大宰府政庁跡の北東に位置する。祭神は菅原道真。旧官幣中社。近世末までは道真の廟所安楽寺と一体で、安楽寺天満宮・天満宮安楽寺などとも称された。
昌泰四年(九〇一)一月二五日、右大臣菅原道真は大宰権帥に左遷され、同年二月一日大宰府に下向した(「日本紀略」「公卿補任」など)。道真の大宰府での生活は「菅家後集」などからうかがわれるが、二年後の延喜三年(九〇三)二月二五日大宰府で没した(「日本紀略」「扶桑略記」など)。「帝王編年記」、承久本「北野天神縁起」などによれば、筑前国
寿永二年(一一八三)安徳天皇を奉じて都落ちした平氏一門は八月一七日に大宰府に着き、翌一八日安楽寺に入り和歌や連歌を詠み過ごした。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
福岡県太宰府市に鎮座する菅原道真をまつる神社で,天満天神,菅公霊廟ともいう。903年(延喜3),道真が謫居(たつきよ)の地大宰府の南館(現在の榎社のあたり)で没すると,侍臣味酒安行は遺骸を当地に葬り,905年には祠廟を建立した。これが天満宮の起源と伝えられている。その後ほどなく,御墓寺すなわち安楽寺も創建され,以後同寺は,明治初年の神仏分離令発布に至るまで天満宮と同体であった。同寺初代別当は道真の孫平忠であり,その後別当は代々菅原氏の子孫から選ばれた。
平安時代における天満宮安楽寺の発展は,道真の文人としての名声を慕う大宰府官人の信仰と保護によるところが大きい。958年(天徳2)大宰大弐小野好古(よしふる)が曲水宴を始めたのを最初として,残菊宴,正月内宴,七夕宴など,いわゆる〈四度宴〉が大宰府官人により次々と中央より移入され年中行事となった。文人大江匡房(おおえのまさふさ)も大宰権帥として赴任中,しばしば詩会を催している。一方,天満宮安楽寺の宗教行事もしだいに充実し,これに伴って大宰府官人により寺領寄進も相次いだ。この間,京都では異変が続き,道真のたたりと恐れられていたところ神託があり,947年(天暦1)ころ(あるいは天暦9とも)北野神社(北野天満宮)が創建された。北野神社へは1004年(寛弘1)より,一条天皇の行幸が行われ,天満宮安楽寺へも同時に勅使が派遣され勅祭が催された。このように天満宮安楽寺は,天神信仰の普及と相まち,朝野の崇敬を得,寺領寄進も増して九州有数の大社寺となっていった。
南北朝時代以降別当はしだいに在京のままで下向することがなくなり,このため安楽寺には留守別当がおかれ実権を掌握するようになった。第18代別当善昇の子孫で,のちの大鳥居(おおとりい),小鳥居(ことりい),それに御供屋(ごくや),執行坊(しぎようぼう),浦之坊(うらのぼう)を加えた5家が留守別当職を代々継承し,また三宮司(満盛院(まんじよういん),検校坊(けんぎようぼう),勾当坊(こうとうぼう))が神殿宿直にあたった。室町(戦国)期には,数度の兵火にかかり,これがため著しく衰退していたが,天正(1573-92)以来,小早川隆景,石田三成,黒田長政らの崇敬・保護を得,堂舎の復興がなされた。その後,明治維新の神仏分離令により,草創以来神仏混交であった天満宮安楽寺は,その寺号を廃止し,現在に至る。現在はとくに梅の名所,学業の神として春の入学試験のころにはにぎわいを見せている。
→鷽(うそ)替え →天神信仰
執筆者:上田 純一
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福岡県太宰府市太宰府に鎮座。菅原道真(すがわらのみちざね)を祀(まつ)る。文章博士(もんじょうはかせ)、右大臣兼右近衛(うこんえ)大将の任にあった道真は、901年(昌泰4)藤原時平(ときひら)らの讒言(ざんげん)により大宰権帥(だざいのごんのそち)に左遷され、任地にいたが、903年(延喜3)その地の榎(えのき)寺で亡くなった。そこで、その遺骸(いがい)を四堂のあたりに葬るべく牛車で進んだところ、安楽寺境内で止まり動くことができず、ためにそこを墓所と定め遺骸を葬ったという。すなわち、現本殿のある地で、905年随臣の味酒安行(うまざけやすゆき)がそこに廟社(びょうしゃ)を造営した。それより、都では凶事が打ち続き、人々はそれを道真の怨霊(おんりょう)によるものと恐れ、919年藤原仲平(なかひら)が勅を受けて下向(げこう)、社殿を造営し、あと道真は923年(延長1)本官右大臣に復され、正二位を贈られた。993年(正暦4)正一位左大臣、さらに太政(だいじょう)大臣を贈られ、天満大自在天神と崇(あが)められた。以後、道真の亡くなった2月25日に勅祭が行われる例となり、鎌倉時代に文学の神として尊敬されるほか、正直を守る神、慈悲の神とされ、絵巻物の流行とともに天神信仰は広まり、室町時代には禅僧が信仰するとともに渡唐(ととう)天神信仰を生み、江戸時代には寺子屋教育の発達で、さらに広く信仰されることとなった。1871年(明治4)国幣小社、95年官幣中社となる。例祭9月25日、ほかに1月7日夜の追儺(ついな)(鬼すべ)、鷽替(うそか)えなど特殊神事も多く、社宝に国宝『翰苑(かんえん)』巻第30ほか文書類も多い。
[鎌田純一]
『長沼賢海・竹岡勝也・橋詰武生編『大宰府小史』(1952・太宰府天満宮)』▽『竹内理三編『大宰府・太宰府天満宮資料』(1964~ ・太宰府天満宮)』▽『西高辻信貞著『太宰府天満宮』(1985・講談社)』
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…太宰府天満宮で1月7日に行われる神事。夜,明りを消した境内で参詣者どうしが木製の鷽を交換し合うもので,中に神社から出される金の鷽が混じっていて,替え当てた人は幸運を得るとされている(イラスト)。…
…松,杉,ヒノキなどの常緑樹が一般的だが,神社によって特定の神木がある。有名なものに,京都の伏見稲荷大社や奈良の大神神社の験(しるし)の杉,福岡の香椎宮の綾杉,太宰府天満宮の梅,北野天満宮の一夜松(ひとよまつ),滋賀の日吉大社の桂,熊野大社,伊豆山神社の梛(なぎ),新潟の弥彦神社の椎などがある。奈良春日大社の神木(榊に神鏡を斎(いわ)いつけたもの)は中世に何度か興福寺の衆徒が春日大明神の御正体と称して担ぎ出し,朝廷に強訴(ごうそ)する手段とされた。…
※「太宰府天満宮」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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