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ポル・ポト派 ぽるぽとは

知恵蔵の解説

ポル・ポト派

カンボジアの共産党創設メンバーだったポル・ポト(別名サロット・サル)が率いるクメール・ルージュ(ポル・ポト派)が支配した民主カンプチア政権は、1975年4月の成立から79年の間に、170万人前後(人口約700万人中)の命を奪ったとされる。人口比の点で、史上例を見ない大規模虐殺。ポル・ポト派は政権を掌握すると都市住民を農村に強制移住させ、農作業や水利事業などの肉体労働を強要、全国に人民公社を建設し集団生活を強いた。都市住民を「新人民」、解放区にいた農民を「旧人民」として前者を差別、分断支配を試みた。しかし農業集団化政策は失敗に終わった。その責任転嫁をポル・ポトら幹部は「人民内部」の敵に求め、最初は反主流派(親ベトナム派)幹部、次いで旧政権出身者、「新人民」へと粛清の対象を広げ、最後には「旧人民」もささいな罪で虐殺した。こうした状況下でベトナム軍が侵攻、これを米、日、中、ASEANを中心とした国際社会が非難し、ジャングルに逃げ込んだポル・ポト派を唯一合法政権として支援したため、カンボジア内戦は泥沼化した。中国は、ベトナムの侵攻を「懲罰」するとしてベトナムを攻撃、中越戦争(79年2月)が勃発した。これは社会主義を標榜(ひょうぼう)する国家同士が公然と戦った初めての戦争で、社会主義への幻滅を決定的にした世界史的な事件といえる。ポル・ポトは98年4月15日、「心臓発作」で死亡。ポル・ポト派の犯罪を裁く「特別法廷」設置法が2001年8月成立、06年5月に日本人の判事を含む司法官らが選任され、被告人選定、証拠集めなどを経て、07年11月に初めて本格審理が開始された。

(片山裕 神戸大学教授 / 2008年)

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朝日新聞掲載「キーワード」の解説

ポル・ポト派

親米ロン・ノル政権を倒し、75年に民主カンボジア政府を樹立。階級の否定や国民の私財没収など、極端な共産主義政策を進め、都市住民を農村へ強制移住させた。虐殺や餓死などの犠牲者は170万人とも言われる。79年にベトナムが支援するヘン・サムリン政権に追われたが、シアヌーク派、ソン・サン派と3派連合を形成し、内戦に。91年のパリ和平後もポル・ポト派は北部を拠点に戦闘を続けた。98年、ポル・ポト元首相が死去。99年にはタ・モク元参謀総長が政府軍に拘束され同派は完全に消滅した。国連とカンボジア政府の共催で元最高幹部らを裁く特別法廷は08年にも開廷する予定。

(2007-12-04 朝日新聞 朝刊 アジア)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

ポル・ポト派
ポルポトは

赤いクメール」のページをご覧ください。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

ポル・ポト派
ぽるぽとは
Pol Pot's group

カンボジアの反政府勢力。クメール・ルージュKhmer Rouge(赤いカンボジア人)ともよばれる。[編集部]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

世界大百科事典内のポル・ポト派の言及

【カンボジア】より

… 粛清されずに残った親ベトナム派勢力は78年12月にカンボジア救国民族統一戦線を結成し,ベトナム軍に支援されて,79年1月,プノンペンを占領,カンボジア人民共和国(ヘンサムリンHeng Samrin政権)が成立した。ポルポト派勢力はタイ国境地帯で反ベトナムのゲリラ戦を続けながら,82年7月にはシアヌークなどの第三勢力を含めた反ベトナム3派による連合政府を発足させた。こうした内戦と政権交代に伴う混乱のため,多くの難民が生じた。…

※「ポル・ポト派」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について | 情報

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