東欧(読み)トウオウ

デジタル大辞泉 「東欧」の意味・読み・例文・類語

とう‐おう【東欧】

ヨーロッパの東部。一般に、ポーランドチェコスロバキアハンガリールーマニアブルガリアアルバニアなどの諸国をさす。東ヨーロッパ。⇔西欧せいおう

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精選版 日本国語大辞典 「東欧」の意味・読み・例文・類語

とう‐おう【東欧】

  1. ヨーロッパの東部の地域。特に、かつてヨーロッパの西部を占める資本主義諸国に対して、東ドイツ・ポーランド・チェコスロバキア・ハンガリー・ユーゴスラビア・アルバニア・ブルガリア・ルーマニアなどの社会主義諸国を指していった。⇔西欧
    1. [初出の実例]「所謂近東から東欧方面迄も」(出典:比較言語学に於ける統計的研究法の可能性に就て(1928)〈寺田寅彦〉)

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改訂新版 世界大百科事典 「東欧」の意味・わかりやすい解説

東欧 (とうおう)

〈東欧〉という概念は一般的には第2次世界大戦後に成立した〈ヨーロッパの社会主義諸国〉をさして用いられてきた。その意味でそれは政治的な概念であるが,この意味での〈東欧〉は,たかだか40年余りの歴史を持っているにすぎない。では,歴史的には〈東欧〉という概念にはどのような意味が与えられてきたのであろうか。

 一般に〈東欧〉が〈西欧〉と分けて論じられはじめたのは18世紀末と言われ,当時それは〈スラブ世界〉と同じであった。これは19世紀に入るとスラブ派の運動によって強化され,その後,ローマ・ゲルマン文化の〈西欧〉とビザンティン・スラブ文化の〈東欧〉という対比へと発展させられた。戦間期には,ロシア革命が成立したこともあり,東欧概念についての議論はさらに発展した。この時期には,旧来の考えに加えて,ローマ・ゲルマン世界に対するギリシア・スラブ世界を〈東欧〉と見て,カトリック諸国を除外する考えや,〈東欧〉をドイツとロシアの中間の地域として見る考えが展開された。第2次大戦後は前述の政治的概念が支配的となったが,1960年代からは〈東欧〉を歴史的に把握しようという有力な傾向が現れてきている。これによると,〈東欧〉が〈西欧〉と経済的・文化的・政治的に異なる発展をしはじめたのは16世紀からのことであり,〈西欧〉の発展への対応として〈東欧〉が形成されてきたという。この意味ではエルベ以東,黒海までのヨーロッパ東部が〈東欧〉と考えられる。

民族大移動以後15世紀まで,東欧の社会的発展は西欧のそれと同じ方向をたどっていた。だが,西欧との経済的分業が進んだ15世紀後半から17世紀前半までの〈長い16世紀〉の間に,東欧の中のポーランド,チェコ,オーストリア,ハンガリー北部では,自立しつつあった農民が再び封建領主のもとに従属させられ,領主の西欧市場向け商品生産(穀物,肉,砂糖,ブドウなど)のための賦役労働に従事させられ,いわゆる〈再版農奴制〉の成立を見(これらの地方を〈東中欧〉と呼ぶ),他方バルカン諸地方では,オスマン帝国のスルタンの所有地を耕作する小農民を,軍人であり徴税請負人であるシパーヒーが支配するという〈トルコ的封建制(ティマール制)〉が成立した(この地方を〈南東欧〉と呼ぶこともある)。いずれにしてもこれ以後東欧では,自立農民や工業や都市の発展は制限されゆがめられ,民族国家の萌芽的発展が見られず,多民族的帝国に諸民族が包摂されることとなった。ルネサンスや宗教改革の影響はあったが,階層的ないしは地域的に限られていた。17世紀後半から18世紀末までの時期においては,西欧で農業生産力が上昇する一方,強制労働に基づくため農業生産の停滞した東中欧は世界市場から孤立し,経済的・社会的停滞が見られた。啓蒙専制君主の貴族抑制や中央集権化の試みも十分な成果を上げえなかった。他方,南東欧においては,限られていたとはいえ,世界市場との接触がチフトリキという形の私領経営を生み出して農民収奪を強め,同時にオスマン帝国の諸民族に対する支配体制がしだいに抑圧的となった。

 産業革命と市民革命の時代になって,東欧は再び本格的に世界経済に巻きこまれ,西欧の政治・文化の影響を敏感に受けることとなった。東中欧諸国では,19世紀初めから,西欧への農産物輸出の必要上,農業経営の近代化,とくに農奴解放が改革派(中貴族と一部ブルジョアジー)によって要求されるようになるとともに,彼らを中心に多民族帝国内の諸民族の自覚(ナショナリズム)が高まった。この農奴解放と民族的自治の要求が,48年革命から1860年代にある程度実現されるブルジョア的変革の中心的内容であった。このあとしだいに解放された農奴を賃労働者として用いる地主の〈ユンカー的〉経営が展開していく。バルカンでは,オスマン帝国の支配に対する知識人や農民の民族解放運動が19世紀初めから展開されるが,1870年代までにはほぼ諸民族の独立が達成され,その中で農民による土地所有も成立した。こうした過程で注目すべきは,一つにはブルジョア的変革を貴族や知識人や農民が担わなければならなかったことであるが,もう一つは,1860年代の東欧一般において,ナショナリズムは必ずしも民族国家の形成を単線的にはめざしていなかったことで,連邦制(ドナウ連邦バルカン連邦)や国家連合などで,多民族的現実に対応しようとしていたことである。しかしこの動きはオーストリア・ハンガリー二重帝国の成立(アウスグライヒ,1867)やドイツ統一(1871)後のバルカンではしだいに弱まり,東中欧でもしだいに限定されていく。

 こうして1860~70年代までに東欧諸国は西欧のブルジョア的・資本主義的発展に対応する基礎を独自の方法で形成し,その後,東・西欧の関係はいっそう密接化するが,それはすでに帝国主義の時代の諸特徴を帯びることとなる。つまりドイツ,フランスを中心とする資本輸出に伴う独占と金融資本の早熟的形成,遅れた小工業や半封建的農業,労働者や農民の階級内分裂が顕著に見られ,また,西欧列強(独墺系と仏露系)の権力政治に東欧の外交やナショナリズムが操られるとともに(パン・スラブ主義パン・ゲルマン主義),東欧自身においても,支配層は労働者や農民の運動の台頭に対抗するためにナショナリズムを利用し,民族間の相互対立を助長した(マケドニア問題やトランシルバニア問題)。こうして労働者や農民や諸民族の運動が連帯できないで分裂している間に,東欧を舞台に第1次世界大戦が準備されていった。

 第1次大戦とロシア革命期には,東欧においてもロシアと同様の革命的危機があったが,結局はハンガリーとブルガリアでの短期の革命政権を除けば,ブルジョア的な小〈民族国家〉が形成されるにとどまった。このような〈民族国家〉はたしかに諸民族の運動の成果ではあったが,決して大戦前から一貫して求められていたわけではなく,列強の政策や反ボリシェビズムに左右されており,十分な〈民族自決〉の結果ではなかった。したがって,戦間期には,第1次世界大戦後に画定された領土を修正しようとする運動(修正主義)や経済困難を招き,ひいてはファッショ的反動体制を早期につくり出し(ハンガリーのホルティ体制,ポーランドのピウスーツキ体制,ルーマニア,ブルガリア,ユーゴスラビアの国王権力など),ドイツの外交的・経済的進出を容易にした。これゆえ東欧では労働者や農民や小ブルジョアは反ファシズム運動を具体的に組織することを早くから課題とした。しかしこうした反ファシズム諸勢力の統一は徐々に実現したにすぎず,1935年のコミンテルン第7回大会での人民戦線政策の採択を経て,結局,第2次世界大戦の中で人民戦線や祖国戦線という形をとることになった。

第2次大戦末期(1944-45),東欧諸国をファシズムの手から解放する上で,ソ連の軍事力は大きな役割を演じた。しかし,ソ連は当面東欧諸国には対ソ友好国たることを望み,各国の国内体制は各国にゆだねていた。各国では,大戦中に形成された人民戦線や祖国戦線が権力を握り,社会民主党,共産党,農民党,ブルジョア・リベラルなどの連立政権が成立していた。そのもとで徹底した土地改革と特定の大工業の国有化が行われたが,社会主義の導入は考えられておらず,東欧各国の指導者は新しい体制を〈新しい民主主義〉とか〈人民民主主義〉と呼んでいた。その場合の人民民主主義というのは,ソビエト型民主主義でも西欧型民主主義でもない,両者を総合した民主主義であると考えられていた。つまり,勤労人民の利益は代表するが議会制など手続の面で問題のあるソビエト型と,手続の面では民主的であるが勤労人民の利益から離れている西欧型との総合として〈人民民主主義〉がめざされていたのである(ただし,ユーゴスラビアの場合は,もっとソビエト型を強調した人民民主主義を考えていた)。しかし,このような状況は冷戦の本格化とともに硬直化していった。1947年にトルーマン・ドクトリンマーシャル・プランを西側が提唱して以来,ソ連は東欧各国を自己の勢力下におさめ〈ソ連・東欧圏〉を樹立することをめざし,47年にコミンフォルム(共産党情報局)を設立し,48年には東欧の中で独自の活動(バルカン連邦など)を試みるユーゴスラビアを排除して,東欧各国に,それぞれの歴史的条件に関係なく,ソ連的な経済・政治・イデオロギー体制を押しつけていった。経済面では,重工業偏重の中央統制型の計画化,行政力に頼る農業集団化が行われ,49年にできたCOMECON(コメコン)(経済相互援助会議)をとおして,東欧とソ連の結合が強化された。政治面では,議会の無視,共産党の一党支配,党内の対ソ自主派の粛清(ハンガリーのライク,ブルガリアのコストフ,ポーランドのゴムルカなど),〈小スターリン〉の独裁(ハンガリーのラーコシ,ブルガリアのチェルベンコフ,ポーランドのビエルト,チェコスロバキアのゴットワルトなど)が特徴となった。さらに,55年にはワルシャワ条約機構がNATOに対抗してつくられた。反面ユーゴスラビアは労働者自主管理(労働者管理),非同盟の社会主義を模索していった。

 しかし,1953年のスターリンの死を経て,56年のソ連共産党20回大会が,平和共存と社会主義への道の多様性を認め,スターリン批判を行うと,東欧各国でも改革が求められた。だが,東欧に対しても大きな意味のあるソ連の政策転換が東欧各国との事前の打合せなしに行われたことは,東欧各国の指導者にも国民にも不安定な状況をつくり出した。各国の指導者が改革にとまどいをみせている間に,国民の改革要求は強まった。まず,ポーランドのポズナンでは56年6月に労働条件,生活水準の改善を求める労働者の暴動がおこり,党・政府にも改革派が成長して,10月にはソ連の介入を排して,ゴムルカを中心とする新政権を生み出した(ポズナン暴動)。これに刺激されて,ハンガリーでも党員のうちの知識人層に改革派が成長し,56年10月には政治・経済体制の民主化を求める運動が首都の労働者・市民のデモとなった。しかしナジらの指導者は民族主義的となる国民を指導しきれず,ハンガリーの中立化などを宣言するに至り,ソ連の軍事介入を招いた(ハンガリー事件)。この両国以外でも非スターリン化による動揺はあったが,党や政府内部の問題として処理された。このような動揺はその後しだいに克服され,60年代に入ると中ソ対立に利をえたような形で,東欧各国の政治・経済の改革が進展した。65年からはルーマニアが対ソ自主外交の立場をとりはじめた。また,65年から68年にかけて,ほとんどの東欧諸国で企業の自主性を増大するような経済改革が導入され,ユーゴスラビアにおいても自主管理制度がさらに強化された。この時期にとくに顕著な自由化を試みたのはチェコスロバキアであった。作家同盟や党内の知識人を中心とする自由化運動は,スターリン批判の不十分であった党と政府を動かし,ドゥプチェクを党の新指導者として,68年には〈プラハの春〉と呼ばれる高まりを見せた。ドゥプチェクらは慎重に改革を試みたが,夏にはソ連をはじめとするワルシャワ条約機構軍の介入を招き,〈プラハの春〉は挫折した(チェコスロバキア事件)。こののち,チェコスロバキアはもとより,東ドイツ,ブルガリア,ルーマニアでも経済改革が後退し,おくれて68年から改革に着手したハンガリーがチェコスロバキア的な改革を引き継ぐ形となった。73年と79年の2度にわたる石油危機の間に,中央統制的計画経済体制をとる国と市場原理をとり入れた計画経済をめざす国との差は拡大した。後者のうちハンガリーは1980-81年に改革をさらに進めて,西欧にも開かれた経済をめざしていた。同じくポーランドも市場原理の導入をめざしてきたが,凶作や改革の不履行などのために,経済困難が累積した。この間ポーランドでは国民の間での政治的・思想的自由が進展してきていたから,経済困難への国民の不満は率直に表現され,それが1980-81年の労働者や知識人による〈連帯〉の運動となった。しかし81年の秋以降連帯の運動が労働者の具体的利益とやや離れ観念的になったところで,ソ連の介入を先取りした形の軍政がしかれ,運動は抑止されてしまった。

東欧における体制変革(東欧革命)は1989年以後劇的に展開したが,歴史的には,1989年からではなく,1980年からの過程と考えるのがよいと思われる。前述のようにその年からポーランドとハンガリーにおいて,変革の先鞭がつけられていたからである。この両国の変革は,86年からソ連でゴルバチョフのもとで開始された〈ペレストロイカ〉によって激励されることになり,さらには他の東欧諸国でもいくらかの変化を促した。そして,89年の前半にポーランドとハンガリーの変革がさらに進展すると,その年の秋から冬には東ドイツ,ブルガリア,チェコスロバキア,ルーマニアにおいて劇的な転換が生まれた。共産党の一党独裁はつぶれ,複数政党制,議会制が承認された。この間に旧ユーゴスラビア内のスロベニアクロアチアでも改革が進んでいた。89年末の段階では,新しい政権は旧共産党の改革派を含んだ連立になると考えられていた。しかし,90年前半に各国で行われた自由選挙の結果,社会主義諸勢力はほぼ敗北し,自由主義的中央派が政権についた。その後,91年夏までは新政権が社会主義をいくらか残しつつ〈市場化〉〈民営化〉によって新体制を確立することを模索した。だが,91年6月からの〈ユーゴスラビア内戦〉と8月のソ連での保守派の〈クーデタ〉未遂事件以後,〈市場化〉〈民営化〉が第1のスローガンとなった。しかし,同時に〈市場化〉〈民営化〉のもたらす経済的・社会的・文化的諸問題や政治的不安定は,一方で極端な民族主義的右翼勢力を,他方で社会主義的な勢力を台頭させている。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「東欧」の意味・わかりやすい解説

東欧
とうおう
Eastern Europe

東ヨーロッパと同義。一般的には、ヨーロッパを東西に二分したときの東部にあたる地域をさす。その範囲は時代によりまた場合により変わる。当初ローマ帝国分裂後の東ローマ帝国の版図をさした。ついでカトリック教会に対する東方教会の影響下にある地域、あるいはゲルマン、ラテン民族の居住圏に対してもっぱらスラブ民族の居住圏をさすこともあった。第二次世界大戦後は、ソ連の衛星国に組み入れられたヨーロッパの総称となり、ほぼスラブ民族圏と一致するようになった。非スラブ国のルーマニアとハンガリーは取り込まれたのである。しかしソ連解体後は、その範囲が不明瞭になってきている。国連の統計年鑑類でヨーロッパを東西南北に4区分する際の東欧は、ポーランド、チェコ、スロバキア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリアの他に、旧ソ連領の各国、すなわちロシア、ウクライナベラルーシ、モルドバが加わり、スロベニア、クロアチア、セルビア、モンテネグロなど旧ユーゴスラビアの各国とアルバニアが南欧に変わっている。

[久保田武]

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知恵蔵 「東欧」の解説

東欧

東欧という地域概念は一様ではなく、東欧の範囲も一定していない。東欧は様々な民族、宗教、言語、文化が混じり合った極めて多様な地域であり、同質性よりむしろ異質性の方が強く見られるからである。それにもかかわらず、東欧が1つの地域として考えられるのは、欧州の東部地域といった地理的概念にとどまらず、西欧との比較や関係の中で歴史的、政治的にまとまりを持つ概念だからにほかならない。そもそも、東欧という地域概念は第1次大戦後に、東欧諸国の研究者によって自覚的に捉えられるようになったといえる。戦後に形成された東欧諸国が少数民族問題、農業・農民問題、欧州政治における小国としての立場を共通に抱えていたため、東欧という地域の共通認識が生まれた。第2次大戦後に、ソ連のもとに社会主義ブロックとしての東欧という概念が形成された。この冷戦期の政治的概念が長い間保持されてきたが、1989年の体制転換に伴い消滅した。しかし、東欧という地域概念は現在でも意味を持たなくなったわけではない。歴史的に見て、東欧は中欧(東中欧)とバルカン(南東欧)に区分できる。民族と言語から見ると、スラブ圏はポーランド、チェコ、スロバキア、旧ユーゴスラビア、ブルガリア。非スラブ圏となるのはハンガリー、ルーマニア、アルバニア。なお、EUは2004年に加盟したバルト3国を含む8カ国と加盟候補国3カ国など東欧全体を中・東欧(Central and Eastern Europe)と称している。

(柴宜弘 東京大学教授 / 2007年)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「東欧」の意味・わかりやすい解説

東欧
とうおう

「東ヨーロッパ」のページをご覧ください。

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世界大百科事典(旧版)内の東欧の言及

【ヨーロッパ】より

…しかも前述のように,この地域の河川が交易の便をもたらしたため,11,12世紀以降,多数の都市が内陸各地に成立し,農村と不可分な経済関係を保ちつつ,やがて地中海地域をしのぐ先進性を発揮することができた。 第3は,東ヨーロッパ地域で,ここはロシア平原といわゆる東欧諸国を含むヨーロッパ大陸の胴体の部分である。その内陸部は,いずれも海から遠く,気候は大陸型で,黒海沿岸を除いては,冬は極度に寒く雨量は少ない。…

※「東欧」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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