日本大百科全書(ニッポニカ) 「リエルの反乱」の意味・わかりやすい解説
リエルの反乱
りえるのはんらん
現在のカナダ、マニトバ州とサスカチェワン州で、ルイ・リエルLouis Riel(1844―85)が指導者となり、1869年と85年に起こした反乱。後者を「北西部地方反乱」とよぶこともある。リエルはインディアンとフランス系のメティス(混血)で、69年ハドソン湾会社領有地がカナダ政府に譲渡されたため、そこに含まれる自分たちの居住地、レッドリバー植民地の既得権を守ろうとして連邦政府と交渉。その際武力衝突も辞さなかったので「反乱」と称されるが、連邦政府がメティスの諸権利を擁護するマニトバ法を制定してマニトバ州を連邦に加えたので、この反乱は成功した。さらに85年、サスカチェワン川流域のメティスやインディアンは、白人移住者の進出に抵抗してふたたび蜂起(ほうき)を計画し、リエルを指導者としたが、反乱は連邦政府の迅速な軍隊派遣により鎮圧され、反乱側の要求は取り上げられなかった。リエルは捕らえられ処刑されたが、これにより彼はフランス系の宗教上、言語上、すなわち文化的諸権利の殉教者とみなされるに至り、こののちカナダにおけるイギリス系とフランス系との民族対立抗争の激化を招いた。
[大原祐子]