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クリム・ハーン国 クリムハーンこくQrīm Khān

世界大百科事典 第2版の解説

クリムハーンこく【クリム・ハーン国 Qrīm Khān】

キプチャク・ハーン国の継承国家の一つ。15世紀前半ハジ・ギライがクリミア半島に建国した。1430年ころ‐1783年。首都バフチェサライBahçesaray。1475年オスマン帝国の宗主権下に入り,ロシア・東欧に対する緩衝国家の役割を果たしたが,18世紀に入りロシアの攻勢に直面,1783年ロシア帝国に併合された。クリミア半島のイスラム化とトルコ化はクリム・ハーン国時代にほぼ完了,住民はクリミア・タタール人と呼ばれた。

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世界大百科事典内のクリム・ハーン国の言及

【クリミア半島】より

…10~12世紀のキエフ・ロシアとの関係も13世紀のモンゴルの侵入征服によって断絶し,クリミアはキプチャク・ハーン国の一ウルス(所領)に変わってしまった。15世紀前半になると,独立してクリム・ハーン国をつくったが,オスマン・トルコの興起とともにその保護国となり,13世紀から半島南岸に進出していたジェノバ人の商館も消滅した。トルコは,スラブ人との闘争にクリミア・タタールを利用したが,ロシアもまたピョートル大帝のアゾフ奪取(1696)を経て第1次露土戦争(1768‐74)の末に,キュチュク・カイナルジャ条約でトルコの宗主権を奪い,1783年にはここを完全なロシア領とした。…

【モスクワ・ロシア】より

…これに対してイワン4世はボルガ流域制圧後クリミアにも軍を送ったが目的を達せず,リボニア戦争中の1571年には侵入したタタールにモスクワを焼かれた。ボリス・ゴドゥノフはコサックにタタールの動きを牽制(けんせい)させる政策を強めたが,17世紀前半クリム(クリミア)・ハーン国は,スムータで弱ったモスクワから莫大な〈贈物〉をとりたて,しかも侵入の手はゆるめず,1650年までに約20万のロシア人が連れ去られた。また1632‐34年のポーランドとの戦争の最中ロシア側では,タタール侵入の報に接した南部出身の士族が戦場を去り,これが敗戦の一因になった。…

※「クリム・ハーン国」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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