上妻郡(読み)かみつまぐん

日本歴史地名大系 「上妻郡」の解説

上妻郡
かみつまぐん

筑後国の中央部から南東端部に位置し、北は竹野たけの郡・山本やまもと郡・御井みい郡、西は三潴みづま郡・下妻郡山門やまと郡、南は肥後国玉名たまな郡・山鹿郡、東は豊後国日田郡、北東は生葉いくは郡に接する。およそ近世の郡域は現在の八女やめ上陽じようよう町・広川ひろかわ町・黒木くろぎ町・矢部やべ村・立花たちばな町、筑後市北部、西端の一部を除く八女市に相当する。古代は「かみつやめ」「かみつま」、中世・近世は「こうづま」、近代は「かみつま」と称された。

〔古代〕

和名抄」諸本に文字の異同はなく、東急本・元和古活字本は「加牟豆万」の訓を、名博本は「カンツム」の傍訓を付す。「日本書紀」持統天皇四年(六九〇)九月二三日条に「大唐の学問僧智宗・義徳・浄願、軍丁筑紫国の上陽郡の大伴部博麻、新羅の送使大奈末金高訓等に従ひて、筑紫に還至れり」とみえ、軍丁大伴部博麻の出身地「上陽郡」を郡名の初見と考えることができる。同書同年一〇月二二日条にも「軍丁筑後国の上陽郡の人大伴部博麻」がみえ、博麻は斉明天皇七年(六六一)の百済救援の役に際して唐軍の捕虜となり、のちに自らを奴隷として身売りし、その代を資金として土師連富杼・氷連老・筑紫君薩夜麻、弓削連元宝の子を帰国させ、この四人に唐の計略を朝廷に伝えさせたという。持統天皇はこれを賞して、博麻に務大肆の位階と・綿・布・稲・水田を与えた。「筑後国風土記」逸文(釈日本紀)には「上妻県」とみえる。一方で、「日本書紀」景行天皇一八年七月七日条には、景行天皇が「八女県」に至った時の記事がみえる。それによると、天皇が藤山ふじやま(現久留米市に比定)から粟岬あわのさき(現大牟田市に比定)の方を望見した際、その美麗さに感嘆した山に八女津媛という女神がいたので、そこを「八女国」とよぶようになったという。以上のことから、古くは八女国と称されていた地域がのちに上陽かみつやめ・下陽に分れ、それらが上妻・下妻とよばれるようになったと考えられる。「和名抄」には管郷として太田おおた三宅みやけ葛野かどの桑原くわはらの四郷が載る。上妻郡衙は太田郷に所在したと推定されている。「延喜式」兵部省諸国駅伝馬条にみえる葛野駅は、御井みい郡御井駅から南下して山門郡狩道かりじ(現山川町尾野に比定)に至るルート上に位置し、同名の葛野郷に所在したと考えられる。八女地域を本拠地とする地方豪族に筑紫君がおり、「日本書紀」「古事記」、前掲風土記逸文には筑紫君磐井の乱の記事がみえる。「日本書紀」継体天皇二一年六月三日条によると、筑紫君磐井は新羅と手を結び、また火(肥前・肥後)・豊(豊前・豊後)の二国に勢力を伸ばして、朝廷に反逆したと伝える。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報