ベトナム(読み)べとなむ(英語表記)Vietnam

翻訳|Vietnam

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ベトナム」の意味・わかりやすい解説

ベトナム
べとなむ
Vietnam

インドシナ半島東部に位置する国。正称はベトナム社会主義共和国Công Hòa Xã Hôi Chu Nghîa Viêt Nam、漢名は越南(えつなん)。かつてはチョンソン(安南)ともよばれた。英語ではSocialist Republic of Vietnam。南北に細長いS字形の国土を有し、北は中国、西はラオス、カンボジアに接し、南シナ海に面する。面積33万1689平方キロメートル。人口8737万5000(2007推計)。首都はハノイ。

[丸山静雄]

自然・風土

国土は南北1650キロメートル、東西は狭い所(ドンホイのあたり)で50キロメートルと細長い。国土の4分の3は山地が占める。北部のトンキン(東京)、中部のチョンソン(安南)、南部のコーチシナ(交趾支那(こうちしな))からなる。北部と南部が大きく、中部が回廊のようになっているところから、国の形は天秤棒(てんびんぼう)で二つの荷物を担いだ姿に例えられる。北部は石炭、鉄鉱石、燐(りん)鉱石、クロム、ニッケル、錫(すず)、マンガン、ボーキサイトアンチモンタングステンなどの鉱物資源に富み、南部は米、ゴムなどの農産物に富む。北部・南部の両者を中部の回廊地帯が結び付けることによって国は成り立った。

 ベトナムの自然と風土は、主としてモンスーンとチョンソン(長山)山脈(アンナン山脈ともいい、ラオスではフールオン山脈という)と二大河川(ソン・コイ川、メコン川)によって形成される。チョンソン山脈は脊梁(せきりょう)となって国土を組み立て、ソン・コイ川、メコン川の二大河川は北と南に巨大なデルタを生んだ。北のトンキン・デルタはデルタ面積1万6000平方キロメートル、南のメコン・デルタはデルタ面積4万4000平方キロメートルで、うちカンボジア領内のデルタは8000平方キロメートル、ベトナム領内のデルタは3万6000平方キロメートルである。二つのデルタは豊饒(ほうじょう)な穀倉地帯を造出し、さらにモンスーンが大量の雨を運んでベトナムの風土を形づくる。

 チョンソン山脈は、ヒマラヤ造山帯の東南端に位置する山系である。山系は北西部で高く、南東に進むにつれて低くなる。最高峰はファンシーパン山で、高さ3143メートル、インドシナ半島でもっとも高い。山系の全長は2580キロメートルと長い。山系沿いには南北に通ずる道路(国道1号線)と鉄道(ハノイ―ホー・チ・ミン間)があるが、山系を横断する国道は、ラオスのサバナケットとベトナムのクアンチを結ぶ9号線だけである。このあたりは国土がもっとも狭い。9号線のほか、東西の往来には山系の低部に自然につくられた、バーセレミイ峠、ケオ・ヌア峠、ムジア峠、アイラオ峠などの峠道がある。ベトナム戦争の際に、北から南への人員、兵器、弾薬、装備、資材、その他物資の輸送路となったホー・チ・ミン・ルートは、こうした峠を縫い、山系を切り開いて一路南下したものである。

 トンキン地区の北部・東北部は中国との国境地帯で、国境線の長さは1150キロメートル。ここは「ベトバク」とよばれる。山地は石灰岩からなり、雨に侵食されて洞窟(どうくつ)が多い。おそらく先住民族は、こうした洞窟に住みついていたのであろう。ホー・チ・ミンが主導したベトナム民族独立闘争も、この洞窟を巧みに利用して展開された。中国との間には、ハイフォン―昆明(こんめいクンミン)間に滇越(てんえつ)鉄道が、またハノイ―南寧(なんねい/ナンニン)間に南寧鉄道が通じ、前者のベトナム側国境駅はラオカイ、後者の中国側国境駅は凭祥(ピンシャン)となっている。

 チョンソン山系の南端はタイグエン(タイは西、グエンは高原、したがって西部高原の意味)で、中部地区の最高峰ゴクリン山(2598メートル)から南にコントゥム高原、ダルラク高原、ダラト高原を連ね、南北450キロメートル、東西150キロメートルにわたる広大な台地である。台地は玄武(げんぶ)岩質からなり、標高は高く、森林は濃密で、その間に急流、沼地があり、自然の要害をなす。古来、「西部高原を制するものはベトナムを制す」といわれ、1975年春のサイゴン総攻撃(ホー・チ・ミン作戦)の際も、ベトナム軍はまずここに足場を築いて戦いのスタートを切り、一挙にサイゴン(現、ホー・チ・ミン市)を攻略した。

 タイグエンにはゾウ、野牛、シカ、トラ、ヒョウ、山ブタ、クジャクが多く(とくにトラや野象の生息地帯として有名)、フランス植民地時代にはアジアの狩場とされ、トラ狩りには世界の名ハンターが集まった。しかしその動物たちの多くはベトナム戦争で、戦いの犠牲にされたという。

 ソン・コイ川は中国の雲南省に源を発し、ハイフォンでトンキン湾に注ぐ。全長1140キロメートル、そのうち640キロメートルが中国内を、500キロメートルがベトナム内を流れる。名称はソン・コイ川のほかにも、ユアンチャン(中国名)、フロールージ、ソンホンハなど多くの別名をもつ。ソンは河(川)を、コイ、ルージ、ホンハは赤を意味し、赤い河(川)ということになる。この川水が鉄分を大量に含んで赤色を呈しているため、こうした名でよばれるようになった。ソン・コイ川の雨期後の増水時の水量は、乾期の減水時の40倍にも増える。川水は軟らかい泥土を年間1億3000万トンも運び、泥土は川床に堆積(たいせき)し、洪水を招く。住民は堤防を積み上げて洪水を防ぐ。堤防の延長は4570キロメートル。デルタ住民の生活は水との戦いでもあった。

 メコン川はチベットに源を発し、中国、ミャンマー(ビルマ)、ラオス、タイ、カンボジアを流れてベトナム南部に入り、九つの河口となって東海(南シナ海)に注ぐ。全長4425キロメートルの国際河川である。メコンのメは母、コンは大河を意味し、メコンは母なる大河ということになる。中国では瀾滄(らんそう)(ランツァン)江、カンボジアではメコン川、ベトナムではクーロン川(九竜川、河口が九つに分かれているため、このように名づけられた)とよぶ。フランスはこの国を植民地化して以来、労働者を各方面からコーチシナに集め、穀倉地帯に開発した。そのため封建的な大地主やフランス人の経営するプランテーションが多く、それがのちの解放戦線の活動基盤となった。メコン川の下流域では国際的な開発計画が多数用意されており、河口沖では豊富な海底油田があり、この原油はベトナムの主要な輸出品となっている。

 ベトナムは熱帯モンスーンの気候区に入り、高温多雨で、年平均気温はダナン25.9℃、ホー・チ・ミン27.2℃、年平均湿度は各地とも約80%と高い。年降水量は各地とも1500ミリメートルを超える。1年は乾期と雨期に分かれ、乾期は11~4月、雨期は5~10月。植生は豊富で、植物は7000種(289科)を数え、そのうち薬用植物は1000種にのぼる。鳥類、昆虫類は1000種、哺乳類(ほにゅうるい)は300種、魚類は1000種といわれる。

[丸山静雄]

歴史・民族

ベトナムの歴史は古く、先史時代(石器時代)に人が住みつき、歴史時代(金属器時代)には水田を耕し、生活具・装飾具を鋳造する技術をもっていたようである。当時、中国南部の海岸平野には越(キン、キンは京の意味)が住んでいた。彼らはさまざまな風俗、習慣、組織をもち、百越ともよばれた。そのうち最南端にあったのが、ベトナムの祖先とされる雒越(らくえつ)である。雒越は漢民族の膨張発展に押されて逐次南下し、紀元前3世紀ごろ、ソン・コイ川下流域に定着してバンラン(文郎)王国をつくった。彼らはオーストラロイド・ネグリト系の先住民と混血して、その新石器文化を吸収し、また中国文化も積極的に受容して独自の農耕文化(青銅器文化)を形成した。それがドンソン文化といわれるものである。バンラン王国は18代の王統を保ったが、ついでオウラク王国(甌絡、甌雒)にとって代られた。オウラク王国は都をコロア(ハノイ付近)に定め、ソン・コイ・デルタと、その南方に広がる海岸沿いの平野部を支配した。オウラク王国は行政、司法、軍事の組織をもち、原初的国家であったとされている。しかし紀元前111年、オウラク王国は前漢の武帝によって征服、その植民地とされ、それとともにドンソン文化も衰えた。ドンソン文化の衰亡の正確な時期は紀元41年、後漢の光武帝の派遣した馬援(ばえん)将軍によって、チュン・チャク(徴側)、チュン・ニー(徴貮)姉妹の反漢挙兵が打ち破られたときとされる。これ以後、ベトナムの歴史は中国の支配と、それへの抵抗の歴史となる。中国の植民地経営は兵士と官人(軍隊と官僚)を先兵として、漢字・漢文、儒教、科挙、行政・司法制度の導入など、徹底した同化政策をとった。

 反中国闘争の過程で、ベトナムは村落共同体的な形を整え、鉄工具による生産力の増大、開発地の拡大、階級分化に伴う共同体の再編が進み、漸次、独立主権国家への志向が強められていった。かくてリーボン(李賁)は中国の梁(りょう)朝およびチャンパの軍隊を破って、544年、万春国を建てた。チャンパは紀元192年、ベトナム中部の東海岸につくられ、インド文化の影響を強く受けた王国である。その後も中国支配からの独立を目ざす王朝は呉朝(ゴ朝)(939)、丁朝(ディン朝)(966)、前黎(れい)朝(レ朝)(980)、李(り)朝(リイ朝)(1009)と続いた。ベトナムが中国の支配下に置かれた時期をベトナムでは「北属時代」とよぶが、これは一般に、紀元前111年から呉朝成立の939年までの1050年間とされる。李朝(1009~1225)の後には陳(ちん)朝(チャン朝、1225~1400)、黎朝(1428~1527、1533~1789)、阮(げん)朝(グエン朝、1802~1945)が樹立された。国号は李朝、陳朝、黎朝の時代には大越国、阮朝の時代には越南国とされた。この間、陳朝の時代には3回(1257、1284~1285、1287~1288)にわたる蒙古軍(元)の襲来があり、陳朝はこれを撃退した。黎朝はタイソン党(西山党)の乱(1771年、農民の蜂起(ほうき))に敗れ、西山党は約30年間ベトナムを支配した。

 1802年、この西山党を破って阮福映(グエン・フク・アイン)が樹立したのが阮朝である。阮福映は自ら嘉隆(かりゅう)(ジャロン)帝と称し、都をハノイからフエ(ユエ)に移した。阮朝は形のうえでは初代嘉隆帝(1806~1820)から13代保大(バオ・ダイ)帝(1925~1945)まで続いたが、阮福映が西山党との戦いの際にフランスに援助を求めたことがフランス植民地主義を誘い込むことになり、ベトナムは1884年、フランスの完全な植民地とされ、阮朝の独立性もそのとき失われた。ベトナムの民族政権は、呉朝から阮朝まで945年間続いたことになる。

 フランスはベトナムを支配する間、ベトナム語のローマ字化を試み(のちにベトナムの国語となる)、さまざまな文化を提供し、ベトナムの進歩と発展に貢献したが、同時に抑圧と収奪による植民地支配は過酷をきわめた。そのため広範な抵抗運動が組織された。農民を主体とするもの(農民運動)、下級官僚、地方の知識人、一部の地主らによる文紳運動(勤王運動)、ファン・ボイチャウ(潘佩珠)を中心とする復国運動(阮朝の世祖嘉隆帝の皇太子景の直系4代の子孫であるクオン・デ侯の擁立運動)、それを継承する阮大学らの国民党運動、ホー・チ・ミン(阮愛国)によるベトナム共産党の革命闘争などがそれである。

 ベトナム共産党は、1940年9月日本軍の北部仏印進駐、1941年7月南部仏印進駐が行われるや、民族統一戦線ベトミン(越南独立同盟、1941年5月結成)を前面に押し立てて、抗仏闘争と抗日闘争を併行して展開した。「八月革命」(1945年8月の総蜂起(ほうき))によってベトナムの独立と解放を勝ちとり、1945年9月2日、ベトナム民主共和国が樹立された。

 第二次世界大戦後、フランスは再植民化を企図してインドシナに復帰し、ベトナムはこれと8年間戦った(インドシナ戦争、1946年12月~1954年7月)。ベトナムがフランスを撃退すると、こんどはかわってアメリカが登場した。アメリカは1955年、南部にゴ・ジン・ジエムを大統領とするベトナム共和国を樹立し、他方、空軍力によって北部ベトナムを無力化し、ベトナム全土の非共産化(アメリカ化)を図ろうとした。これが共産主義封じ込めの冷戦戦略であり、ベトナム戦争である。ベトナムはこの戦争によって全土を焦土とするほどの被害を受けつつも屈せず、1975年4月30日、サイゴンを陥し(ベトナム共和国打倒)、アメリカ軍を追い出した。厳しい自然、国内の支配勢力による絶えざる抑圧と搾取と差別、相次ぐ外国勢力による分割・分治・異文化の強制が人々を鍛錬し、したたかな民族に育てあげた。歴史に教えられてベトナムは自らの新しい歴史を描いたのである。

[丸山静雄]

政治・経済

ベトナムの民族独立・社会主義革命を戦い、大統領・国家主席についたホー・チ・ミンはベトナム戦争の勝利をみずに、1969年9月3日、79年の生涯を閉じた。ホー・チ・ミン亡きあと、政務・軍務・党務はホー・チ・ミンとともに革命と戦いの道を歩んできた革命第一世代に任された。革命第一世代とはファン・バン・ドン(首相)、チュオン・チン(共産党書記長、副首相、国会常任委員会議長、国家評議会議長)、ボー・グエン・ザップ(人民軍総司令官、副首相、国防相)、レ・ズアン(労働党書記長)、レ・ドク・ト(労働党中央委員、パリ会議代表)たちである。やがてこの第一世代は第一線から静かに退場し、国政の責任は徐々に第二世代に移行された。第二世代とはグエン・バン・リン(書記長)、ド・ムオイ(書記長)、ボー・バン・キエト(首相、1922―2008)たちである。第一世代、第二世代といっても、両者の間にそれほど大きな隔たりがあるわけではなく、また責任移行の時期も明確に区分できるものではない。しかし、年齢や経歴に若干の違いがあるうえに、思想や問題への対応の姿勢にも多少異なるものがあり、やはり世代の相違を感じさせる差異はあった。

 ホー・チ・ミンの時代は民族の独立と統一、社会主義革命のための戦いの時代であった。ホー・チ・ミンは偉大であったが、ホー・チ・ミンに託された民族としての大業は達成されることなく、むしろ道なかばにしてホー・チ・ミンはこの世を去った。大業の完成を任されたのが第一、第二世代であり、これらはまさに過渡期の世代であった。

 過渡期の世代は三つの課題を背負った。一つはベトナム戦争の完遂とベトナムの再統一、社会主義革命の達成、もう一つはカンボジア紛争および中越戦争の終結と安全保障の確立、そして第三は経済改革である。このうちベトナム戦争は、西部高原から開始されたホー・チ・ミン作戦(1975年3月10日~4月30日)により完全勝利をもって終結された。それに伴い、ベトナム再統一も達成された。

 カンボジア紛争に対しては、ベトナムは大軍を投入してポル・ポト派を国境地区から撃退するとともに(ポル・ポト政権は1979年1月崩壊)、反ポル・ポト、親ベトナムのヘン・サムリン政権を擁立して戦いを収拾した。ベトナム軍は1982年7月、カンボジアからの撤退を開始、1989年9月までに全駐留部隊の撤収を終えた。中越戦争においてベトナムは、国境の山岳地帯から平野部にかけて3段の防衛線を構築して備えた。しかし第一の防衛線で中国軍の侵入はほぼ阻止された。ベトナムは1979年3月19日、戦いは勝利したと発表し、中国側は、制裁を終えたため自ら撤退すると語った。

 こうした過渡期の課題に対処するため、ベトナムは「80年憲法」を制定した(1980年12月、第6期国会で採択)。これは従来の大統領(国家主席)制にかわり、最高国家機構として国家評議会を設置するものであった。国家評議会は強大な権限をもった。議長には1981年7月、チュオン・チンが選出された。「80年憲法」はソ連・東欧型の、国家主導・社会主義色の濃いものであった。強力な国家・党の指導によって、ホー・チ・ミン亡きあとの間隙(かんげき)を埋めようとしたのである。しかし、それに反発する動きが高まり(チュオン・チンは1988年死去)、1991年7月の国会で改正審議が始められ、1992年4月の臨時国会で改正憲法「92年憲法」が採択された。「92年憲法」は国家評議会を廃止し、通常の大統領(国家主席)制に戻すものであった。大統領にはレ・ドク・アイン(1920― )が就任し、指導部の世代交代が行われた。「92年憲法」に基づく議会は一院制国民議会である。政党はベトナム共産党。ほかに翼賛勢力としてベトナム祖国戦線がある。1997年にはチャン・ドク・ルオンが大統領に就任した。憲法は2001年12月に再度改正、国会の権利拡大や1986年に導入された経済改革政策、ドイモイ政策の進展に沿った法の整備が行われた。2006年にチャン・ドク・ルオンが引退、同年開かれた国会でグエン・ミン・チエット(1942― )が大統領に選出された。

 外交は従来、旧ソ連・東欧重視の姿勢をとっていたが、のちに全方位外交に転じ、とくにアジア外交に重きが置かれている。1977年国連に加盟、1995年ASEAN(アセアン)(東南アジア諸国連合)に加盟、同年対米関係も正常化された。アジア外交の重点は対中国外交であろう。両国の関係は、華人の大量出国(1978年1~8月)、カンボジア紛争における中国側のカンボジア支援、中越戦争などによって悪化していたが、平和五原則に沿った国交正常化の話し合いが進み、1991年11月、両国は国交の正常化を宣言した。1996年2月、ドンダン―南寧間、ラオカイ―昆明間の2本の中越鉄道が再開された。

 ベトナムは統一後に味わった経済悪化のなかで、従来のような中央集権的、官僚主義的な経済管理体制をもってしては経済建て直しが困難であることを知り、1986年12月の第6回党大会で経済再建策と開放政策を決定した。それがドイモイ政策である。その具体的内容は、農民の個別経営を認めること、生産物の請負制度を導入すること(余剰生産物の自由処分を認める)、企業が国家管理物資以外の原料を用いて消費財を生産し、自由に流通させ、そこから得られる収入を社員に配分することを認めること、企業が修理・仕立てなどのサービス業に従事することを認めること、企業の平均主義的な賃金体系を手直しして出来高払い制度、ボーナス制度を導入すること、国家は国営企業をその重要度に応じて分類し、重点企業に資材を優先的に供給し、それ以外の企業は生産に必要な物資を自前調達するかわりに、その生産物を自由に処分することを認めることなどであった。この新政策は新たな反発や混乱を生んだが、そのつど手直しが行われた。「92年憲法」は社会主義堅持をうたうとともに、過渡期体制の核ともなる経済改革ドイモイ政策の継続を確認した。より柔軟、合理的、自由なアプローチが選択されたわけだが、これがベトナム型社会主義でもあったのであろう。ドイモイのなかで、社会主義をどう根づかせるか、社会主義とドイモイをどう連動させるかが今後の最大の課題であろう。

 経済は、国内総生産(GDP)716億ドル(1人当り818ドル、2007)、食糧生産は穀物だけでも3965万トン(2006)、そのうち米の生産量は3583万トン(2006)となり、タイに次いで世界第2位の輸出国になるまで回復した。1997年、1998年のアジア通貨危機の影響で経済成長率は低迷したが、2003年以降は7~8%の高い水準となっている。2007年WTO(世界貿易機関)に正式加盟した。

[丸山静雄]

社会・文化

ベトナムは50余の種族が住む多民族国家である。その民族分布をみると、ソン・コイ・デルタ、中部海岸平野、メコン・デルタに主要民族のキン、北部のベトバク、タイバク地域にシナ・チベット系およびオーストラロイド系の少数民族(タイ、ヌン、ムオン、ヤオ、メオなど)、中部から南部にかけてモン・クメール、マラヤ・ポリネシア系の少数民族(クメール、チャム、モイなど)、南部デルタ地帯に都市型の少数民族(華人)などとなっている。キンは全人口の86%、少数民族は14%を占める。ヤオ、メオなどの社会では葬祭儀礼用に漢字・漢文が残されており、いちおう中国、台湾、朝鮮、日本とともに漢字文化圏に含めて考えることができる。少数民族の4分の3は北部山地に、4分の1は中南部の山地や平野部に住む。ベトナムは少数民族の多い国である。

 主要民族や少数民族の多くは中国大陸から南下してきたものであり、中国支配を長く受けて、ベトナムには中国文化が根づいた。しかし中国文化はベトナム一国に集中し、チョンソン山系の西側にはインド文化(とくに上座部仏教=小乗仏教)が定着した。セイロン(スリランカ)、ビルマ(ミャンマー)を経て東に進んだ上座部仏教は、タイ、ラオス、カンボジアにまでは到達したが、ベトナムに入ることはできなかった。一方、中国文化はベトナムにとどまり、チョンソン山系を越えて西に進むことはできなかった。チョンソン山系はラオス、カンボジアとベトナムを分ける自然の分水嶺(ぶんすいれい)であったが、同時に文化の分水嶺でもあったようである。文化の移動・定着はそれほど単純に、また画然と区分できるものではなく、混淆(こんこう)を伴うものであり、現にベトナム中部のチャンパはインド文化で栄えた国であった。しかしチャンパは、のちにベトナムに滅ぼされた。結局、インド文化は山系の壁を越えて定着できなかったともいえる。山系の西に中国文化、東にインド文化がそれぞれ浸透してはいるが、それは少数者の世界にとどまり、大勢は東が中国文化圏、西がインド文化圏となっている。

 中国文化の影響でベトナムには教育が普及し、文化は高められたが、これによってまた中国への従属も強められた(漢字の伝達は紀元前1~2世紀の間)。それを憂えてベトナムは13~14世紀、主として陳朝の時代に、国字チュノム(字喃)をつくった。これは一種の改造漢字でもあった。それによって文運が起こり、『金雲翹(キンバンキョウ)』など数々の名作が世に出たが、造字法が複雑で、情報伝達の手段としては、むしろ非能率さを増すものであった。このため、上層階級の間には広まったものの、一般社会にはあまり普及しなかった。ベトナムを植民地化したフランスは、情報伝達の効率化を図ってベトナム語のローマ字表記法を考えた。これが17世紀、フランス人宣教師アレッサンドロ(アレキサンダー)・ロードの考案したベトナム語のローマ字化である。これはチュノムにかわり、広く国民の支持を受け、ベトナムの独立後には、国語(クオックグー)とされた。

 フランスの植民地支配を特徴づけるのは都市重視、同化政策、分割統治であった。これは支配の対象として農村よりも都市を、民族産業の育成よりもベトナムを原料供給源として固定しておくことを、伝統文化の発達よりもフランス文化への同化を、統一よりも分治(分割統治)を重視することであった。かくてベトナムはトンキン(保護領)、チョンソン(保護国)、コーチシナ(直轄植民地)の3地区に分けられ、それぞれが若干異なる文化や社会を発展させた。中国がベトナムを一つのものとして捉え、そのかわり徹底的な中国化政策をとったのに対し、フランスは分治政策をとった。「皇帝の支配は村の垣根でとまる」とは、フランス支配が都市中心だったことの証左でもあった。やがてフランス支配に対し、ホー・チ・ミンは民族解放・社会主義革命の戦いを挑む。1940年、日本が登場し、フランスの植民地支配に重なる形で日本の軍事支配が展開されると、ベトナムは抗仏・抗日闘争を一体化させて、これに立ち向かう。ついで再植民地化をねらってフランスが復帰を試みると、ベトナムはそれを「人民戦争」戦略によって撃退する。こんどはアメリカが新植民地主義的手法によってベトナムに乗り込んでくる。外国の支配者はそれが中国、フランス、日本、アメリカのいずれであろうと、言語、宗教、慣習、生活様式、教育・行政・司法制度など、それぞれの文化を強制した。ベトナムの戦いはまさに、異文化のなかでの戦いの連続であった。

[丸山静雄]

日本との関係

日本とベトナムとの関係は古く、最初にベトナムの歴史舞台に登場するのは阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)である。仲麻呂は中国の唐の時代、皇帝粛宗(しゅくそう)によって鎮南都護に任じられ、760年から761年にかけてベトナムに赴任、また766年には、代宗によって安南都護に任じられて再度ベトナムに赴任した。鎮南都護、安南都護あるいは安南節度使とは安南(ベトナム)を平定し、支配する任務をもち、いってみれば総督である。管轄地域は北は広東・広西に接するあたりから、南は北緯18度線のデオ・アナム(安南関)付近まで。都護府の所在地はハノイともビン付近ともいわれる。「天の原ふりさけみれば春日(かすが)なる三笠(みかさ)の山に出でし月かも」の有名な歌(『古今和歌集』)は、仲麻呂がこのとき望郷の思いにかられて詠んだものだという。

 室町時代には朱印船がトンキンに赴いて朱印船貿易に従事し、安土(あづち)・桃山時代、江戸時代初期にはトゥーラン(ダナン)、ファイフォ(ホイアン)に日本町がつくられ、そこでは一種の自治が許されていた。北東モンスーンは南シナ海、トンキン湾を抜けてベトナムの中部海岸に吹き寄せる。モンスーンによって難破した船はここに流れつき、帰るに帰れず、現地人と結婚して落ち着くものがあった。浦島伝説はここから生まれたのであろうか。しかし1639年(寛永16)、徳川幕府の鎖国令が出てからは、海外渡航はとだえた。ふたたび日本人がベトナムに現れるのは明治に入ってからで、「からゆきさん」「娘子(じょうし)軍」がその先鞭となった。

 ベトナムの近代民族運動の先駆者ともいうべきファン・ボイ・チャウは、日露戦争における日本の勝利に刺激されて、1905年4月来日、日本の援助を求めた。ファン・ボイ・チャウの推戴(すいたい)するクオン・デ侯も1906年4月、来日した。ファン・ボイ・チャウはベトナムの独立には人材養成が不可欠だと考え、ベトナムの若者を日本に送り勉強させた。これは「東遊運動」といわれ、1905~1909年ごろまでに、実に200名を超えるベトナムの若者が日本に学んだ。日本は、こうしたベトナムの初期民族運動を支援したが、のちにフランスの要請を受けるや、政府は民族運動家たちをことごとく日本国外に追放した。ファン・ボイ・チャウは「アジア人よ、ベトナムを見殺しにするな」といいつつ日本を去った。

 日中戦争期、太平洋戦争期には一転して、日本とベトナムとの関係は政略的・軍事的色彩を帯びてくる。日中戦争の解決に手詰りを感じた日本は、重慶(じゅうけい)政権にかわる新政権を樹立しようと、汪精衛(おうせいえい)誘致工作に着手する。その舞台に選ばれたのが北部ベトナムで、汪精衛は1938年12月、重慶を脱出してハノイに到着、ここから日本に赴いた。日本はまた、1940年9月には重慶政権への最大の軍需物資輸送路となっていた仏印ルート(一つはハイフォン―ラオカイ―昆明ルート、もう一つはハイフォン―ランソン―南寧ルート)を遮断すべく北部ベトナムに軍を進駐、さらに南部ベトナムに軍事拠点を確保しようとして、1941年7月、南部ベトナムに軍を進駐させた。これが太平洋戦争への点火を決定づけるのである。

 太平洋戦争は、真珠湾攻撃と南方作戦からなる。南方作戦は南方軍(総司令官寺内寿一(ひさいち)大将)がサイゴンに総司令部を置いて開始された。南方軍は1945年3月、明号作戦によって仏印軍を武装解除し、ベトナムに独立を許与するとして、フエにチャン・チョン・キム政権(陳重金首相、保大皇帝)を樹立した。日本はフランス支配を排除したが、かわって日本的秩序を強制した。それはフランス秩序と大差なく、日本は西欧の植民地支配構造を破壊したというよりも、むしろそれの中断を防ぎ、戦後の西欧支配の復活に力を貸した。こうした日本の施策や作戦に対してホー・チ・ミンの指導するベトナムの解放勢力(ベトミン)は抵抗したが、南方軍は「討伐作戦」を展開して解放勢力を攻撃した。この間、日本の支配によって200万の餓死者を出したとして、ベトナムは日本を批判した。1945年8月、日本軍は降伏し、南方軍はサイゴン郊外のダラトにおいて「終戦」を迎えた。

 戦後、日本はベトナム国(1949年6月、サイゴンに成立、元首保大。1951年9月、サンフランシスコ平和条約に調印。1955年10月、独立して共和制宣言、ベトナム共和国となる。大統領ゴ・ジン・ジエム)と国交をもち、同国政府に対して賠償の支払い、経済援助の供与も行った(賠償は1951~1956年に3900万ドル)。ベトナム戦争が勃発(ぼっぱつ)するや、日本政府はアメリカ軍に対し、基地の提供、兵器・戦車・艦艇の修理、軍需資材の調達、兵員休養のための施設開設など、多種多大の軍事的・非軍事的便宜を提供した。その利益ははね返って日本経済を大きく潤し、「ベトナム特需」とよばれた。しかし1975年4月、ベトナム共和国は崩壊し、アメリカ軍は敗退した。

 他方、日本は1973年9月、ベトナム民主共和国(のちのベトナム社会主義共和国。北ベトナム)との間に国交を樹立した。ベトナム軍は1978年12月、カンボジアに攻撃されたとして、カンボジアに大挙侵攻した。それをみるや、西欧諸国は「経済制裁」として北ベトナムに対する経済援助を停止し、日本もこれにならった。停止は14年間に及んだが、ベトナムとカンボジアとの和平協定がなるや、日本は1992年11月、ベトナムに対する政府開発援助(ODA)を再開、円借款を供与している。ベトナムの貿易相手国としては、日本は中国に次いで第2位であり、日本の投資額は、認可ベースでは韓国、シンガポール、台湾に次いで第4位、実行ベースでは第1位となっている。

[丸山静雄]

『アジア・アフリカ研究所編『ベトナム――自然・歴史・文化・政治・経済』上下(1977~1978・水曜社)』『丸山静雄著『インドシナ物語』(1981・講談社)』『白石昌也著『ベトナム』(1993・東京大学出版会)』『香川孝三著『ベトナムの労働・法と文化』(2006・信山社出版)』『藤田麻衣編『移行期ベトナムの産業変容』(2006・アジア経済研究所)』『秋葉まり子編『いまベトナムは』(2008・弘前大学出版会)』『松尾康憲著『現代ベトナム入門』(2008・日中出版)』『伊藤正子著『民族という政治 ベトナム民族分類の歴史と現在』(2008・三元社)』


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ベトナム」の意味・わかりやすい解説

ベトナム
Vietnam

正式名称 ベトナム社会主義共和国 Cong Hoa Xa Hoi Chu Nghia Viet Nam。
面積 33万1236km2
人口 9867万8000(2021推計)。
首都 ハノイ

インドシナ半島の東縁部を占める国。北は中国と,西は南北に連なるアンナン山脈を自然の境界としてラオスカンボジアと国境を接し,東は南シナ海,南西はタイ湾に臨む。国土は S字を引き延ばしたように細長く延び,南端から北端までは約 1600kmにわたるが,東西の幅は最もくびれたところでは 50kmにせばまる。山がちで,国土の 4分の3は山地,高原からなるが,南部ではメコン川が,北部ではホン川がいずれも北西から南東へ貫流し,その下流域に広大なデルタ(三角州)を形成している。メコン川デルタホン川デルタはベトナムの二大穀倉地帯となっており,人口も集中している。気候的には北部は温帯季節風気候,中部から南部にかけては熱帯季節風気候。住民の 80%以上はベトナム人で,残りはタイ Tay,クメール,タイ Tai,ムオン,ヌン,メオなど 60以上の少数民族や中国人からなる。公用語はベトナム語であるが,少数民族はそれぞれの言語も使う。宗教は仏教徒がおよそ半数を占める。
ベトナムは 80年に及ぶフランスの支配を覆し 1945年独立したが,まもなく再支配をはかるフランスとの間に第1次インドシナ戦争が始まり,1954年ジュネーブ協定により国土が南北に分断された。その後北部では社会主義政権のもとに国づくりが進んだが,南部では 1960年頃から民族解放勢力と政府側の対立が激化し,内乱状態となり,これにアメリカ合衆国が積極的に介入して第2次インドシナ戦争(→ベトナム戦争)に発展。1975年4月,解放勢力と北部の正規軍の総攻撃により南の政権は崩壊,アメリカ軍も完全撤退し,民族の悲願であった国家統一が達成され,1976年7月ベトナム社会主義共和国が発足した。経済的には,石炭,リン灰石,鉄鉱石,スズ,クロムなどの鉱物資源に恵まれ,ベトナム民主共和国(北ベトナム)時代に政府主導で重工業化が進められた北部と,農業が主体の南部との差異が大きい。戦争による国土の荒廃と統一後の人材流出で大きな困難に直面したが,5ヵ年計画などのもとに経済再建に向けて活発な活動が開始された。戦争で寸断された交通網の修復も急ピッチで進み,1976年末にはハノイとホーチミン市を結ぶ大動脈,トンニャット鉄道が復旧,開通した。1978年のカンボジア侵攻(→カンボジア内戦),1979年の中越戦争によって国際的に孤立し,国際収支が悪化して経済的危機に陥ったが,1986年ドイ・モイを打ち出し,経済の自由化を進める一方,カンボジアからの撤退を進め,1990年には中国との関係も修復した。外国資本の受け入れによって製造業は活況を呈し,南シナ海で石油の開発が進んで原油が重要な輸出品となっている。東南アジア諸国連合 ASEAN加盟国。(→ベトナム史

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