古文書様式の一つ。〈みきょうじょ〉と読む説もある。参議,三位(公卿)相当以上の貴人の仰(おおせ)を奉じた奉書をいう。中国の唐制で,親王,内親王の命を下達する文書を〈教〉ということから,日本ではこれを準用して貴人の仰を〈教〉といい,仰を文書としたものを〈教書〉といった。さらに,公卿相当以上の〈教書〉に敬語を付して〈御教書〉と呼ばれるようになったといわれている。御教書の種類は多種にのぼるが,代表的なものを挙げれば,上皇の院宣,天皇の綸旨,皇太子,親王,内親王,女院,准三后の仰の令旨(りようじ),摂政の摂政御教書,摂関家の殿下御教書,藤原氏,源氏などの氏長者の長者宣(藤氏長者が橘氏などの長者を代行する場合は,是定宣という),知行国主の国宣,諸公卿家の某家御教書,諸寺院家の某長者御教書,某長吏御教書,某座主御教書,某別当御教書,などがある。
御教書の語の初見は,三条家本《北山抄》(藤原公任自筆)の紙背文書(長徳・長保(995-1004)ころの備中守書状)にみえる記事といわれるから,御教書は,ほぼ10世紀後半ころから使用され出したものと推定される。御教書は,はじめ公文書を出すまでもない雑務,また公文書を出す折衝やその送状に使用されたが,11世紀末の院政の成立や荘園制の確立に伴い,従来の公文書である公式様(くしきよう)文書,下文(くだしぶみ)様文書に代わって多用されるようになる。鎌倉時代中期ごろには公式様・下文様文書を駆逐して,所領・所職(しよしき)の与奪・安堵,裁判の判決,租税の賦課・免除,補任(ぶにん)状等の公験(くげん)にも使用されるようになった。この段階までくると,御教書は単に貴人の仰を奉(うけたまわ)った奉書ということにとどまらず,政治上の公式文書という意味合いをもつようになり,非公式の政治文書としての奉書,御内書(ごないしよ)と対立する概念となった。これに伴い,特に院宣,綸旨など国家の政務を掌握する者の御教書は,平安時代,鎌倉初期に院司や蔵人(くろうど)が奉じていたのが,鎌倉中期以降になると政務を分担執行する伝奏や奉行がこれを奉ずるようになり,政務執行体制に即した文書発給の体制が整えられるようになる。
他方,武家の側でもこれにならい,鎌倉幕府においては執権,連署が鎌倉殿の仰を奉った関東御教書,直接鎌倉殿の仰を奉じているわけではないが六波羅探題がそれを奉った形の六波羅御教書,同じく鎮西探題が奉じた形の鎮西御教書がある。室町幕府では,奉書形式ではなく室町殿みずからが直接出す形の御判御教書(ごはんのみぎようしよ)が生まれ,奉書形式では執事,管領が室町殿の仰を奉った室町幕府御教書がある。御判御教書において,はじめて御教書は奉書という意味合いを脱し,政務者の公文書という意味に固定化されるが,戦国時代の判物(はんもつ),印判状,江戸時代の朱印状などは,その意味での御教書といってもよいであろう。
執筆者:富田 正弘
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平安時代以降盛んとなった奉書のうち、三位(さんみ)以上の公卿(くぎょう)またはこれに準ずる人の命令を家臣が受けて発行する文書。唐において、上所から下所に下す文書を「教」といい、わが国においても奈良時代以来、身分の高い者の仰せを「教」とよんだことから、御教書の名称が生まれた。現在、摂政(せっしょう)・関白(かんぱく)家御教書、鎌倉・室町両幕府の将軍家御教書などが数多く残っている。鎌倉幕府では執権(しっけん)、連署連名の関東御教書(将軍家御教書)のほか、六波羅探題(ろくはらたんだい)が出した六波羅御教書、鎮西(ちんぜい)探題の鎮西御教書がある。室町幕府には、管領(かんれい)(執事)が将軍の命令を受けて出す将軍家御教書のほか、九州探題が将軍の意を奉じた九州探題御教書があり、また鎌倉公方(くぼう)の命令を受けて執事の出した奉書を鎌倉殿(どの)御教書とよんでいる。御教書は本来私的な書状であったが、武家社会では政治、裁判など公的な事柄の伝達文書に用いられた。なお綸旨(りんじ)、院宣(いんぜん)、令旨(りょうじ)をも御教書とよぶことがある。また室町時代、将軍自身の署名で発給した直書形式の文書を御判(ごはん)の御教書と呼び習わしている。
[百瀬今朝雄]
「みきょうじょ」とも。三位以上の位をもつ者およびそれに準ずる者の意思を,側近が承って出す奉書(ほうしょ)形式の文書。中国唐代に親王の命令を伝える文書を「教」といったことに由来するという。月日だけが書かれ,年号は書かれないのが最初の形式。その下には奉者(ほうじゃ)(主人の意思を承った形式上の差出人)が署名する。本文の最後に「てへれば(「と言へれば」の約),仰せに依り執達件の如し」「てへれば,御消息(御気色)此くの如し」「の由,仰せ下され候」などの言葉が書かれる。摂関家の御教書はとくに殿下御教書とよばれた。
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…また上卿から外記(げき)に命じて発給させる外記方宣旨,上卿から弁に命じ,弁から史に命じて作成される弁官方宣旨,遥任の国司や大宰帥が多くなったため,在国の官人に国司や帥の命を伝える国司庁宣,大府宣もこの系統である。公家様文書溯源の第2は,私文書たる書状の系譜を引くもので,綸旨(りんじ),院宣,令旨(りようじ)(公式様とは別),御教書(みぎようしよ),長者宣などである。貴人の側近に仕える人(天皇の場合は蔵人,上皇の場合は院司)が主人の仰せを承り,書状の形式で相手に伝えるもので,本来私文書であるが,仰せの主体の権威がそのまま文書の効力に機能した。…
…(e)書札様文書 平安末期に院政が成立し,鎌倉中期以降それが本格化するとともに,本来は私信であった書札から出発した院宣・綸旨(りんじ)などの書札様文書が,やがて国政の最高の文書として用いられるようになる。それとともに公家・寺社の間にも御教書(みぎようしよ)が行われるようになり,武家においても関東・六波羅・鎮西の御教書が用いられた。室町幕府にあっては,その制度的完成をみた足利義満以降は,前代の下文・下知状に代わって御判御教書・御内書が最高の権威を有するものとなり,管領奉書以下の書札様文書が幕府の中心的な文書となった。…
…このことは,奉書が一般の書札と異なり,はじめから政治的・公的色彩を帯びた文書形式であることを示している。 奉書のうち,参議,三位以上の官位を帯びる者の仰を奉じた奉書を特に御教書(みぎようしよ)と呼ぶが,御教書を含む奉書を広義の奉書とすれば,御教書を除く比較的低官位の者の仰を奉ずる奉書を狭義の奉書ということができる。また鎌倉時代中期以降,書札様文書が盛行し,公式様(くしきよう)文書や下文(くだしぶみ),下知状(げちじよう)に代わって書札様文書が公文書化すると,院宣,綸旨(りんじ),国宣(こくせん),長者宣,別当宣,関東御教書,室町幕府御教書のごとく,御教書は書札様の公式的文書を指す語となり,これに対して非公式の文書を指すのに,奉書という語を用いることになる。…
※「御教書」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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