改訂新版 世界大百科事典 「モンゴル襲来」の意味・わかりやすい解説
モンゴル襲来 (モンゴルしゅうらい)
1274年(文永11)と81年(弘安4)の2度にわたって行われたモンゴル(元)軍の日本来襲。蒙古襲来,蒙古合戦,元寇,また文永・弘安の役ともいう。
日蒙交渉
1266年8月,モンゴルのフビライ・ハーンは日本と通好するために日本招諭の国書を草した。これは68年1月に日本へもたらされ,鎌倉幕府を経て朝廷へまわされた。朝廷ではこれを侵略のさきぶれととり,返書を拒絶した。このあと朝廷や幕府は多くの神社で異国降伏の祈禱を行い,幕府はまた国内の防備を固めていった。翌69年に対馬にいたったモンゴルの使者は島民2人を連れ去った。同年12月には高麗使が大宰府に到着したが,幕府は返書を拒んだ。70年11月,フビライは日本遠征を目的とした屯田経略司を高麗に設置することを命じた。12月には趙良弼を日本招諭の使者に任命し,同時にモンゴル軍を高麗に駐屯させることにしたが,高麗では〈三別抄の反乱〉が起こり,モンゴル軍はその鎮圧に向けられた。趙良弼一行は71年9月に筑前今津に到着したが目的をはたさず,翌72年にも来日したが,日本招諭に成功しなかった。
文永の役
フビライは71年国号を大元と定めたのち,73年日本遠征を正式に決定し,翌74年に高麗に命じて艦船を建造させた。同年10月3日,元・高麗の大軍は高麗の合浦を出発し,10月5日に対馬,同14日に壱岐を侵したのち,平戸,鷹島などの島々を襲った。19日には博多湾に侵入し,翌20日に博多湾西部の海岸から上陸し,博多,箱崎は戦火につつまれた。博多湾沿岸の防備を固めていた日本軍は元軍におされて大宰府の水城(みずき)まで退却した。優勢な元軍も日本軍の手痛い反撃にあい,作戦会議を開いた結果,撤兵を決定し,10月20日夜,博多湾から姿を消し,第1次日本遠征は失敗に終わった。
異国警固
翌75年(建治1)フビライは日本招諭の使者杜世忠らを日本に派遣した。一行は4月15日長門室津に着き,鎌倉へ送られたが,竜口(たつのくち)で首を斬られた。同年12月幕府は元の日本遠征の基地となっていた高麗を日本から攻める〈異国征伐〉の計画をたてたが,途中で中止された。幕府はまた,元の再襲に備えて中国や九州の防備を強化した。同年2月すでに異国警固番役(いこくけいごばんやく)の制度が整備され,1年のうち3ヵ月ずつを九州の各国が分担して博多を守ることになった。翌76年3月ごろから博多湾沿岸に石築地(いしついじ)の築造が開始された。その負担は地域別に九州の領主たちに課され,8月ごろに完成した。
弘安の役
79年2月に南宋を滅ぼした元は,南宋の旧領と高麗に日本遠征のための艦船の建造を命じた。同年6月には日本招諭のための使者が派遣されたが,博多で斬首された。81年1月,フビライは日本遠征の命令を下し,5月3日モンゴル人,高麗人,漢人からなる東路軍が高麗の合浦を出発し,対馬,壱岐を侵して博多へ向かい,一部は長門を襲った。6月6日博多湾にいたり,志賀島(しかのしま),能古島(のこのしま)に上陸した。日本軍との間で激しい戦闘が続いたのち,東路軍は壱岐に退き,日本軍はこれを追撃した。いっぽう,旧南宋人で構成された江南軍は,予定より遅れて6月18日に慶元を出発し,7月に平戸や五島列島に到着し,東路軍と合流した。その後博多,大宰府を攻略すべく7月下旬に肥前鷹島に移ったところ,7月30日夜,大風が吹いて元軍は壊滅的打撃をうけた。日本ではこれを神風と呼んだ。こうして元の第2次遠征も失敗に終わった。
戦後の状況と襲来の影響
2度の日本遠征に失敗したフビライは,日本の招諭と遠征をあきらめず,再び日本遠征の準備を進めたが,中国人の反抗や周囲の反対にあって,中止した。84年には日本招諭の使者を派遣したが,これも失敗に終わり,94年のフビライの死後,99年(正安1)禅僧一山一寧を日本に派遣したのを最後に,元は日本招諭を断念した。日本では,弘安の役後,勲功者に対する恩賞が数次にわたって行われたが,十分なものではなく,武士や寺社は不満をつのらせた。元の第3次来襲に備えて異国警固の義務を負った九州の御家人たちは,その負担にたえきれず,所領を質入れしたり売却したりする者が多くあらわれた。幕府では徳政令(永仁の徳政)を出してこれを救済しようとした。また,九州の御家人が訴訟のため京都,鎌倉へ行くことを抑止するために,最終的な判決権をもつ鎮西探題が博多に設置された。さらにモンゴル襲来を契機として,鎌倉幕府権力が強化され,西国の国衙領や本所一円地にも及ぶようになったが,幕府政治においては得宗専制の傾向が顕著になり,御内人(みうちびと)と呼ばれる北条氏嫡流家の家臣が幕政に関与するようになった。こうして幕府はしだいに御家人たちの支持を失い,1333年(元弘3)ついに滅亡した。
執筆者:佐伯 弘次
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