フサイン朝(読み)ふさいんちょう(その他表記)Husainid

日本大百科全書(ニッポニカ) 「フサイン朝」の意味・わかりやすい解説

フサイン朝
ふさいんちょう
Husainid

チュニジア王朝。16世紀以降、チュニジアはオスマン帝国の支配下に入ったが、帝国から任命されたトルコ系のチュニス太守(ベイ)はしだいに土着化して地方政権としての自立を図った。ムラード朝に続いてフサイン・ベン・アリー(1705―35)が興したのがフサイン朝で、オスマン帝国の宗主権を認めながら事実上の世襲王朝となった。19世紀なかばにはヨーロッパ列強の外圧に対抗するために近代化政策を実施したが、それが外債累積を招き、1881年のバルドー条約と83年のラマルサ協約によってチュニジアはフランスの保護領になった。ベイの地位称号こそ維持されたが、内政外交ともフランス政府が任命する統監が掌握していた。さらに1956年3月の独立、翌57年の共和制移行、ブルギバ大統領就任によってフサイン朝は名実ともに滅亡した。

[宮治一雄]

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世界大百科事典(旧版)内のフサイン朝の言及

【マグリブ】より

…16世紀にはアルジェリア,チュニジア,リビアがオスマン帝国に征服されたが,17世紀には土着化したトルコ系軍人のもとにオスマン帝国から自立し始めた。すなわち,アルジェリアは1671年からデイと呼ばれる軍人の太守が統治,チュニジアは,ムラード朝(1613‐1705)とフサイン朝(1705‐1958)の成立,リビアは,トルコ系軍人と現地人との間の子を意味するクルグリKulghli人によるカラマンリーQaramanlī朝(1711‐1835)の成立を見た。一方,モロッコはシャリーフによるサードSa‘d朝(1549‐1659),アラウィー朝(フィラール朝。…

※「フサイン朝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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