ファンチュチン(その他表記)Phan Chu Trinh

改訂新版 世界大百科事典 「ファンチュチン」の意味・わかりやすい解説

ファン・チュ・チン (潘周楨
)
Phan Chu Trinh
生没年:1872-1926

ベトナムの啓蒙的民族運動家。ファン・チャウ・チンPhan Chau Trinhともいう。中部ベトナムのクアンナム省生れ。科挙及第後官途を志望したが,フエ朝廷の封建体質に絶望して下野し,1905年ごろからチャン・クイカップ,フイン・トゥク・カンらと南部を中心にベトナムの再起を遊説した。06年渡日してファン・ボイ・チャウと会い,その蜂起路線を批判して決別したといわれる。帰国後,インドシナ総督ポール・ボーに書簡を送り,フランス当局の協力によるベトナムの旧弊打破を提議した。つづいてクオックグー国語)を中心とする教育運動を提起し,07年ハノイに設立されたドンキン・ギマ・ドック(東京義塾)として結実した。これらの啓蒙近代化運動は維新運動と呼ばれる。しかし,08年中部ベトナムに起こった反税農民運動に連座して終身刑を受け,コンダオ島に流刑された。10年に一時釈放されてパリに亡命したが,14年ドイツとの関係を理由に再投獄されるなど,一貫してフランスの監視下に置かれた。25年ようやくベトナムに帰国したが,26年サイゴンで病死した。フランスに代表される西欧思想近代性を信頼し,これに裏切られつづけた彼の思想と行動は,ベトナムの民族運動の主流ブルジョアジーから切り離し,武力革命方式に移行させるうえで大きな媒介項となった。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内のファンチュチンの言及

【ベトナム】より

…こうしてベトナムは北部と南部という典型的な植民地下二重経済構造をつくりあげた。20世紀初頭,ファン・ボイ・チャウドンズー(東遊)運動ファン・チュ・チンの維新運動など,民族運動の近代化を志向する運動が起こったが,前者の革命路線も後者の啓蒙的改良運動もともにフランスの弾圧によって潰えた。 第1次大戦後,インドシナへの投資が拡大し,北部の鉱業,中南部のゴムのプランテーション,南部の米作の急激な発展は,労働者階級やサイゴンの地主,精米・輸出業者などのブルジョアジー,さらに知識人層を生み出した。…

※「ファンチュチン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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