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龍造寺隆信 りゅうぞうじたかのぶ

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

龍造寺隆信
りゅうぞうじたかのぶ

[生]享禄2(1529).肥前
[没]天正12(1584).3.24. 肥前
戦国時代の武将。周家の子。幼名,長法師。初名,隆胤。号,法雲院。幼い頃に出家して僧となったが,天文 16 (1547) 年還俗して隆信と名のり,山城守を称し,初め大内義隆に属し,勢力を伸ばした。永禄2 (59) 年少弐氏を滅ぼして大友宗麟と対立した。以来大友氏と連年戦いを続け,天正3 (75) 年には肥前全域を平げ,さらに肥後に侵入,島津氏と対立するにいたった。この間有馬氏と結んだが,有馬氏はやがて島津氏に走り,同 12年3月島津家久,有馬晴信と戦って敗れ自害した。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

龍造寺隆信
りゅうぞうじたかのぶ
(1529―1584)

戦国時代の武将。父は龍造寺氏の支流水ヶ江家の周家(ちかいえ)。母は村中龍造寺家出身の慶(けいぎん)。7歳で宝林院(佐賀市鬼丸町)に出家し中納言(ちゅうなごん)円月と称した。還俗(げんぞく)して水ヶ江家を相続、民部大輔(だいぶ)隆胤(たかたね)と名のる。ついで惣領(そうりょう)家村中龍造寺胤栄(たねみつ)が病死したため、胤信(たねのぶ)(隆胤を改名)が村中家の家督をも継承した。1550年(天文19)少弐(しょうに)氏に対抗して大内義隆(よしたか)と通じ、偏諱(へんき)を受け山城守(やましろのかみ)隆信と改名。翌年家臣らの陰謀で一時筑後(ちくご)に逃れたが、旧好の国人(こくじん)や河副(かわぞえ)荘(佐賀市川副町)の地侍(じざむらい)層の援助で、53年佐嘉(さが)城を奪回した。59年(永禄2)に少弐冬尚(ふゆひさ)(時尚(ときひさ))を破り肥前に勢力を伸ばした。70年(元亀1)肥前に侵攻した大友宗麟(そうりん)の軍勢を退却させ、その余勢で松浦(まつら)党の国人(こくじん)を討つ一方、78年(天正6)有馬鎮貴(しげたか)(晴信(はるのぶ))と和議し肥前一国をほぼ平定した。その後筑後(ちくご)、翌年には筑前(ちくぜん)、豊前(ぶぜん)へと攻略、領国を拡大した。81年島津氏の肥前侵攻に有馬氏が盟約を破り呼応したため、84年島津・有馬の連合軍と沖田畷(おきたなわて)(長崎県島原市)に戦う。形勢不利のうちに伏兵にあい自刃した。[太田順三]
『川副博著『龍造寺隆信』(1968・新人物往来社)』

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