龍造寺隆信(読み)りゅうぞうじたかのぶ

精選版 日本国語大辞典 「龍造寺隆信」の意味・読み・例文・類語

りゅうぞうじ‐たかのぶ【龍造寺隆信】

  1. 室町後期から安土桃山時代武将肥前国佐賀県佐賀城主大友宗麟としばしば戦い有馬松浦後藤氏などを従えて、西九州を制圧したが、島津家久と戦い敗死した。享祿二~天正一二年(一五二九‐八四

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「龍造寺隆信」の意味・わかりやすい解説

龍造寺隆信
りゅうぞうじたかのぶ
(1529―1584)

戦国時代の武将。父は龍造寺氏の支流水ヶ江家の周家(ちかいえ)。母は村中龍造寺家出身の慶誾(けいぎん)。7歳で宝林院(佐賀市鬼丸町)に出家し中納言(ちゅうなごん)円月と称した。還俗(げんぞく)して水ヶ江家を相続、民部大輔(だいぶ)隆胤(たかたね)と名のる。ついで惣領(そうりょう)家村中龍造寺胤栄(たねみつ)が病死したため、胤信(たねのぶ)(隆胤を改名)が村中家の家督をも継承した。1550年(天文19)少弐(しょうに)氏に対抗して大内義隆(よしたか)と通じ、偏諱(へんき)を受け山城守(やましろのかみ)隆信と改名。翌年家臣らの陰謀で一時筑後(ちくご)に逃れたが、旧好の国人(こくじん)や河副(かわぞえ)荘(佐賀市川副町)の地侍(じざむらい)層の援助で、53年佐嘉(さが)城を奪回した。59年(永禄2)に少弐冬尚(ふゆひさ)(時尚(ときひさ))を破り肥前勢力を伸ばした。70年(元亀1)肥前に侵攻した大友宗麟(そうりん)の軍勢を退却させ、その余勢で松浦(まつら)党の国人(こくじん)を討つ一方、78年(天正6)有馬鎮貴(しげたか)(晴信(はるのぶ))と和議し肥前一国をほぼ平定した。その後筑後(ちくご)、翌年には筑前(ちくぜん)、豊前(ぶぜん)へと攻略、領国を拡大した。81年島津氏の肥前侵攻に有馬氏が盟約を破り呼応したため、84年島津・有馬の連合軍と沖田畷(おきたなわて)(長崎県島原市)に戦う。形勢不利のうちに伏兵にあい自刃した。

[太田順三]

『川副博著『龍造寺隆信』(1968・新人物往来社)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「龍造寺隆信」の意味・わかりやすい解説

龍造寺隆信
りゅうぞうじたかのぶ

[生]享禄2(1529).肥前
[没]天正12(1584).3.24. 肥前
戦国時代の武将。周家の子。幼名,長法師。初名,隆胤。号,法雲院。幼い頃に出家して僧となったが,天文 16 (1547) 年還俗して隆信と名のり,山城守を称し,初め大内義隆に属し,勢力を伸ばした。永禄2 (59) 年少弐氏を滅ぼして大友宗麟と対立した。以来大友氏と連年戦いを続け,天正3 (75) 年には肥前全域を平げ,さらに肥後に侵入,島津氏と対立するにいたった。この間有馬氏と結んだが,有馬氏はやがて島津氏に走り,同 12年3月島津家久,有馬晴信と戦って敗れ自害した。

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