万見保
まみほ
呉羽山丘陵北端部、近世の駒見郷にあたる。元来国衙領であったが、南北朝動乱期にその給主の国人土豪が反幕府の立場に立った結果闕所地処分をうけたとみられ、足利将軍家一族に領せられることとなった。応永一五年(一四〇八)一〇月三日の将軍家御教書(尊経閣文庫所蔵文書)に当保名がみえ、小河殿足利満詮(前将軍義満の同母弟)の所領となっている。満詮の母紀良子は山城石清水八幡宮検校法印通清の娘であり、現八幡の駒見八幡宮勧請の背景に関係しているのではないかと思われる。同二五年に没した満詮(養徳院)から京都実相院(現京都市左京区)門跡に寄進され(長禄三年一〇月二五日「実相院門跡領目録」尊経閣文庫蔵実相院文書)、永享五年(一四三三)五月一三日には当保地頭職などの当知行が将軍足利義教によって実相院に安堵されている(「足利義教御判御教書」尊経閣文庫所蔵文書)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
Sponserd by 