新羅(読み)シラギ(その他表記)Silla

デジタル大辞泉 「新羅」の意味・読み・例文・類語

しらぎ【新羅】

古代朝鮮の王国名。4世紀中ごろ、朝鮮半島南東部、辰韓12国を斯盧しろ国が統一して建国。7世紀後半、と結んで百済くだら高句麗こうくりを滅ぼし、668年、朝鮮全土最初の統一国家となった。都は慶州律令や仏教文化など大陸の制度・文物を移入し、中央集権的統治を行ったが、935年、高麗こうらい王建に滅ぼされた。しんら。

しんら【新羅】

しらぎ(新羅)

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精選版 日本国語大辞典 「新羅」の意味・読み・例文・類語

しらぎ【新羅】

  1. ( 古くは「しらき」 ) 古代の朝鮮半島の国名。四世紀中ごろ、朝鮮南東部の辰韓一二国を斯盧(しら)国が統一して建てた国。慶州に都した。六世紀に任那(みまな)を滅ぼし、半島から日本勢力を駆逐して、百済(くだら)、高句麗(こうくり)三国時代を現出。七世紀には唐と結んで百済、高句麗を滅ぼし、大同江以南の半島最初の統一国家をつくった。唐制にならい中央集権的な政治体制をしいたが、地方勢力の台頭に苦しみ、九三五年高麗(こうらい)の太祖王建に滅ぼされた。しんら。

しんら【新羅】

  1. しらぎ(新羅)
    1. [初出の実例]「昔神宮皇后新羅(シンラ)を攻させ給ひしに」(出典:高野本平家(13C前)七)

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改訂新版 世界大百科事典 「新羅」の意味・わかりやすい解説

新羅 (しらぎ)
Silla

古代朝鮮の国名。356-935年に及ぶ。〈しんら〉〈しら〉と発音するのが一般的であるが,日本では城の意味を語尾に付して,〈しらぎ〉と呼びならわしている。新羅の建国年次は,中国の文献で辰韓しんかん)の斯盧(しろ)国から新羅に変わり,慶州で高塚墳が盛行する4世紀後半と見,《三国史記》によって奈勿(なもつ)王の即位年をあてた。この新羅建国期は六部(ろくぶ)の統合により貴族連合体制が成立する時期でもある。一般には,三国時代(356-676)と統一新羅時代(677-935)に大きく二分するのが普通であるが,斯盧国時代を含めた新羅の時代区分をすれば,表のようになる。

新羅は韓族の初期農耕社会から生まれた村落共同体を基盤とした国家である。その中心をなす六村は,辰韓の斯盧国時代に成立し,現在の慶州市とこれをとりまく幅1km,長さ10km以上の谷間をそれぞれ根拠地として発展した。とくにこの地方の谷間は初期農耕にもっとも適したゆるやかな傾斜地となっている。この農耕生産の有利な地域を基盤とした六村は連合して斯盧国となるが,地域的に偏在していたため,4世紀後半まで国際社会に参加しないが,社会的にはかなりの発展をみせた。斯盧国時代の政治組織を建国神話などからみると,支配権力は弱く,個々の成員が重視され村落共同体の秩序が確立していた。この段階の王者は,政治的・軍事的才能を要求されるのではなく,農耕生産に不可欠の要因である天候を予知するシャーマンとしての能力を求められた。斯盧文化の性格を神話でみると,加羅地方と類似し,天神が山頂に降臨し,水神を王妃として迎える農耕神話がある一方,海洋渡航神話もあり,その基層文化は南方系統とみられる。これに対し貴族文化は,墳墓の構造やその出土品から伝統を尊重する保守的傾向が強いが,楽浪郡,帯方郡の中国文化や高句麗,蒙古などの北方文化の影響もみられる。

4世紀後半の斯盧国から新羅国への改称は,国の内外での飛躍的な発展による。国内的には六村の連合体制が六部の統合による貴族体制に変わった。17代奈勿王(なもつ)(王号を麻立干(まりつかん)と称する)以降,金氏が王位を独占したと伝えられ,国際的にも新羅の名が散見するようになり,新羅も歴史時代に入った。新羅は377,382両年に辰韓諸国の代表として,前秦に朝貢した。399年倭軍に王都を占領され,翌年高句麗の援軍に一時救われるが,ふたたび安羅軍や倭軍に王都を占領された。その後も高句麗と倭とに攻撃され,ときには王都が占領される苦難の時代が続いた。425年以降,倭王が宋に要請した称号に,新羅,秦韓など〈七国諸軍事〉があり,これによれば倭が新羅の独立を認めるとともに秦(辰)諸国がなお存続していたことを示している。新羅史料や南北朝以前の中国史料にみえるは,北九州および加羅諸国の別称とみられる。

 5世紀後半になると,新羅は高句麗,倭の勢力を排除しながら洛東江中流域に進出し,百済を救援して高句麗と戦うことさえあった。この時期には王者の権威が拡大し,その墳墓は直径82m,高さ21mの鳳凰台古墳(慶州)をはじめ大型になった。またその副葬品には加羅諸国と同様農耕器具が多く,この社会の基本が農耕生産であり,王者の権威が農耕祭祀にあったことを示している。これらの墳墓の構造や副葬品の金冠,帯金具,馬具,剣,ガラス製品などには,北方スキタイ文化や中国文化の影響がみられ,馬具やガラス製品には日本に影響を与えたものもある。

この時期の特徴は国内の諸制度の整備と領土の拡大とにある。これを細分すれば,前半は貴族体制の制度化と,三国対立のなかでの領土拡大とである。後半は律令体制への過渡期であり,統一戦争の時期ともいえる。503年に,国際的に使用されていた新羅の国号や王の称号を,国内でも使用することにしたのをはじめ,上大等,兵部令など中央官職や州軍主など地方軍政官の名称を制定するなど,制度化の第一歩をふみ出した。520年に律令を発布したとあるが,その実態は正式の官服を制定した程度で,これらの諸制度は,初期貴族体制下で成立してきた慣習を整備したものが多い。前期の過酷な国際情勢のもとでは団結を要求され,そのため階級分化や地域の共同体の再編成が行われ,官位十七等の制度や六部の制度もこの時期に原型が成立している。また,経済組織も大きく進展し,牛を使用する農耕が始まり,堤防の築造など農耕生産の技術が飛躍的に発展した。これをうけて商品売買の市場が開かれ,水上運輸も整備された。初期農耕に有利な地形をもつ新羅では,新しい生産技術を導入することによって国力が急速に増大し,528年には仏教を公認し,建元の年号を初めてたてた。

 また国際的な活動も積極的になり,前期には受身であった加羅(倭)対策も攻勢に転じ,530年ごろ,卓淳(大邱)地方に進出し,532年には金海加羅地方を併合した。新羅の加羅進出は,この地方に勢力をのばそうとしていた百済や,百済に救助を求められた日本(大和朝廷)および残余の加羅諸国との間に,複雑な国際関係が生じた。真興王代(540-576)は仏教の興隆と伽倻琴の継承など文化の発展期でもあり,三国時代最大の版図となった領土拡大期でもあった。562年には高霊加羅をはじめ加羅諸国を傘下におさめ,漢江流域を制圧し,東海(日本海)岸では咸鏡南道北部まで勢力をのばし,ここに四方軍主をおいて,地方制度を州・郡まで整備した。

 ついで真平王代(579-632)では,中央官職や軍官職・軍団など諸制度の整備をすすめたが,その官制は貴族体制の制度化で,まだ官僚体制ではなく貴族の請負制で,重要な職掌は複数貴族の合議制であり,軍隊は貴族の私兵や宗教的な花郎(かろう)の集団が中心となっている。この時期の国際関係では,三国間の抗争は小康状態であるが,この間に隋・唐の統一国家が中国に生まれ,朝鮮にも統一の気運が生じていた。隋・唐との関係は良好ではあったが,重視されるにはいたっていなかった。日本との関係は三国中ではもっとも頻繁に使節を派遣していたが,この王代54年間で,日本への使節派遣は10回,日本からの使節(遣新羅使)は6回であった。その外交問題は主として任那(みまな)問題で,6世紀中葉に日本がこの問題の仲介役をしたことから,新羅は日本に任那の調(ちよう)を送っていた。またこの時期の外交の手続では,使者の口上と貢物の献上とであったが,621年から国書を提出することになった。このように国書による外交が遅れたため,両国の外交史は伝承説話による不正確な資料で書かれてきた。

 新羅の統一戦争期は643年に新羅が唐に救援を求めたときからはじまる。このとき唐の太祖は善徳女王の廃位などの対策を示した。これを受けて新羅の貴族会議では647年に女王を廃位するが,金庾信(きんゆしん)など下級貴族や地方豪族が女王を擁立して,上大等毗曇(ひどん)などの貴族勢力と戦って勝った。この時期に王家の血縁思想が高揚し,骨制(のち骨品の制に発展)が制度化され,651年には官制も改革され,律令官僚体制への第一歩を踏み出した。660年唐との軍事同盟がようやく成立し,唐軍と連合して百済を滅ぼした。しかし日本から帰国した扶余の王子豊璋(ほうしよう)や王族の鬼室福信たちが,各地で百済復興軍を起こし,一時優勢であったが,663年白村江(はくそんこう)の戦で敗退した。661年以来新羅は唐と連合して高句麗を攻撃していたが,668年に高句麗を滅亡させた。670年にそれまで同盟を結んでいた唐軍と戦い,旧百済領内の唐軍を駆逐し,高句麗復興軍を援助して唐と対立した。676年までの対唐戦争では,貴族の私兵軍団が消極的になり,地方豪族や下級貴族が積極的に戦った。また,この期間に唐の律令官制・兵制を導入し,古代王権が形式的に確立した。

 この時期の日本との関係は,前代に比してきわめて緊密なものであった。638年以来,白村江の戦前後の9年間を除いて,ほとんど毎年使節が往来した。前半には新羅が日本に任那の調を送っていたが,646年に日本から遣新羅使を派遣して任那の調を止め,人質を出すよう新羅に要求した。翌年新羅は日本に金春秋(のちの武烈王)を人質として派遣した。これは大和朝廷が百済王子豊璋を人質としていたことに形式的に合わせたもので,それ以後も新羅は使者を人質の名目で派遣した。後半の白村江の戦以後も百済の使節が日本に4度派遣され,滅亡後の高句麗の使節が日本に9度派遣されているが,これらは任那の調と同様,新羅が対唐戦争にそなえ,日本との対立を緩和させるため百済の調,高句麗の調を送ったものである。
三国時代

この時期以後を日本では統一新羅というが,朝鮮民主主義人民共和国などでは渤海と合わせて南北両国家併存時代(南北国時代)とする。この時期は律令体制の発展期で,貴族文化の最盛期でもある。朝鮮で律令が完備するのは李朝時代であるが,この時期に一応整備された。中央官制は651年に官僚化が始まり,675,685年両度の整備によってほぼ完了するが,797年以降しだいに縮小された。新羅の官僚制度を支えた丁田制(壮丁に一定面積の田地を支給する)は722年から始まるが,757年には早くも貴族体制を支えた禄邑(ろくゆう)制(禄邑を支給する)に逆もどりした。地方制度では685年に金城(慶州)を中心に,金官京,南原京,西原京,中原京,北原京の五京をおき,全国を九州にわける五京・九州制が完成し,そのもとに119の郡と290余の県が配備され,これらの郡県のもとにはいくつかの村があり,村は10ないし15の自然村落からなっていた。租・調などの徴収,兵役・労役の徴発は,新羅帳籍に見られるように自然村落を単位としていて,日本の家族単位とは異なったものであった。これは村落共同体が根強く残っていたことを示す。またこれを基盤とした旧貴族勢力も依然として健在で,なかには3000人の奴婢とこれに匹敵する家畜や私兵をもつ貴族がいた。そのため,統一の功臣金庾信の子孫でさえ政治の中枢から遠ざけられ,日本のような新興貴族,律令官人層の台頭はみられない。しかし,外位の廃止など畿内と地方との制度上の差別は一応解消した。

 文化面では仏教,儒教をはじめ歌舞・音曲などの貴族文化が飛躍的に発展した。そのうち仏教では680年ごろから四天王寺以下七大寺に特別な官庁を設け,他の寺院にも寺田を与えるなど国家的に保護した。新羅仏教は国家鎮護を目的にし,国家の庇護のもとで,前代の円光をはじめ慈蔵元暁義湘など多くの名僧が輩出した。7世紀には涅槃,戒律,華厳,法性,法相の五教のほか浄土教や密教が盛行し,禅宗もしだいに普及するようになった。

 日本との関係は,唐との関係と表裏をなし,唐との対立の厳しい7世紀後半には日本との使節の往来が連年行われたが,8世紀には唐との関係が修復されるにつれ,日本との国交が疎遠になった。高句麗滅亡後,日本と緊密な国交を保ったのは対唐戦争のためであるが,日本もこの時期には遣唐使の派遣ができず,大陸文化受容のためには新羅との国交を正常化し,留学生・留学僧を新羅に送る必要があった。しかし,これらの事情が687年ごろから変化し,日本が上位に立つ形で国交を行おうとして新羅と対立しはじめた。日本側はこの要求を出す根拠として,神功皇后新羅出兵の伝承を造作,強調した。新羅は733年に唐の渤海遠征を助け,一挙に対唐関係を好転させ,735年には懸案の領土問題が解決した。この年日本に対し国号を王城国と改め,対等外交を主張した。752年新羅王子金泰廉が日本に来て,国交の正常化を図ったが,日本側は新羅国王の来朝をうながすなど強硬な姿勢で臨んだので,新羅は日本との外交関係を断つことにした。この時期における新羅と日本とは,727年から始まる日本の渤海外交との関係もあって,外交上悪化の一途をたどったが,貿易はしだいに活発になり,752年の新羅使節団は700人を超え,その大半が商人であった。日本の貴族はこれらの商人から金属工芸品,顔料,染料,香,薬などを購入していた。

この時期は,律令体制推進勢力と貴族体制復帰勢力との対立抗争の時期である。恵恭王代(765-780)には,両派の政策的な対立から六つの内乱が続発した。その対立は757年に禄邑制度の復活による貴族体制への復帰政策と,上大等の免職にあらわれた律令体制推進政策とが同時に行われたときからはじまる。貴族体制を支える村落共同体が根強く残存していたため,この体制を復活する政策がしだいに勢力をえたが,律令体制のもつ宮廷貴族の支配権力者的な性格も定着しており,両者を止揚できないまま対立抗争が続けられた。宣徳・元聖両代(780-798)は,軍事力・政治力によって王位を奪い,貴族体制を標榜しながら政策的には律令体制を推進した。809年哀荘王を殺害して王位についた憲徳王は,王畿中心の貴族体制をとったため,地方では反乱があいつぎ,その総決算として822,825年金憲昌父子の内乱が起こった。この時期にも儒教,仏教が栄え,儒教では恵恭王代から五廟制が定着し,788年から官吏登用のため読書三品の制度を定めた。

 この時期の対日関係には,貿易問題,9世紀初頭の倭国・日本との国交,漂流民と海賊の問題など次期につながる諸問題がある。貿易問題では,752年までの使節に随伴した貿易から,商人が貿易のため日本に渡航する私貿易に変化し,貿易額も768年の例では,6万5000屯(1屯=2斤)の綿であったという。その後も私貿易は盛んであったが,9世紀に入ると朝鮮海峡に海賊船が横行し,ときに日本の沿岸を襲うこともあった。

この時期は王畿を基盤とする貴族体制に復帰したため,地方が自立し,やがて新羅王朝も地方政権となる後三国時代を迎えた。834年に骨品制による家屋,衣服,生活用具などの規定を定め,王畿住民の身分序列を設定した。骨品制はこれ以前に成立していた王族の骨制と,かつての六部と関連があると考えられる地縁的な六頭品制とが結合したものと思われる。この骨品制は王畿の住民を優遇した制度で,地方住民は律令制の下で収奪の対象にすぎなかった。そのため地方住民は反乱を繰り返し,租税の徴収に抵抗した。このような地方勢力が9世紀末からしだいに結集し,892年に甄萱(しんけん)が後百済国をおこし,895年には弓裔(きゆうえい)が後高句麗国をたて,後三国時代となった。918年弓裔のあとをうけた王建は高麗国をたてた。927年に景哀王は王都に侵入した甄萱に殺害された。935年に国土を保つことができなくなった敬順王は,群臣にはかって高麗に帰順した。

 この時期の文化は時勢を反映して,禅宗が仏教界を支配し,風水説もおこってきた。儒教関係では崔致遠(さいちえん)などの中国にまで知られた名文家がでた。新羅の歌謡である郷歌(きようか)を集めた《三代目》は890年ごろに編纂されたが,その後散逸した。日本との関係では,840年に清海鎮将軍弓福(張保皋(ちようほこう))からの使者が朝貢してきたが,国交は許されず,貿易のみ許された。弓福は博多に支店をおき,唐・新羅との交易に従事し,貴族の奢侈品を交易していた。また日本僧円仁らの入唐を助けるなど海上運輸に従事した。866年応天門の変で藤原氏が苦境に立つと,新羅の侵入に内応する者がいるとして,北九州や隠岐の豪族たちが逮捕された。また869年新羅の海賊が博多を襲撃したことから,帰化していた新羅商人30名が北九州から東北地方に流された。こうして正規の国交や貿易がとだえると,両国の対立感情が激化した。

新羅文化は加羅文化と類似し,韓族文化を長く保持していた。その文化は初期農耕社会の村落共同体の文化で,基層文化は主として南方系統である。貴族文化は,初め高句麗,モンゴルなどの北方文化の影響が強く,時代の下るにつれて中国文化の影響が大きくなる。

 初期の貴族文化を象徴する大形の封土墳は,3世紀末から4世紀初めごろに現れる。6世紀までは積石木槨墳で,7世紀以後に横穴式石室墓が盛行した。初め木槨墳を平野部に作っていたが,石室墓は加羅古墳の影響をうけて丘陵に作るようになった。新羅古墳の特徴である封土の護石の十二支像は,7世紀中葉の真徳王陵から始まる。新羅古墳出土の副葬品には,純金製金冠を初め,金製,金銅製の装身具が多く,その形態や文様から,中国文化だけでなく北方文化の影響の強いことが知られる。その他の副葬品には,勾玉や環頭大刀など,日本の前期古墳の副葬品と類似したものがみられる。

 国内で漢字を使用するのは高句麗や百済よりかなり遅れ,6世紀とみられる。真興王代に新羅の辺境に建てられた4個の巡狩碑(真興王拓境碑)には,漢字を音借した人名や地名がみられ,1934年に慶州の北郊で発見された壬申誓記石とよばれる独特の朝鮮漢文から,儒教教育の実情と独自の文体を知ることができる。545年には新羅で初めて国史が編纂され,漢学が新羅に定着したことを伝えている。統一新羅時代になると学校が設立され,強首金大問,崔致遠などの名文家や歴史家が輩出した。また,民間の歌謡集《三代目》が9世紀末に編纂された。その他,天文,数学,易学,医学,兵学などの技術分野の学問も発達した。

 新羅の仏教は,法興王の尽力で528年に公認された。新羅の王は信仰により生産を維持・発展させる責任をもっていたので,仏教を積極的に導入し,王の名を仏教的な名称とするものもいた。真興王代に,高句麗の僧恵亮を迎えて国家的な教団を組織した。初期の仏教は護国信仰で,固有信仰の色彩も強く,花郎の精神的支柱にもなった。統一直後に元暁や義湘などの名僧たちによって新羅仏教が確立し,中期にその仏教文化の発展が頂点に達したが,末期には享楽化し,これに反発する隠遁的な思想が生まれ,道教や老荘思想が広がった。また,新羅末期には地方自立の傾向をうけて,禅宗が地方豪族と結合して各地で栄え,禅宗九山という多様な宗派を生み出した。

 三国時代の新羅の仏教文化は初め高句麗の,のちに百済の影響をうけながら,皇竜寺の伽藍址や芬皇寺石塔のように,覇気と調和美とをもつものであった。統一時代前半の文化は,雁鴨池(がんおうち),石窟庵,仏国寺などにみられる宗教的な情熱を秘めた貴族文化である。また,武烈王陵碑や聖徳大王神鐘の彫刻は,雄渾・華麗なこの時代の代表作である。

 新羅人は歌舞を好み,早くから郷歌を作り,郷札,吏読(りとう)(吐)など独特の表記法を作り出した。新羅の音楽は,真興王が加羅楽師の于勒(うろく)を招き,加羅楽を継承し高句麗の玄琴を受容することで,飛躍的な発展をとげた(三韓楽)。

新羅地方と日本列島との住民の交流は歴史以前からあり,3世紀には貿易や小国間の外交もみられる。以下,前述の時代区分に対応して言及した両国の交渉史を通観しておく。新羅・大和両王朝の国交は,6世紀前半ないし中葉から,新羅の加羅地方進出に関連して開始された。しかしこの時期はまだ口頭外交で,その内容を正確に知ることができない。国書を交換する外交は621年から始まるが,この時期は主として大和王朝が新文物を新羅から導入しようとする文化外交であった。新羅は645-656年に積極的な対日外交を展開したが,その後,統一戦争のため667年まで国交を途絶した。この間663年には,日本軍が百済復興軍を助けて出兵し,白村江で新羅・唐連合軍と戦って敗れた(白村江の戦)。671年以後,新羅は対唐戦争に対処するため,対日外交を積極的に推進し,支配下に入った高句麗,百済,耽羅(たんら)(済州島)の使者をも日本に派遣した。しかし日本は複雑な東アジアの国際政治に介入することを好まず,新文物導入の文化外交を主としていた。新羅の対日外交は,協調的であったが,日本に対する警戒心はきびしく,文武王の遺勅(681)では,東海の竜神となって日本軍の侵入を防ぐといっている。また722年には日本軍の侵入を防ぐため首都慶州の東に毛伐郡城を築いた。735年新羅は唐との国交が修復すると,日本に対し対等外交を要求したため,両国の外交がしだいに疎遠となり,779年以後国交は途絶した。

 8世紀に入ると日本との貿易がしだいに盛んとなり,8世紀の中葉には日本の貴族が新羅の奢侈品を購入するため,一度に綿数万屯を支払うほどであった。9世紀中葉,張保皋は博多に支店をおいて対日貿易に従事し,東アジアの貿易を牛耳っていた。一方,新羅末期の国家体制の動揺を反映して8~9世紀には,多数の新羅人が関東地方などに入植し,先進的な農業・牧畜技術などを伝えて日本の社会や文化に影響を与えた。
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528年(法興王15)の仏教公認以前の新羅には,祖先崇拝思想を背景とした文化が栄え,巨大な封土をもつ高塚墳とその副葬品に注目すべき美術品が多い。古墳は,内部構造が積石木槨墳と石槨墳に大別でき,若干の石室墳も存するが,石室墳形式のうち慶尚北道高霊古衙洞や慶尚北道栄州郡順興面台庄二里などの墳墓からは蓮華文やその他の草花文を描いた壁画が発見され,とくに,後者の石扉内面右側上画に〈乙卯年於宿知述干〉の陰刻銘があって6世紀ころの制作と推定されている。副葬品のうち,最も優れた工芸作品は,金冠,耳飾,首飾,銙帯(かたい),釧(くしろ),履(くつ)などの金製工芸品である。とりわけ,慶州の金冠塚,端鳳塚,天馬塚などから発見された金冠は,新羅の金冠に独自な木を図案化したといわれる〈出字形〉をもち,新羅美術がもつ北方系要素を示している。

 また,耳飾は細鐶式と太鐶式に類別できるが,慶州,夫婦塚出土の金製太鐶式耳飾は,その豪華な装飾技法から新羅工芸の代表例にあげられる。その他,勾玉,丸玉,臼玉,管玉などの玉類,刀剣,刀子(とうす),鉄斧,鉄槍,鉄鏃,甲などの武器武具類,馬具類,鏡鑑類,漆器,ガラス製品をはじめ多種多様な副葬品が知られ,これらは,新羅美術が高句麗や百済はもとより,中国や西域地方などとの交渉により形成されたことを物語っている。

 一方,6世紀初期に仏教が公認されると,新羅美術には新たな展開が見られる。534年(法興王21)に興輪寺の造営が始まり,つづいて永興寺,皇竜寺,祇園寺,芬皇寺,霊廟寺などが建立された。なかでも,553年(真興王14)から644年(善徳王13)にかけて完成された皇竜寺(皇竜寺址)は,中門,塔,金堂,講堂が南北一直線上にある伽藍配置をとり,金堂には銅造丈六釈迦三尊像を安置し,総高225尺の九重塔を備えた大寺院であったといわれる。

 これらの諸寺に安置されていた仏教彫刻には,記録によれば塑造や金銅造があったと知られるものの,現存作例は石造と金銅造が多い。石仏としては,6世紀後期の制作といわれる慶州西岳洞松花山麓から移した国立慶州博物館の半跏像,634年ごろの制作と考えられる芬皇寺石塔(模塼塔)仁王像,7世紀初期の拝里三尊像や644年ごろの制作と推定される三花嶺三尊像などが優品として注目される。いずれも白味の強い良質な花コウ岩を用材として,やわらかい造形感覚を示し,中国,隋代や唐代初期の仏教彫刻の影響をうけたものと考えられる。

 金銅造彫刻は,小金銅仏が圧倒的に多く,国立中央博物館の薬師如来立像やソウル三陽洞発見の観音菩薩立像,慶尚北道善山発見の観音菩薩立像などが6世紀後期の制作として注目される。また,7世紀初期から中期にかけて造立されたと考えられている半跏思惟像は,三国の統一を目ざした新羅の支配階層,とりわけ,花郎徒の熱烈な弥勒信仰を背景として制作されたものといわれている。

 660年に百済を,668年に高句麗を討って三国統一に成功した新羅は,単に領土の統一を行ったばかりでなく,百済や高句麗の優れた文化を吸収して,新しい統一新羅の美術として結実させている。統一新羅の美術活動の原動力となったのは仏教で,統一期に入り四天王寺,望徳寺,高仙寺,皇福寺,仏国寺,感恩寺など数多くの寺院が創建された。統一期の寺院の伽藍配置は,三国期のそれが皇竜寺のように一金堂一塔式であったのに対し,四天王寺,仏国寺,感恩寺(感恩寺址)などのような一金堂双塔式に変化している。そして,塔は7世紀前期に芬皇寺に建立された模塼石塔が,7世紀中期には百済の様式を取り入れた慶尚北道義城郡金城面塔里の五層石塔へ変化し,7世紀後期の感恩寺の三層石塔を経て,8世紀には仏国寺の釈迦塔を完成させ,さらには,仏国寺の多宝塔のような独創的な石塔へ発展して,統一新羅の石造美術を開花させている。

 統一新羅の美術作品の最高傑作は,8世紀中期に造られた慶州,石窟庵である。石窟庵は,花コウ岩で穹窿(きゆうりゆう)天井の石室を構築し,その中央に触地印をとる如来形座像を安置し,周囲に八部衆像,仁王像,四天王像,十大弟子像,十一面観音菩薩像の浮彫と龕室(がんしつ)に菩薩座像の丸彫を配置したものである。中尊については,阿弥陀如来像説,釈迦如来像説,胎蔵界大日如来像説などがあって決着をみない。しかし,石窟庵の諸像は,軍威石窟三尊像,堀仏寺跡四面石仏,719年造立の慶尚北道甘山寺の石造阿弥陀如来立像や弥勒菩薩立像などの統一新羅の優れた諸作例が種々の造形感覚と様式を消化したのちに到達した統一新羅美術の極地を示したものといえる。金銅造の仏教彫刻としては,8世紀中期の制作とされる仏国寺の毘盧舎那仏座像と阿弥陀如来座像,8世紀後期の造立と考えられている栢栗寺の薬師如来立像などが注目される。

 またこの時代の仏教工芸品は,梵鐘と舎利容器に優品が多い。梵鐘は,聖徳王24年(725)銘の江原道平昌郡五台山上院寺のものが現存最古の作例であり,恵恭王7年(771)銘の奉徳寺の梵鐘は聖徳王(在位702-737)の冥福を祈願して景徳王(在位742-765)と恵恭王(在位765-780)の2代にわたって鋳造されたという由縁をもつ。現存最大の作例としてばかりでなく,その美麗な宝相華や飛天の文様も傑出している。舎利容器には,卓抜した工芸技法をみせ,682年に制作されたと考えられている感恩寺址西三層石塔発見のもの,函蓋の銘文から692年と706年の間に奉納された九黄里三層塔発見の方形函形舎利容器,あるいは,黄緑色ガラス杯を安置した松林寺五層塼塔発見の舎利容器などがある。多彩な技法で作られており,統一新羅における舎利信仰のあつさを示している。このように統一新羅の美術は,三国期の美的要素の集約と新鮮な造形意欲に特色を認めることができよう。
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新羅 (しんら)

新羅(しらぎ)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「新羅」の意味・わかりやすい解説

新羅(しらぎ)
しらぎ

朝鮮古代の国名(356~935)。「しんら」「しら」ともいう。日本では城の意味を語尾に付して、「しらぎ」と呼び習わしている。新羅の建国は、前身の辰韓(しんかん)斯盧(しろ)国から新羅に変わり、六部(りくぶ)の統合による貴族連合体制の成立する4世紀後半とみられる。

井上秀雄

前史(斯盧国時代)

新羅は韓(かん)族の初期農耕社会から生まれ、農村共同体を基盤とした国家である。その中心をなす六村は、辰韓の斯盧国時代に成立し、慶州盆地とこれを取り巻く幅1キロメートル、長さ10キロメートル以上の谷間をそれぞれ根拠地として発展した。斯盧国は初期農耕生産の有利な地域であるが、地域的に偏在していたため、4世紀中葉まで国際的に知られなかったが、社会的、経済的にはかなりの発展をみせていた。その政治組織は支配権力が弱く、個々の成員を重視した。その王者は農耕生産に必要な天候を予知するシャーマンであった。基層文化は南方系で、貴族文化には中国文化や高句麗(こうくり)、モンゴルなどの北方文化の影響が強くみられる。

[井上秀雄]

初期貴族体制(356~500年)

4世紀後半には、六村の連合体制が六部の統合による貴族体制にかわった。国際的には、新羅は377、382両年に前秦(ぜんしん)に朝貢している。399年以後、倭(わ)や高句麗に王都を占領されるなど苦難の時代が続いた。425年以降、倭王が宋(そう)(南朝)に要請した称号に、新羅、秦韓など七国諸軍事があるが、これらの朝鮮、中国史料の倭は、北九州の倭国および加羅(から)諸国の別称とみられる。5世紀後半になると、新羅は高句麗、倭の勢力を排除しながら洛東江(らくとうこう)中流域に進出した。この時期には王者の権威が伸張し、巨大な墳墓がつくられた。副葬品から、王者の権威が農耕祭祀(さいし)にあり、その文化が北方スキタイ文化や中国文化の影響であることが知られる。

[井上秀雄]

後期貴族体制(500~676年)

この時期の特徴は、国内の諸制度の整備と領土の拡大とにある。これを細分すれば、642年までは貴族体制の制度化と、三国対立のなかでの領土拡大とである。それ以後は律令体制への過渡期で、統一戦争の時期でもある。530年ごろまでに上大等、兵部令など中央官職や、州軍主など地方軍政官を制定し、正式の官服なども制定した。これらの諸制度は、初期貴族体制下で成立した慣習を整備したものが多い。官位十七等や六部の制度も、この時期の共同体の再編成により、その原型ができた。経済面でも飛躍的に発展し、牛耕や堤防の築造など新しい農耕技術が導入され、商品売買の市場が開かれ、水上運輸も整備された。

 文化面では528年に仏教を公認し、独自の元号を使用し始めた。領土拡大も積極的に行われ、百済(くだら)の勢力を排除して、加羅諸国を支配下に収めた。530年ごろ大邱(たいきゅう)地方に進出し、532年には金海加羅地方を併合した。真興(しんこう)王代(540~576)は仏教の興隆と伽倻琴(かやきん)・加羅楽の継承など文化の発展期でもあり、三国時代最大の版図となった領土拡大期でもあった。560年代には洛東江、漢江両流域と日本海岸とを制圧し、ここに四方軍主を置き、地方制度を整備した。ついで真平王代(579~632)では中央の諸制度を整備したが、その官制は貴族の請負制、合議制であり、軍隊も貴族の私兵や宗教的な花郎(かろう)(貴族の子で青年戦士団の指導者)集団が中心となっている。国際関係では中国諸王朝との関係が、深くはないが良好であった。日本との関係は三国中もっとも緊密で、その外交問題は、6世紀中葉に日本が仲介役をした任那(みまな)問題であった。また、外交手続では621年から国書外交となり、継続的な外交交渉が可能になった。

 新羅の統一戦争期は、643年に新羅が唐に救援を求めたときから始まる。このとき唐の太宗李世民(りせいみん)の示唆により、647年に善徳女王を廃位するが、金庾信(きんゆしん)など下級貴族や地方豪族が女王を擁立して、上大等毗曇(ひどん)など貴族勢力を打ち破った。651年には官制も改革され、律令官僚体制への第一歩を踏み出した。660年に新羅・唐連合軍が百済を滅ぼし、663年に日本軍と連合した百済復興軍を白村江(はくそんこう)の戦いで破った。新羅・唐連合軍は668年に高句麗を滅亡させた。670年にそれまで同盟を結んでいた唐軍と戦い、旧百済領内の唐軍を駆逐し、高句麗復興軍を援助して唐と対立した。676年までの対唐戦争では、地方豪族や下級貴族が積極的に戦い、新しい統一新羅の時代をつくった。この時期の日本との国交は緊密で、白村江の戦い以後も百済の使節が、また滅亡後も高句麗の使節が、それぞれ新羅の使節に伴われて頻繁に来朝しているが、これらは新羅が日本との外交を円滑にするためのものであった。

[井上秀雄]

王権確立期(677~765年)

この時期以後を統一新羅ともいう。この時期は律令体制の発展期で、貴族文化の最盛期でもある。中央官制は675、685両年の整備によって官僚化がほぼ完了するが、797年以降はしだいに縮小した。新羅の官僚制度を支える丁田制は722年から始まるが、757年には早くも貴族体制を支えた禄邑(ろくゆう)制に逆戻りした。地方制度では685年に五京・九州制が完成し、州のもとに郡・県・村制度がとられた。新羅には村落共同体が根強く残っていたため、行政単位は自然村落であった。またこれを基盤とした旧貴族勢力も、新羅末まで存続した。そのため、日本のような新興貴族、律令官人層の台頭はみられない。しかし、外位の廃止など畿内(きない)と地方との制度上の差別はいちおう解消した。文化面では仏教、儒教をはじめ歌舞、音曲などの貴族文化が飛躍的に発展した。新羅仏教は国家鎮護を目的にし、国家の庇護(ひご)のもとで多くの名僧が輩出した。7世紀には涅槃(ねはん)宗、戒律宗、華厳(けごん)宗、法性宗、法相宗の五教のほかに浄土教や密教が盛行し、禅宗もしだいに普及した。

 日本との関係は、唐との対立の厳しい7世紀後半には緊密であったが、唐との関係が修復された8世紀には疎遠になった。687年ごろから日本が、上位にたつ国交を行おうとして、新羅と対立し始めた。752年に新羅は王子金泰廉を日本に派遣し、国交の正常化を図ったが、日本が拒否したため、外交関係は断絶した。これには、727年から始まる日本の渤海(ぼっかい)外交とも関係があった。貿易は外交と逆にしだいに活発になった。

[井上秀雄]

王位争奪期(765~825年)

この時期は律令体制推進勢力と貴族体制復帰勢力との対立抗争の時期である。恵恭王代(765~780)には、両派の政策的な対立から六つの内乱が続発した。宣徳、元聖両王代(780~798)は、軍事力、政治力によって王位を奪い、貴族体制を標榜(ひょうぼう)しながら政策的には律令を推進した。809年哀荘(あいそう)王を殺害して王位についた憲徳王は、王畿中心の貴族体制をとったため、地方では反乱が相次ぎ、その総決算として822、825年と金憲昌(きんけんしょう)父子の内乱が起こった。この時期にも儒教、仏教が栄え、五廟(ごびょう)制や官吏登用のため読書三品の制が定められた。

[井上秀雄]

地方自立期(825~935年)

この時期は王畿を基盤とする貴族体制に復帰したため、地方が自立し、9世紀末以降、新羅王朝が地方政権となる後三国時代を迎えた。834年に骨品制による王畿住民の身分序列を設定した。この骨品制は王畿の住民を優遇した制度で、地方住民は律令的収奪の対象にすぎなかった。そのため地方住民は反乱を繰り返し、やがてこのような地方勢力を結集し、892年に甄萱(しんけん)が後百済(ごひゃくさい)国を興し、895年には弓裔(きゅうえい)が後高句麗国を建て、後三国時代となった。918年弓裔の後を受けた王建は高麗(こうらい)国を建てたが、935年には新羅が国をあげて高麗に帰順した。この時期の文化は、時勢を反映して禅宗が仏教界を支配し、地理風水説もおこった。890年ごろには、新羅の歌謡を集めた『三代目(さんだいもく)』が編纂(へんさん)された。また、新羅、日本、唐の貿易、運輸に活躍した張保皐(ちょうほこう)などもいた。

[井上秀雄]

『末松保和著『新羅史の諸問題』(1954・東洋文庫)』『井上秀雄著『新羅史基礎研究』(1974・東出版寧楽社)』『井上秀雄著『古代朝鮮』(NHKブックス)』『井上秀雄訳注『三国史記1』(平凡社・東洋文庫)』『李丙燾著、金思燁訳『韓国古代史』上下(1979・六興出版)』



新羅(しんら)
しんら

新羅

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百科事典マイペディア 「新羅」の意味・わかりやすい解説

新羅【しらぎ】

古代朝鮮の王朝。〈しんら〉とも読む。4世紀半ば,辰韓が斯盧(しろ)国によって統一され成立。慶州を都として発展。北の高句麗(こうくり),西の百済(くだら)と並んで三国時代を形成。6世紀後半,加羅(伽耶)地方と漢江下流域を支配下に入れ,7世紀後半には唐と結んで660年百済,668年高句麗を滅ぼす。676年半島に統一的支配を確立。唐を宗主国とし,唐制にならった貴族国家として栄え,王家の血縁思想と連なる骨品制や,律令官制も導入されたが,8世紀後半には支配体制もゆるみ,反乱が続発。9世紀末には後百済,高麗(こうらい)が建国して三国分立を再現。935年新羅王は高麗に降伏して滅亡。6世紀前期の仏教伝来以後,学僧を生み,豊かな仏教芸術の花を咲かせた。日本とは7世紀後半から使節(遣新羅使)の往来が盛んになるが,8世紀前半には関係が悪化し,779年以後途絶した。
→関連項目阿倍比羅夫怡土城海印寺開心寺址石塔慶州石窟庵慶尚南道遣渤海使壺【う】塚三国遺事三国史記三国時代(朝鮮)神功皇后仲哀天皇朝鮮朝鮮語朝鮮人白村江の戦仏国寺宝相華文任那吏読

新羅【しんら】

新羅(しらぎ)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「新羅」の意味・わかりやすい解説

新羅
しらぎ
Sinra

朝鮮,古代三国の一つで,朝鮮最初の統一王朝 (?~935) 。「しんら」とも呼ぶ。『三国志』魏志東夷伝によれば朝鮮半島南東部には3世紀頃辰韓諸国があったというが,4世紀なかば頃諸般の情勢に促されて,そのなかの一国,斯盧 (しろ) 国が中心となり部族連合的国家が成立,同世紀 70年代には新羅と称した。以後6世紀初頭まで高句麗百済と対立しつつ統一国家形成をはかった。新羅王国の最初の基礎を定めたのは法興王 (在位 514~540) で,対外的には任那の中心金官加羅を合せて日本に脅威を与え,中国南朝の梁に朝貢して高句麗に対抗し,国内的には律令や年号を制定して王権の強化をはかった。次の真興王 (在位 540~576) は積極的に対外発展を進め百済と戦って聖明王を殺し,また残存任那を 562年打倒して日本の朝鮮支配を阻止した。王は中国の北斉に直接朝貢してその国家的地位を高めるとともに官制や軍制を整備して中央集権を促進した。さらに武烈王 (在位 654~661) から文武王 (在位 661~681) の時代は中国では隋,唐の初期にあたるが,唐と結んで 660年百済を,668年高句麗を滅ぼし,さらに半島を直接支配下におこうとする唐に抵抗して唐の勢力を退け,文武王 16 (676) 年半島の事実上の統一を完成した。武烈王以後約1世紀は新羅の全盛期で,735年には大同江以南の支配を唐に承認させ,領域の拡大をみた。慶州を首都として全国を9州に分け,郡県の制も一応整理され文運も隆昌をきわめた。しかし王位の相続にからむ諸種の矛盾は憲徳王 14 (822) 年の金憲章の大乱を引起し,この反乱を契機として中央の権力は弱化し,地方では豪族が割拠した,いわゆる「後三国」の対立時代を現出し,927年には後百済 (こうひゃくさい) のために景哀王が殺され,敬順王が即位した。 935年敬順王は最有力の豪族,高麗の太祖王建に投降してその貴族になり,新羅は名実ともに滅亡した。

新羅
しんら

新羅」のページをご覧ください。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「新羅」の解説

新羅(しんら)
Silla

?~935

日本では「しらぎ」と呼びならわしている。4世紀中頃朝鮮半島南東部の辰韓(しんかん)12国がそのなかの斯盧(しろ)国を中心に統一された王朝。都は慶州。建国以来,百済高句麗に対抗しつつ,強固な身分制組織のうえに立つ貴族軍団を持ってしだいに領域を広め,加羅諸国を滅ぼし,7世紀後半唐と結んで百済,高句麗を滅ぼした。また大同江以南に朝鮮最初の統一国家をつくった(676年)。統一新羅は唐制にならい,全土を9州に分けて,中央集権的統治をしいた。8世紀末から王位の争奪が激しく,中央の統制力が崩れて地方勢力が台頭し,9世紀末西南に後百済(こうひゃくさい),西北に泰封(たいほう)‐高麗(こうらい)が自立して国土は分裂,935年新羅王の高麗投降により滅んだ。新羅の文化は早くから中国文化の影響を受けて開花したが,527年仏教の公伝以来,円光,義湘(ぎしょう)らの学僧を輩出し,また豊かな仏教芸術を生んだ。


新羅(しらぎ)

新羅(しんら)

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「新羅」の解説

新羅
しらぎ

斯盧(しろ)・斯羅(しら)とも。朝鮮古代の三国の一つ(前57?~後935)。赫居世(かくきょせい)が金城6村の長に推戴されて即位したのが起源という。王姓は金,都は滅亡まで金城(現,慶州)。「三国志」魏書の韓伝にみえる斯盧国が,4世紀前半の高句麗(こうくり)の南下と百済(くだら)の形成という国際環境のなかで,辰韓12国を統合し王権を確立したものとみられる。当初は高句麗に従属したが,6世紀初めに自立し,氏族の身分制である骨品(こっぴん)制を形成,律令・年号を定めて国家体制を確立した。7世紀半ば,金春秋(武烈王)と金庾信(きんゆしん)らが唐と結び百済・高句麗を討って,676年朝鮮半島を統一。郡県制をしいて律令制的中央集権体制を固め,唐文化を受容した。9世紀前半以降全国に反乱があいつぎ,935年,敬順王が高麗の王建(おうけん)に降って滅亡した。

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旺文社世界史事典 三訂版 「新羅」の解説

新羅
しんら

?〜935
4世紀半ば,朝鮮半島南東岸に建てられた王国。「しらぎ」とも読む
三韓の1つである辰韓12国の一国斯盧 (しろ) は,辰韓を統一して新羅と号し,半島南東の慶州に都して百済 (ひやくさい) ・高句麗 (こうくり) とともに三国時代を現出した。562年任那 (にんな) を併合して半島から日本勢力を追った。7世紀半ば,百済・高句麗の滅亡とともに半島を統一したが,935年王建の高麗 (こうらい) に滅ぼされた。首都は終始慶州(金城)にあったので,政治・社会・文化などあらゆる面で固有のものが長く伝えられたが,律令を根幹とする中国文化と仏教文化の影響も強く受けた。

新羅
しらぎ

しんら

出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報

旺文社日本史事典 三訂版 「新羅」の解説

新羅
しらぎ

朝鮮古代の王国(4世紀中 (ごろ) 〜935)
「しんら」とも読む。三韓の一つである辰韓の斯盧 (しろ) 国を中心に統一されたもの。日本・高句麗の圧力に苦しみながらも着実にその地歩を固め,562年任那 (みまな) を滅ぼし,ついで唐と結び660年に百済 (くだら) ,668年高句麗を倒して朝鮮を統一。663年唐と結んで,日本を白村江 (はくそんこう) の戦いに破ったのち,しばらくして国交を回復した。奈良時代には唐文化,特に仏教関係の移入に重要な役割を演じた。9世紀中ごろから群雄割拠の状態となり,935年高麗王朝の建国により滅亡した。

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防府市歴史用語集 「新羅」の解説

新羅

 日本が古墳時代の頃、3つの国に分かれていた朝鮮半島の国の1つで、南東部にありました。684年には朝鮮半島全土を支配しますが、935年にほろびました。

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世界大百科事典(旧版)内の新羅の言及

【新羅】より

…〈しんら〉〈しら〉と発音するのが一般的であるが,日本では城の意味を語尾に付して,〈しらぎ〉と呼びならわしている。新羅の建国年次は,中国の文献で辰韓(しんかん)の斯盧(しろ)国から新羅に変わり,慶州で高塚墳が盛行する4世紀後半と見,《三国史記》によって奈勿(なもつ)王の即位年をあてた。この新羅建国期は六部(ろくぶ)の統合により貴族連合体制が成立する時期でもある。…

【新羅】より

…〈しんら〉〈しら〉と発音するのが一般的であるが,日本では城の意味を語尾に付して,〈しらぎ〉と呼びならわしている。新羅の建国年次は,中国の文献で辰韓(しんかん)の斯盧(しろ)国から新羅に変わり,慶州で高塚墳が盛行する4世紀後半と見,《三国史記》によって奈勿(なもつ)王の即位年をあてた。この新羅建国期は六部(ろくぶ)の統合により貴族連合体制が成立する時期でもある。…

【赫居世】より

…朝鮮古代の新羅始祖王名。別名は赫居世居西干,赫居世王,閼智(あつち)。…

【加羅】より

…広義の加羅諸国も,時代により変動し,洛東江下流域を中心に,ときに中流域まで及んでいる。加羅諸国は三国時代前半期に活躍し,562年に新羅に併合されるが,その多くは三国時代後期にかなりの自治を許され,統一新羅時代にもその伝統が生きていた。加羅諸国のおもな国は,古寧(慶北,咸昌),卓淳(大邱),碧珍(星州),大伽耶(高霊),非火(慶南,昌寧),多羅(陝川),阿羅(咸安),金官(金海),小伽耶(固城)。…

【遣新羅使】より

…571年から882年まで約3世紀にわたって日本から新羅へ派遣された公の外交使節。その時期・性格上3期に分けることができる(表参照)。…

【三国時代】より

…古代朝鮮で,313‐676年にわたり高句麗百済新羅の3国が鼎立・抗争した時代。この時代には三国が貴族連合体制の国家となったが,中国の植民地支配を脱したものの,なお強力な軍事介入のあった時代である。…

【神功皇后】より

…仲哀天皇の妃で記紀の新羅遠征説話の主人公,また応神天皇の母とされる。別名,気長足姫(おきながたらしひめ)尊(記では息長帯比売命)。…

【啄評】より

…朝鮮の6~7世紀の新羅王畿内の行政単位。喙評(中国),喙評(日本)とも書く。…

【朝鮮】より

…英語のKoreaは高麗の発音(Koryŏ)からきたもので,世界にまたがる大帝国を築いた元が伝えたものであろう。なお,朝鮮の異称や雅号として,〈三千里錦繡江山〉(南北が3000朝鮮里に及ぶ),〈槿域〉(ムクゲの花が咲くところ),〈青丘〉,〈鶏林〉(もとは新羅の異称),〈韓〉〈海東〉などがある。
【自然】

[地形の特徴]
 朝鮮は地形上,東・西朝鮮湾頭をつないだ北部と南部の二つに大きく区分できる。…

【朝鮮神話】より

…後者には現在シャーマンが口誦している巫歌神話と神話的昔話が含まれる。朝鮮神話全体の特徴は,(1)原初的形態を保持している,(2)巫俗や農耕儀礼など宗教儀礼との関係が密接である,(3)始祖神話の類が多く族譜意識が強い,(4)宇宙起源神話は神話記録者である儒学者の合理主義によって記録されなかったため,口伝のものが多い,(5)歴史的に高句麗・百済・新羅の三国鼎立が長く続いたため,神話が統一整序されず多様な伝承形態をとっている,などである。
[文献神話]
 文献神話のおもなものは次のとおりである。…

【味鄒】より

…新羅の王で,新羅金氏の始祖伝説上の人物。味照,未祖,未召などとも記す。…

【律令格式】より

律令法【早川 庄八】
【朝鮮】
 朝鮮三国では律令の条文が残っていないことから,律令の存在を否定する説,律令の体裁を整えない成文法が成立していたとする説,中国の律令が受容されていたとする説などがある。律令受容説では,《三国史記》の関係記事から,高句麗では晋の〈泰始律令〉(268制定)を受容して373年に律令を制定し,新羅ではこの高句麗の律令を受容して520年に律令を頒布したとしている。しかし,これら三国時代の律令は,いまだ法体系が確立しておらず,慣習法の一部が成文化されたものとみられる。…

【六部】より

…朝鮮古代の新羅王畿の地域区分。六村ともいわれ,梁部(楊山村),沙梁部(高墟村),本彼部(珍支部),牟梁部(大樹村),韓祇部(加利村),習比部(高耶村)からなる。…

※「新羅」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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