどである。そして世界は、共産主義革命によって新しく誕生したソビエト・ロシアと、資本主義の巨大国家に発展したアメリカを両極にして、大破裂を起こした。もちろんヨーロッパは世界の中心ではなくなり、世界全体が中心を失った断片となった。これが「現代」の始まりであり、世界の芸術は「同時的」に共通の問題を考えることになった。小説も、もちろん例外ではない。
[後藤明生]
また、世界が中心を失ったと同様に、19世紀近代小説の「私」という「中心」も解体した。ドストエフスキーにおける意識の楕円(だえん)が、すでに20世紀に突入していると書いたのは、そういう意味であったが、世界の大破裂のあとまず誕生した代表的な20世紀小説は、ジョイスの『ユリシーズ』、プルーストの『失われた時を求めて』、カフカの『変身』『審判』『城』などである。
3人の小説は文体も方法もそれぞれ違っている。しかし、19世紀近代小説の、「私」を中心として自己完結する世界像の解体、という点で共通している。また、その解体は、「私=内部」と「世界=外部」との関係の変化による、いわば自然な解体ではなく、意識された方法による、意志的な解体である点において共通している。そして、その「意識的」「意志的」自己解体による世界像の変形が、20世紀小説の方法であると同時に、それが書かれるための「動機」でもあった。つまり、彼らが小説を書くということは、大破裂を起こした世界のただなかで、かつて、どんな時代に、どのような小説が存在しえたかを考えることにほかならなかったのである。
[後藤明生]
ジョイスのいわゆる「意識の流れ」はヘンリー・ジェームズの影響によるともいわれているが、『ドン・キホーテ』の出現以後、『ドン・キホーテ』を意識しない近代小説がありえなくなったように、ジョイス、プルースト、カフカの小説を意識しない20世紀小説はありえなくなった。つまり、先にあげた彼らの小説は、すでに単なる一作品であることを超えて、それぞれ20世紀小説の普遍的なテーマとなった。『贋金(にせがね)つかい』を書いたジッドは、その20世紀小説の運命にもっとも忠実な一人であった。プルーストが、「私」とはなんであったのだろう、「小説」とはなんであったのだろう、と考えたとすれば、ジッドは、「小説」とはいまなんであるのか、それを書いている「私」とはいまなんであるのか、とプルーストを意識しながら考えた、といえるかもしれない。
[後藤明生]
日本で「20世紀の運命」にもっとも敏感であったのは、おそらく芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)であろう。彼は1927年(昭和2)「ぼんやりした不安」という、いまや伝説化したことばを残して自殺した。また、ジッドの「純粋小説」という自意識の実験装置にもっとも意識的であったのは横光利一である。そして彼は、芥川の自殺の3年あとに「国語との不逞(ふてい)極まる血戦」によって『機械』を書いた。中心を失った自意識が中心を探し続けるこの小説によって、日本の20世紀小説は始まったといえるだろう。
[後藤明生]
しかし、日本のモダニズムは中国との戦争の時代に中断し、やがて第二次世界大戦が始まり、日本は敗戦国となった。そしてさまざまな敗戦小説が生まれた。かつてのプロレタリア文学も、社会主義リアリズムを掲げて復活した。「世界の同時性」を強く意識した方法の小説も書かれた。と同時に、それらの小説の一部には、敗戦小説や社会主義リアリズム小説との境界が微妙かつあいまいである作品もあった。
そして、私小説も存在し続けた。存在するばかりか、敗戦によって生じた小説のジャンルが、それぞれジャンルとしてあいまいさをもっていた分だけ、その存在はむしろ大きくなっていたとさえいえる。したがって、「ボバリー夫人は私だ」の解釈も、「社会化された私」の解釈も、いまだにはっきりした決着をみるに至っていない、というのが現状であろう。
[後藤明生]
一方、コンピュータによる情報機構によって、現代人の生活は急変した。テレビは宇宙衛星中継によって「世界の同時性」を獲得し、多様化した電波メディア、さらに複雑化したマルチメディアが日常生活に侵入している。芥川が残した「ぼんやりした不安」が、このようなニューメディア時代の出現であったかどうか、わからない。しかし、電波、活字によるマス・カルチュア氾濫(はんらん)のなかで、「小説の危機」説、「小説の衰弱」説が出てくるのは当然であろう。
しかし小説の危機や衰弱は、極度に発展した消費文明社会や情報化社会という「外部」にあるのではなく、小説そのものの「内部」にある。その意味では、小説はつねに危機であった、とさえいえる。小説の「超ジャンル」性については繰り返し述べてきたが、それは、小説がつねに危機意識をもち、同時代における他のジャンルと苛烈(かれつ)なる格闘を演じることによって、初めてそうでありえたのである。
したがって、マス・カルチュア氾濫のなかで小説が衰弱し消滅するとすれば、それは、小説そのものの歴史を忘れ、他のジャンルを排除し、固定した権威に安住し、小説自体への自己批評をもたない小説、ということになるだろう。つまり、超ジャンルとしての小説の方法を放棄した小説である。
[後藤明生]
20世紀初頭の新芸術運動は、過去の芸術の権威を全否定する過激なものであった。しかし同時に、それは芸術それ自体への自己反省でもあった。彼らは政治的、経済的、科学的な大変動のただなかで、小説とはかつてなんであったか、と考えることから出発しなければならなかった。20世紀小説は、そうした彼らの過激であり、同時にまことに謙虚な小説自体への反省と自己批評のうえに、初めて成立したのである。
いま、われわれは、もう一度ホメロスの昔まで振り返るべきであろう。そうすれば、小説というジャンルが、先行する時代や同時代に共存するさまざまなジャンルの「模倣と批評」によって、それらを吸収しながら織物のように自己増殖してきたことがわかる。それが文学史にもっとも遅く登場した小説の運命であり、同時に特権であったことがわかる。そしてこれまであげてきた作品は、いずれもその代表的なものであった。
日本においても、小説そのものについての反省と自己批評をテーマ、方法とする小説が、先に述べたような「戦後的」混乱状態を脱して、ようやく「小説の小説」「メタ・フィクション」のジャンルとして自立し始めている。モダニズムの再検討も行われ、さまざまな作品の再評価や文学史的位置づけが研究者や批判家によってなされた。世紀末は、文学史が読み換えられる時代である。事実、20世紀末にもさまざまな文学史読み換えの試みがなされた。つまり、過去を大いなる好奇心を抱いて振り返ること。小説の未来は、まさにその「未知」なるものとしての「過去」との遭遇にあるといえる。19世紀から20世紀へと小説が変化し続けたように、21世紀においても、小説は変化し続けるであろう。人間の生活、人間の言語が変化する限り、小説も変化し続ける。しかし他のさまざまなジャンルと混血=分裂による超ジャンルであること、先行するテキスト=作品の模倣と批評の産物であること、この小説の原理は変わらない。「われわれはみなゴーゴリの『外套』から出てきた」というドストエフスキーのことばは不変である。
[後藤明生]
『G・S・カーク著、辻村誠三他訳『ギリシア神話の本質』(1980・法政大学出版局)』▽『バートランド・ラッセル著、市井三郎訳『西洋哲学史』全3巻(1982・みすず書房)』▽『高津春繁・斎藤忍随著『ギリシャ・ローマ古典文学案内』(岩波文庫)』▽『ヘルマン・ヘッセ著、高橋健二訳『世界文学をどう読むか』(新潮文庫)』▽『W・S・モーム著、西川正身訳『世界の十大小説』上下(岩波新書)』▽『ウラジーミル・ナボコフ著、野島秀勝訳『ヨーロッパ文学講義』(1982・TBSブリタニカ)』▽『ヴァルター・ベンヤミン著、高木久雄訳・編『文学の危機』(1969・晶文社)』▽『中村真一郎著『小説の方法――私と二十世紀文学』(1981・集英社)』▽『A・ティボーデ著、生島遼一訳『小説の美学』(1967・人文書院)』▽『生島遼一著『フランス小説の「探求」』(1976・筑摩書房)』▽『蓮實重彦著『物語批判序説』(1985・中央公論社)』▽『大江健三郎著『小説の方法』(1978・岩波現代選書)』▽『大橋健三郎他著『ノヴェルとロマンス』(1974・学生社)』▽『G・S・フレイザー著、木下順二他訳『現代の英文学』(1967・研究社出版)』▽『川村二郎他訳『ヴァルター・ベンヤミン著作集6 ボードレール』(1982・晶文社)』▽『シクロフスキイ他著、磯谷孝他訳『ロシア・フォルマリズム論集』(1971・現代思潮社)』▽『ミハイル・バフチン著、新谷敬三郎訳『ドストエフスキイ論』(1968・冬樹社)』▽『マーク・スローニム著、池田健太郎訳『ロシア文学史』(1976・新潮社)』▽『後藤明生著『笑いの方法――あるいはニコライ・ゴーゴリ』(1981・中央公論社)』▽『黎波著『中国文学館――詩経から巴金まで』(1984・大修館書店)』▽『駒田信二著『対の思想――中国文学と日本文学』(1969・勁草書房)』▽『武田泰淳著『司馬遷――史記の世界』(講談社文庫)』▽『『純粋小説論』(『定本横光利一全集 第13巻』所収・1982・河出書房新社)』▽『小林秀雄著『私小説論』(『Xへの手紙・私小説論』所収・新潮文庫)』▽『『文芸的な、余りに文芸的な』(『芥川龍之介全集 第5巻』所収・1971・筑摩書房)』▽『花田清輝著『復興期の精神』(講談社文庫)』▽『『林達夫評論集』(岩波文庫)』▽『伊藤整著『小説の方法』(新潮文庫)』▽『後藤明生著『復習の時代』(1983・福武書店)』▽『後藤明生著『小説――いかに読み、いかに書くか』(講談社現代新書)』▽『後藤明生著『小説は何処から来たか』(1995・白地社)』▽『後藤明生著『小説の快楽』(1998・講談社)』▽『西郷信綱他著『日本文学の古典』(岩波新書)』▽『中村光夫著『日本の近代小説』(岩波新書)』▽『中村光夫著『日本の現代小説』(岩波新書)』▽『柄谷行人著『日本近代文学の起源』(講談社文芸文庫)』▽『高橋英夫著『幻想の変容』(1983・講談社)』▽『前田愛著『都市空間のなかの文学』(1982・筑摩書房)』▽『磯田光一著『鹿鳴館の系譜――近代文芸史誌』(1983・文芸春秋)』
小説は詩や劇文学と違って,形態,内容ともに極度に自由な文学様式で,正確な定義を下すことは不可能である。しかしふつうにこれは小説らしい小説だとか,風変りな小説だとかいうとき,そこには漠然とした小説の概念が基準となっていることも事実で,それはだいたい西欧の19世紀に完成したリアリズム小説の概念にもとづいている。この標準的な小説概念によると,小説とは散文による相当な長さの虚構物語(フィクション)で一定のまとまりと構造をもち,現実生活に即した人物と事件を扱うものをいう。この考え方だと短編小説,観念小説,怪奇小説,ファンタジーやSF,ヌーボー・ロマンやポストモダニズムなどと呼ばれる最近の前衛的小説などが入らなくなるが,これらの小説も標準的小説の多くの特徴を取りいれており,また伝統的小説に反逆して書かれた前衛的小説にしても,この標準的小説概念を前提として含んでいるといえる。
この標準的な小説に対立するものとして,一方にロマンス,他方にアレゴリーないし寓意物語がある。ロマンスはもともと中世フランスの騎士道物語の名で,現代ヨーロッパ諸語で小説を〈ロマンroman〉と呼ぶもととなっているが,ここでのロマンスはそうした特定の歴史的形態を離れて,広く冒険,不思議,理想化された人物など,空想を自由にはばたかせた物語をいう。一方,アレゴリーは物語という形を利用しながら,実は何かの思想や観念など読者の知的興味に訴えるもので,ラブレーの《ガルガンチュアとパンタグリュエルの物語》やスウィフトの《ガリバー旅行記》などがその典型である。ロマンスと小説を言葉の上ではっきり区別しているのが英語で,女性向きの恋愛物語や波瀾万丈の歴史物などが〈ロマンス〉と呼ばれる一方,狭い意味での小説は〈ノベルnovel〉と呼ばれるが,後者は中世イタリア語の〈ノベラnovella〉(〈ニュース〉と同語源で,〈ちまたの珍しい話〉の意)に由来する。
西欧小説の特徴は,虚構の物語と歴史物語や伝記的物語の区別がはっきりしていることのほかに,近代的合理主義的世界観の興隆にともなって小説とロマンスの分離を意識的にすすめたことで,小説史におけるセルバンテスの《ドン・キホーテ》の意義はそこにある。しかしこの分離はけっして完全ではなく,実際の小説はかならずロマンスやアレゴリーの要素を含んでいる。とくに19世紀以降,小説の描写技法を利用しつつ本質的にはロマンスやアレゴリーであるような作品が小説として登場する。E.ブロンテの《嵐が丘》は前者の,T.マンの《魔の山》は後者の例である。現代のわれわれは,これら小説を装ったロマンスやアレゴリーをも小説と呼んでいる。英語の〈ノベル〉の訳語として〈小説〉を採用したのは坪内逍遥であり,以来この語は前述したような西欧的小説概念を意味しているが,実際は外観が標準的小説に似ているものはすべて〈小説〉と呼ばれるのがふつうで,作者の生活記録に近い私(わたくし)小説やノンフィクションに近い伝記・歴史物語,純然たる恋愛ロマンスまでがひとしなみに〈小説〉と呼ばれている。また日本では長編も短編も〈小説〉であるが,西欧では長編(novel,roman)と短編(short story,コントconteなど)は別個のジャンルとして意識されている。
古代の物語文学の正統は叙事詩であり,散文物語は遅れて発達した。紀元前後のアレクサンドリアでは恋愛と冒険の長編ロマンス(《ダフニスとクロエ》など)が発展した。ローマ時代にはペトロニウスの《サテュリコン》に写実的な社会風刺が含まれ,アプレイウスの《黄金のろば》,ルキアノスの《真実の話》など,変身譚や空想旅行を利用した知的風刺文学は,ラブレーやスウィフトなどに影響を与えている。中世の宮廷ではアーサー王伝説にもとづく韻文ロマンスが栄えたが,一方では民衆的な滑稽・艶笑譚であるファブリオーやちまたの話題や事件を物語化したノベラも発達した。ボッカッチョの《デカメロン》は代表的な物語集で,別荘に集まった男女がそれぞれ物語をするという枠物語の形式により,多くのファブリオーやノベラ,さらに宗教的教訓談やロマンス的恋愛物語を集めている。16世紀スペインに発生したピカレスク(悪者小説)はさらに写実的で一貫性をもち,狡猾(こうかつ)な小悪党の一代記の形で社会の種々相を描いている。その影響は17~18世紀のイギリス,フランス,ドイツ文学に及び,また現代小説にもピカレスク的遍歴の主題の復活が見られる。
17世紀初頭の《ドン・キホーテ》は小説史上の里程標である。騎士道ロマンスに熱中する主人公と現実的なサンチョの道中記が織りなすさまざまな滑稽の中から,精神と現実との対決,書物と世界の関係,幾重にも積み重なる語りの構造など,近代・現代の小説が探求している主題がすでに姿を現している。当時は中世ロマンスの残存のほかに,古代ロマンスの復活によって牧歌的田園や古代の英雄をテーマとした長編ロマンスが流行したので,反ロマンスが17世紀の多くの小説の主題となった。ラ・ファイエット夫人の《クレーブの奥方》は,ロマンスの感傷的恋愛賛美に対して,現実の知的な人間がいかに恋愛に対処するかを描き,精緻(せいち)な心理分析によってフランス心理小説の源流となった。18世紀において小説の発展を主導したのはイギリスであり,市民階級の生活の物語としての写実的小説が出現した。デフォーの主人公は平凡な人間で,作者は正確な細部を書き入れて物語の現実性を強めている。デフォーの一人称体やリチャードソンの書簡体(書簡体小説)は人物の生活の細部を詳しく叙述するためのものだが,フィールディングは明朗で余裕のある三人称体叙述を駆使して,客観的な性格描写と社会観察を行う方法を完成し,リアリズム小説に一つの模範を示した。一方,18世紀後半になると人間の非合理的感情への関心が高まり,ルソーにはじまるロマン主義の流れは《若きウェルターの悩み》を生み,19世紀の多くの告白体小説を経て現代にいたっている。またイギリスで発生したゴシック・ロマンスと呼ばれる恐怖怪奇小説も,その後とくにアメリカで独自の伝統をなしている。ゲーテは《ウェルター》以後,青年の人間的成長を主題とする教養小説の祖となり,これもその変種である芸術家小説とともに現代にまでつながる系譜をもっている。
19世紀初めのスコットの歴史小説はたちまちヨーロッパ中にひろまり,プーシキン,マンゾーニらの小説を生んだが,バルザックやスタンダールはスコットの手法を同時代の社会に適用して,歴史的生成のうちにある社会と人間を描く近代リアリズム小説の典型を創造した。彼らの手法はトルストイに受けつがれ,《戦争と平和》《アンナ・カレーニナ》で近代小説は完成したと見ることもできる。リアリズム(写実主義)の流れは,フランスではゾラとフローベールに続くが,ゾラの自然主義が実証的社会誌に向かうのに対して,フローベールはリアリズムの技法を厳格化する過程で,外部の現実との絆を切って自立する芸術作品としての小説という理念に達し,現代小説の戸口に立った。またこの時代には作者内面の夢や葛藤を表現する近代的ロマンスというべき《嵐が丘》やメルビルの《白鯨》が生まれ,大都会の悪夢的な世界の中に強力な善悪のドラマを作りだしたディケンズやドストエフスキーが現れた。彼らの非合理な情念のドラマは,20世紀のカフカにおいて不思議な超現実的な形をとるようになる。近代的な短編形式が完成するのもこの時代で,鋭い描写と意外な結末を特徴とするモーパッサン型と,平凡な人生の一断面を描いて深い余韻を残すチェーホフ型が成立した。
20世紀の小説はますますリアリズムから離れつつある。マルクス,ニーチェ,フロイトらの思想が合理主義的ヒューマニズムを掘りくずしていったのにともなって,プルースト,ジョイス,V.ウルフ,フォークナーら,いわゆるモダニズムの作家たちは人間の無意識で非合理的な領域の探求に向かい,さらにその向こう側に理性的言語では表現不可能な肉体的記憶や,直観や,神話的象徴の世界を見いだしている。ドイツのT.マン,ロシアのベールイらもそれぞれの伝統から出発しながら,もはや安定した現実が存在しない危機的な世界を表現した。合理的意識の支配を排したヌーボー・ロマンでは現実は不可解で奇怪な姿を取るようになる。さらに最近では小説を純然たる言語の構築物と考えるポストモダニズムの作家たちが,外部の現実を写すのではないまったくの虚構の言葉による多彩な実験的作品を作りだしている。同時に西欧文化の世界的拡散によってアフリカ,インド,ラテン・アメリカなどの作家たちの活躍もめざましく,それぞれの土着の現実と超現実的幻想の混じりあった先端的な作品を生んでいる。これらは現代世界の危機と混沌に対する必然的な対応であるが,その結果として,小説は極度に難解で技術的となり,かつてのように社会や民族の共通の生活を表現し,広範な人びとの心を代弁するという中心的な機能を失ってきたことも否定できない。
執筆者:海老根 宏
〈小説〉という言葉は,《漢書》芸文志(げいもんし)に〈小説家流は,蓋し稗官より出づ〉とあるのが,もっともはやい用例の一つだが,日本で文学ジャンルとしての〈小説〉が,識者の注目を集めるようになったのは,中国語研究の教材として輸入された白話小説が,愛読されはじめた18世紀初頭のことであった。いわゆる三言二拍から抄訳した岡白駒の《小説精言》(1743),《小説奇言》(1753),沢田一斎の《小説粋言》(1758)の刊行は,〈小説〉という言葉を読書人のあいだに定着させた。近世後期に登場した読本(よみほん)のジャンルは,都賀(つが)庭鐘の《英草紙(はなぶさぞうし)》(1749)にはじまり,建部(たけべ)綾足,上田秋成,山東京伝,曲亭馬琴らの作家を輩出するが,彼らが翻案の材源,ないしは創作の規範として求めたのは,明・清の白話小説であった。読本は国字の〈小説〉だったのである。読本の流行とともに〈小説〉をめぐる言説も,断片的ながら現れる。清田儋叟(せいだたんそう)の《昭世盃》序(1765)は,そのはやいものの一つであるが,近代小説との関連では,馬琴が自作の中でたびたび言及している小説論が注目される。たとえば,〈蓋(けだし)小説は,よく人情を鑿(うがつ)をもて,見る人倦(あか)ず〉(《八犬伝》巻五)は,はるかに《小説神髄》の主張と呼応するところがある。しかし,架空の言に勧懲の意を寓するところに,馬琴が小説の効用を求めていたことはいうまでもない。白話小説を母胎とする読本にたいし,より写実的な街談巷説の文学,滑稽本や人情本は,戯作(げさく)の名で呼ばれることが多く,両者を〈小説〉として通約する考え方はかならずしも一般的ではなかった。
明治に入ってからも,翻訳小説,政治小説など,知識人を対象とする〈上の文学〉は,読本と結びついた〈小説〉の概念がうけつがれたにもかかわらず,仮名垣魯文(かながきろぶん)の《安愚楽鍋(あぐらなべ)》など,大衆向けの〈下の文学〉は,戯作の領分にとどまっていたのである。坪内逍遥の《小説神髄》は,こうした中国的な〈小説〉概念と戯作文学との分裂を,西洋の〈ノベル〉の概念の側に引き寄せるかたちで統一しようとする試みであった。1880年,《ハムレット》を道徳的に批評して外人教師ホートンから辛い点をつけられた逍遥の苦い体験は,倫理的効用性に重きをおく馬琴的な小説観から,西洋的な小説観への転回を示している。大学時代に進化論を学んだ逍遥は,文明が進歩するにしたがって〈荒唐なる趣向〉からなる〈羅(らう)マンス〉が〈真(まこと)の小説稗史(那(の)ベル)〉に進化するという図式によって,〈小説の主脳は人情なり世態風俗これに次ぐ〉という有名な小説観をうちだした。〈ノベル〉としての小説は,〈人情〉(心理)と〈世態風俗〉(社会)を模写する文学ジャンルであり,作者は〈傍観者〉の立場を持して,みだりに作品に介入してはならないというのである。こうした小説観がイギリスのビクトリア時代の小説を基準にしていることはいうまでもないが,逍遥は戯作を改良して〈文壇上の最大美術〉である小説=ノベルとして自律させるために,中国的な〈小説〉概念を支えていた倫理的効用性や,明治10年代の政治小説が鼓吹した政治的啓蒙性を切りすてる方向をえらんだ。この人情小説ともいうべき路線を継承したのは,尾崎紅葉を盟主とする硯友(けんゆう)社の文学である。《小説神髄》の模写理論は,〈此人の世の因果の秘密を見るが如くに描き出だし,見えがたきものを見えしむるを其本分となすものなりかし〉とあるように,〈人の世の秘密〉を心理的,視覚的に〈人情世態〉の動きとして描きだすことを意味していた。見る人としての〈傍観者〉と,見られるものとしての〈人情世態〉との分離である。読本が過去の言説を自在に織りなした引用の織物であり,滑稽本,人情本があたかも速記術を応用したかのように日常言語そのものの忠実な再現を意図していたとすれば,逍遥の模写理論は,こうした言語宇宙のなかで自足していた戯作文学を,外部にたいしてはモノの世界と,内部に向けてはココロの世界と,対峙する場に引きだしたことになる。逍遥の場合,モノの世界(世態風俗)の模写は,博物学的な観察の精神に,ココロ(人情)の模写は心理学の知見に,それぞれ対応している。
こうした逍遥の主張は,木版から活版へという書物生産のテクノロジーと見合っていた。活字テクノロジーの画一的なシステムは,挿絵と本文を分離し,可読性が増強されるかわりに音声イメージが希薄になる。活字で印刷された小説の言葉は,言葉の物質性を切りおとしていくことで,逆に意味されるものとしての観念や表象の純度を高めていく。明治の小説は,言葉の向こう側にあるモノやココロの世界,つまりは意味されるものの世界に読者の想像力をふりむける技法を開発しなければならなかったのである。そのもっとも有力な技法の一つは,言文一致体で書かれた二葉亭四迷の《浮雲》における語りの構造である。すなわち,主人公内海文三の内面に入りこむとともに,たえずそれを揶揄(やゆ)する声を響かせる無人称の語り手の存在である。たとえば作者が〈傍観者〉の立場に立つ逍遥の《妹と背鏡(いもとせかがみ)》の場合,覗(のぞ)きや立聞きの手法をかりて作中人物の内面が明らかにされるが,《浮雲》の語りは,読者が直接的に内面世界に参入するスタイルを切りひらいた。回想の現在時と過去の体験が一人称の語りのなかで交錯する森鷗外の《舞姫》も,ほぼ同じ効果が発揮されている。こうした語りの成立こそは,小説の近代化のまぎれもない指標である。
執筆者:前田 愛
中国では小説が文学の一ジャンルとして自覚されるようになるのは,その用語・文体の定着の時期とも併せ考えれば,厳密には16世紀になってからである。古くは漢代では,小説とは世間のさまざまな話題,説話,伝説などを広く総称した概念であって,〈小説家〉という制作者の所産として枠付けられてはいたが,個人の作家の創作とは認められていなかった。しかし,想像力を自由に働かせた寓話は,すでに《荘子》や《列子》などの道家の教説に多様に展開されていたし,そこには虚構の世界の物語が論理や事実の記録とは別に,独自の説得力と魅力をそなえていることの認識があった。六朝になると,仏教の浸透に触発されて,超次元の世界への関心が飛躍的に高まり,そこから神秘的な内容の物語が多く生まれたが,それも神界の事がらとして人間とは隔絶した話なのではなくて,現実の世界との交錯と相互投影を示すものが大部分で,完全な空想のフィクションではなかった。これらのいわゆる〈志怪〉の物語は,当時の人には野史や別伝の類の書とともに事実や経験の記録と考えられていた(志怪小説)。
この流れは,次の唐代になると,人間や人生の多様性や,そこから示唆される屈折した問題意識へと収斂(しゆうれん)してゆき,それぞれの作家が独自の趣向と文体を駆使した作品を作りだした。これらは〈伝奇〉と呼ばれ,中国の小説史に新しいページを拓いたが,その〈奇〉とは異次元の事がらではなくて,現実の世界から発掘された意外な要素,平穏な常識では律しきれぬ事がらをいう。また一方で唐の中ごろから,都市の盛り場で語り物が口演され始めた。それには〈市人小説〉と呼ばれる歴史講談を主としたものと,寺院で定期的に語られた〈俗講〉という,主として仏典や仏教説話を講釈したものとがあった。後者は〈変文〉と呼ばれる読み物として20世紀はじめにその写本が敦煌から大量に発見された。これらは大部分は口語文で書かれており,ここではじめて中国の小説は,口語をその用語として定着させたわけである。
次の宋代では,都市の急速な発達にともなって,〈瓦市〉と呼ばれる盛り場での常設の演芸場で各種の講釈が上演された。そのうちの〈小説〉語りの記録は〈話本〉とか〈評話〉と呼ばれて明代に伝えられ,口語体の短編小説の母胎となった。一方,長編小説は宋代に口演された《三国志》や《水滸伝》が,それぞれ章を立てて首尾一貫した構成をもつ読み物として刊行されたが(《三国演義》),また16世紀には《金瓶梅》というある1人の作家による長編の創作が生まれ,従来の口誦説話を基盤とした小説からはじめて脱皮した。これは清代の傑作《紅楼夢》を生み出す母胎となった。明代末期にはまた李卓吾や金聖嘆による小説評論も見られたが,この分野はその後発展しなかった。口語がなお文学語としての市民権を獲得できなかったからであり,それが正式に認められるようになったのは,1917年に始まった文学革命運動の成功と,魯迅の小説創作の活動ののちであった。
執筆者:入矢 義高
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(井上健 東京大学大学院総合文化研究科教授 / 2007年)
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…中国の北宋(960‐1127)の首都汴京(べんけい)(開封),南宋(1127‐1276)の首都臨安(杭州)などの都市の盛り場には常設の演芸場があったが,そこで語られた講談のうち,人情噺などを主とする短編を小説といったのに対し,長編の史談を講史と呼んだ。また講史の筆録を評話,あるいは平話といい,現在《三国志平話》《五代史平話》などの作品が伝わっている。…
…内容的には,芸術の起源は人間の模倣本能だとするミメーシスの説や,有名なカタルシス(浄化)の論なども含まれる悲劇論,叙事詩論などであるが,なかでもその中心は悲劇論であった。このように《詩学》は,その扱う対象が韻文(劇詩と詩)に限られていたが,〈小説〉という文学ジャンルが成立していなかった時代ゆえ,それは言いかえれば当時の〈文学〉の全領域を扱っていたということもできる。このアリストテレス詩学は,以降,ローマのホラティウスの《詩法Ars poetica》などとともに,文学に関する省察の基本として,修辞学(レトリック)とともに長くヨーロッパ世界において行われることとなった。…
…周王朝の中央職官〈王官〉から諸子が派生したとする班固は,この流派が〈稗官(はいかん)(地方行政職員)〉に淵源する,と説く。〈小説〉とは,瑣細な話柄のことで,街談巷語(町のうわさ話)の細事を集め,閭里(むら)の見聞を書きとめて,治身理家(一家の経営や処世術)の用に供したり(桓譚《新論》),余暇の娯楽の資とした(張衡〈西京賦〉)ものであったらしい。後漢後期には,神仙,方術に関する説話が流行して《捜神記》などに伝わるが,あたかもその源流にあたる。…
…その具体的内容や芸人の名前は,開封のようすを書いた《東京夢華録》,杭州に関する記録である《都城紀勝》《西湖老人繁勝録》《夢粱録》《武林旧事》の諸書にみえ,とくに《都城紀勝》と《夢粱録》では,説話を4家に分類している。ただし,その分け方は明確さを欠き,いくつかの解釈が可能であるが,〈小説〉〈説経〉〈講史書〉の3家は,どの解釈によっても共通する。 小説は一名〈銀字児〉ともいい,市井のさまざまな物語を語る短編の話で,内容によって,さらに煙粉(恋愛物),霊怪,伝奇,公案(裁判物),鉄騎児(軍記物)などに細分される。…
…《玉台新詠》は宮体詩を主とする選集であるが,唐以後も読者は少なくなく,早く日本にも伝わっている。
[歴史と小説]
漢の司馬遷の《史記》はそれまでの編年史(年代記)と違った新しい形式(紀伝体)の歴史書である。人間の歴史と運命についての深い思索が全部をつらぬくが,対話の劇的構成にすぐれ,それによって人物の性格描写に成功した。…
…中国で,次の三つの意味に用いられる。
[唐末の小説集]
裴鉶(はいけい)の著《伝奇》。もと3巻であったが散逸し,《太平広記》に24編の物語が収録されている。…
…中国で物語や民間の言い伝えを記録した文芸をいう。それが稗と呼ばれるのは,《漢書》芸文志に〈小説家の一派は,思うに稗官から出た〉とあり,〈街談巷説,道聴塗説〉を記録して小説が作られたとあるのによる。稗はヒエなどの穀物であるが,注によれば,こまごまとした小さな話を記録するから稗官というのだとも,その官職自体が小さいのでそう呼ばれたのだともいう。…
…本来,虚構とかつくりごとを意味するが,英語では小説作品をも指す。小説はもともと娯楽用,あるいは教戒用のつくり話であった。…
※「小説」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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