中藤村(読み)なかとうむら

日本歴史地名大系 「中藤村」の解説

中藤村
なかとうむら

[現在地名]武蔵村山市中藤一―五丁目・緑が丘みどりがおか学園がくえん一―五丁目・大南おおみなみ一―五丁目・えのき一―三丁目・神明しんめい一―四丁目・本町ほんまち一―二丁目・同五―六丁目・中央ちゆうおう一―五丁目

狭山丘陵の南麓に位置し、東は芋久保いもくぼ(現東大和市)、西は横田よこた村・三ッ木みつぎ村、北は入間郡勝楽寺しようらくじ(現埼玉県所沢市)。北条氏所領役帳では江戸衆遠山丹波守綱景の所領のなかに「九貫百七十文 江戸中藤」がみえる。田園簿に中藤ウ村とみえ、田一四五石余・畑八〇〇石余、旗本前島領(五五〇石)・同渡辺領(三〇〇石)・同長尾領(九六石)の三給。ほかに真福しんぷく寺領二〇石・長円ちようえん寺領一〇石があった。慶安二年(一六四九)当村の地頭山争論の時は前島氏・渡辺氏の名がみえる(「幕府巡見使連署書状」渡辺家文書)。なお田園簿には横田村がみえず、当村に含まれていた。前島領は寛文八年(一六六八)廩米(扶持米)に改められて幕府領となった(寛政重修諸家譜)。渡辺領も明暦元年(一六五五)に幕府領となったが、宝永三年(一七〇六)旗本沼間領となり、文政六年(一八二三)沼間氏の改易により幕府領に復して幕末に至った(「組合高調帳」増尾家文書、旧高旧領取調帳)。沼間領の宝暦年間(一七五一―六四)の年貢額は米二二俵と金八六両・銀六匁一分余であった(宝暦一〇年「定免願書」内野家文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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