後国(読み)ちくごのくに

日本歴史地名大系 「後国」の解説

後国
ちくごのくに

九州の北部中央南寄りに位置し、北西は肥前国、北は筑前国、東は豊後国、南は肥後国に接し、南西は有明海に面する。

古代

〔国名の由来と初見〕

「釈日本紀」所引の「筑後国風土記」逸文に「筑後の国は、本、筑前の国と合せて、一つの国たりき」とみえるように、筑後国は筑前国とともに「筑紫国」とよばれていた。さらに同書は筑紫つくしの由来について、いくつかの地名起源説話を載せている。すなわち両国の間に峻険な坂があり、往来する人が乗る馬の鞍を擦り尽すので、これを鞍尽しの坂とよんだとの説、また両国の境に荒ぶる神がおり、往来の人の半ばを死に至らしめるので、この神を命尽しの神とよんだとの説、さらにその死者を葬るための棺を造るのに山の木が尽きようとしたので筑紫国とよんだとする説である。両国の境とされるのは筑前国御笠みかさ郡から筑後国御原みはら郡に至る地点で、現筑紫野ちくしの原田はるだには延喜式内社である筑紫ちくし神社が鎮座しており、その付近には大字筑紫ちくしの地名も残るので、本来はこの辺りが筑紫つくしとよばれていたのであろう。それが筑前・筑後両国を含む領域をさすようになり、さらには九州全体をさす用例もみられる。

「和名抄」東急本・元和古活字本の国郡部は「筑紫乃三知乃之里」(ツクシノミチノシリ)の訓を付す。「日本書紀」持統天皇四年(六九〇)一〇月二二日条に「軍丁筑後国の上陽郡の人大伴部博麻」とあり、これを国名の初見とみる説がある。ここには大伴部博麻が斉明天皇七年(六六一)の百済救援の役に従軍して捕虜となったこと、自らを身売りして筑紫君薩夜麻らを帰国させたことが記されており、持統天皇はこれを賞して位階と・綿・布・稲および水田を与えたとある。また持統天皇四年九月二三日条には「軍丁筑紫国の上陽郡の大伴部博麻」とみえる。この両条の表記の違いについて後者は博麻の帰国を伝える記事であり、この時には博麻の入唐時の呼称である「筑紫国」が用いられたとし、前者の褒賞記事では持統天皇四年当時の呼称である「筑後国」に変更されたとみてこれを初見記事とするのである。ただしこの「筑後国」の表記は、卜部兼右本「日本書紀」(天理図書館蔵)によると、「後」の字の左に「紫イ」との傍書があり、「筑紫国」の誤写の可能性も考えられるので、これを初見と認めない見方もある。「続日本紀」文武天皇二年(六九八)三月九日条には「筑前国」が初見するので、この頃にはすでに筑前・筑後に分割されていたと考えられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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