ポル・ポト派(読み)ぽるぽとは

共同通信ニュース用語解説 「ポル・ポト派」の解説

ポル・ポト派

カンボジア共産党が母体で、クメール・ルージュとも呼ばれた。1975年に親米ロン・ノル政権を倒し、最高指導者のポル・ポト首相(当時)の下、極端な共産主義政策を展開。政治犯を虐殺したほか、貨幣制度や学校教育、宗教、家庭などの社会制度を否定し知識人を粛清。都市住民を地方に移住させ、強制労働などで死に追いやった。ベトナム軍の侵攻で79年にポル・ポト政権は崩壊したが、タイ国境地帯などで抵抗を続け、内戦が長期化。98年のポル・ポト氏死亡後、投降が相次ぎ99年に消滅した。(共同)

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知恵蔵 「ポル・ポト派」の解説

ポル・ポト派

カンボジアの共産党創設メンバーだったポル・ポト(別名サロット・サル)が率いるクメールルージュ(ポル・ポト派)が支配した民主カンプチア政権は、1975年4月の成立から79年の間に、170万人前後(人口約700万人中)の命を奪ったとされる。人口比の点で、史上例を見ない大規模虐殺。ポル・ポト派は政権を掌握すると都市住民を農村に強制移住させ、農作業や水利事業などの肉体労働を強要、全国に人民公社を建設し集団生活を強いた。都市住民を「新人民」、解放区にいた農民を「旧人民」として前者を差別、分断支配を試みた。しかし農業集団化政策は失敗に終わった。その責任転嫁をポル・ポトら幹部は「人民内部」の敵に求め、最初は反主流派(親ベトナム派)幹部、次いで旧政権出身者、「新人民」へと粛清の対象を広げ、最後には「旧人民」もささいな罪で虐殺した。こうした状況下でベトナム軍が侵攻、これを米、日、中、ASEANを中心とした国際社会が非難し、ジャングルに逃げ込んだポル・ポト派を唯一合法政権として支援したため、カンボジア内戦は泥沼化した。中国は、ベトナムの侵攻を「懲罰」するとしてベトナムを攻撃中越戦争(79年2月)が勃発した。これは社会主義を標榜(ひょうぼう)する国家同士が公然と戦った初めての戦争で、社会主義への幻滅を決定的にした世界史的な事件といえる。ポル・ポトは98年4月15日、「心臓発作」で死亡。ポル・ポト派の犯罪を裁く「特別法廷」設置法が2001年8月成立、06年5月に日本人の判事を含む司法官らが選任され、被告人選定、証拠集めなどを経て、07年11月に初めて本格審理が開始された。

(片山裕 神戸大学教授 / 2008年)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ポル・ポト派」の意味・わかりやすい解説

ポル・ポト派
ぽるぽとは
Pol Pot's group

カンボジアの反政府勢力。クメール・ルージュKhmer Rouge(赤いカンボジア人)ともよばれる。

[編集部]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ポル・ポト派」の意味・わかりやすい解説

ポル・ポト派
ポルポトは

「赤いクメール」のページをご覧ください。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内のポル・ポト派の言及

【カンボジア】より

… 粛清されずに残った親ベトナム派勢力は78年12月にカンボジア救国民族統一戦線を結成し,ベトナム軍に支援されて,79年1月,プノンペンを占領,カンボジア人民共和国(ヘンサムリンHeng Samrin政権)が成立した。ポルポト派勢力はタイ国境地帯で反ベトナムのゲリラ戦を続けながら,82年7月にはシアヌークなどの第三勢力を含めた反ベトナム3派による連合政府を発足させた。こうした内戦と政権交代に伴う混乱のため,多くの難民が生じた。…

※「ポル・ポト派」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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