ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
粛清
しゅくせい
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本来の意味は、組織的な点検による共産党員としてふさわしくない者の党からの追放である。旧ソ連共産党は、権力についた党には内部に腐敗がおこるので、定期的な浄化が必要であるという考えにより、党規約に粛清の制度を定め、1921年から36年まで何回か特別委員会をつくって全党員を点検し、党内から腐敗分子を追放する措置をとってきた。しかしスターリンが党の指導権を確立した20年代末から、粛清の制度は、当時の路線に批判的な者を党から追放するために利用され、混乱を招いたので、39年の規約改正で粛清の制度は廃止された。以後ソ連では、腐敗分子の追放は規約の定める通常の手続で個別的に行われていた。
粛清は西側諸国の文献では別の意味でも用いられている。すなわち1920年代から50年代初めまで、旧ソ連では路線、政策をめぐる論争で少数派の幹部が党と政府の要職を解任され、とくに30年代には当時の党規約の定める粛清の手続によらず、多数の幹部が違法に逮捕され、そのなかには殺された者が多く、同じ事態は50年代に若干の東欧諸国でもおき、そのため西側諸国で「血の粛清」ということばが生まれた。中国では50年代なかばの反右派闘争のとき、毛沢東(もうたくとう/マオツォートン)に批判的な多数の知識人が弾圧され、60年代なかばから70年代なかばの「プロレタリア文化大革命」時代には、反毛沢東派の多数の幹部が弾圧され、毛沢東の死後は逆に彼の側近が逮捕され、党内の毛沢東派の多数の幹部が失脚したが、西側諸国の文献ではこれらの例も粛清とよばれている。
大半の社会主義国では1950年代なかばに、党内での意見の違いを少数派の組織的排除と弾圧で解決する過去の実践が非難され、以後このような事態はなくなっており、西側諸国の使う意味での粛清はない。しかしベトナム労働党は、ベトナム戦争後の70年代なかばに、党の強化のため非党員の参加のもとに全党員を点検し、不良党員を追放する運動を行った。このような本来の意味での粛清は、他の若干の社会主義国でも行われている。
[稲子恒夫]
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…また主流派と反対派とが相互に相手を除名しあうことにより,組織体が分裂することもまれに存在する。 除名がとくに大きな政治的意味をもつのは,イデオロギー的基盤が強固な政治組織,とくに社会主義,共産主義運動や特定のイデオロギーを標榜する一党制国家においてであり,その場合の除名は〈粛清〉とよばれている。1927年のトロツキーのロシア共産党からの除名や,1948年のコミンフォルムからのユーゴスラビア共産党の除名などが有名である。…
…1930年代後半のソ連邦においてスターリンが行ったソ連邦共産党幹部や軍人,知識人,大衆に対するテロルを指し,主として〈西側〉の諸国で用いられる呼称。粛清とは元来プロレタリアの前衛党の党員としてふさわしくない人物を党から除名することを意味するもので,テロルとは無関係な概念であった。 1917年の革命後21年までに共産党以外の党派が消滅し,30年ごろまでに分派の禁止措置により党内反対派やグループが禁じられ,スターリンの支配が形成された。…
※「粛清」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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