中村仙巌(読み)ナカムラ センガン

20世紀日本人名事典 「中村仙巌」の解説

中村 仙巌
ナカムラ センガン

江戸時代末期〜大正期の尼僧,教育者



生年
嘉永2年8月9日(1849年)

没年
昭和4(1929)年3月10日

出生地
越後国二十村郷(新潟県長岡市)

別名
諱=活道

経歴
慶応2年(1866年)17歳の時に長岡の実相庵で出家。雲洞庵南木国定の許で剃髪し、さらに得度を受けて仙巌尼を名乗る。円通庵の天巌尼や京都養林院の観苗尼らに師事して修行を積んだのち長岡に戻り、児童教育を開始。明治20年には地方における女子教育の先駆けとなる仙巌学園(星野女学校の前身)を設立、一時は100人の学生を教えたが、28年に閉園を余儀なくされた。同年小出町に移り、円通寺を創建して庵主となる。その後も教育事業で活躍し、40年尼僧学林(のちの新潟県専門尼僧堂)を設立。また生涯に庵主として説教を行うこと6000回に及んだと言われるなど、熱心に活動した。大正7年中風に罹り、10年余り療養したのち没した。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

朝日日本歴史人物事典 「中村仙巌」の解説

中村仙巌

没年:昭和4.3.10(1929)
生年:嘉永2.8.9(1849.9.25)
江戸末から明治大正期の曹洞宗の尼。諱は活道。越後二十村郷(新潟県長岡市)の中村裕太郎の4女。出家して悩める女性を救わんと,17歳で仏門に入る。京都などでの厳しい修行ののち,長岡に帰って児童教育に努め,また,明治20(1887)年には仙巌学園を創設,同28年に閉園したが,地方における女子教育の先駆といえる。その後も孤児養育や尼の教育に励み,同40年には尼僧学林(新潟専門尼僧堂の前身)を創設,また,各地での説法も6000座を超える。大正7(1918)年中風を病み,約10年の療養生活ののちに没した。<参考文献>曹洞宗尼僧史編纂会編『曹洞宗尼僧史』,保阪玉泉『仙巌尼和尚伝』

(熊本英人)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

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