下妻郡(読み)しもつまぐん

日本歴史地名大系 「下妻郡」の解説

下妻郡
しもつまぐん

筑後国の中央部西寄りに位置し、東から北は上妻郡、西は三潴みづま郡、南は山門やまと郡に接する。およそ近世の郡域は現在の筑後市南部、山門郡瀬高せたか町の北端部に相当する。

〔古代〕

郡名の確実な初見は「延喜式」民部上まで下る。しかし「日本書紀」持統天皇四年(六九〇)九月二三日条にみえる「上陽郡」は上妻郡の郡名の初見と考えることができ、「筑後国風土記」逸文(釈日本紀)には「上妻県」ともみえる。一方、「日本書紀」景行天皇一八年七月七日条には景行天皇が「八女県」に至った時の記事がみえる。それによると天皇が藤山ふじやま(現久留米市に比定)から粟岬あわのさき(現大牟田市に比定)の方を望見した際、その美麗さに感嘆した山に八女津媛という女神がいたので、そこを「八女国」とよぶようになったという。「下陽郡」「下妻郡」はみえないものの、古くは八女やめ国と称されていた地域が、のちに「上陽」「下陽」に分れ、それらが上妻・下妻とよばれるようになったと考えられる。「和名抄」には管郷として新居にいい鹿待かまち村部むらべ三郷が載る。下妻郡衙については、郡名を伝える現筑後市下妻に群女ぐんじよ蔵屋敷くらやしきの小字名が残ることから、ここに比定する説がある。また古代の葛野かどの駅に比定される同市前津まえづ車路くるまじ付近の北西約五〇〇メートル、想定古代駅路の西約三〇〇メートルの地点と推定する説もある。条里については、山門郡との郡境付近を中心に復元が試みられている。

〔中世〕

康治三年(一一四四)正月一一日の観世音寺領大石・山北封并把岐庄司等解案(東大寺文書/平安遺文六)にみえる溝口三郎大夫は、当郡内にあたる現筑後市溝口みぞくち名字の地とする武士と考えられ、のち溝口氏は国人領主として戦国期までその活動が知られる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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