武蔵村山市(読み)ムサシムラヤマシ

デジタル大辞泉 「武蔵村山市」の意味・読み・例文・類語

むさしむらやま‐し【武蔵村山市】

武蔵村山

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日本歴史地名大系 「武蔵村山市」の解説

武蔵村山市
むさしむらやまし

面積:一五・三七平方キロ

都心から西方約四〇キロに位置し、東は東大和市、西は西多摩郡瑞穂みずほ町、南は立川市・福生ふつさ市、北は埼玉県所沢市。市域の北部三分の一が狭山丘陵で東西に連なるが、ほかは平坦な武蔵野台地。瑞穂町の狭山ヶ池を流れ出た残堀ざんぼり川が南西部を立川方面へ流れるほか、丘陵の小谷より入谷いりや川・空堀からぼり川・久保くぼの川が流れる。市域のほぼ中央を東西に新青梅しんおうめ街道(主要地方道新宿―青梅線)が貫通し、これを挟んで北側丘陵麓を青梅街道(同上)、南側を江戸街道が並行する。鉄道はなく、多摩都市モノレールが上北台かみきただい(東大和市)から市内への延伸を目指している。市域は近世まで多摩郡に属した。狭山丘陵南麓に沿って集落が発達し、谷戸や山際でわずかに水田が作られていたが、台地・平地では麦類・雑穀・薩摩芋などを主とし陸稲を作付けてきた。

〔原始〕

武蔵野台地の残堀川・久保の川・空堀川流域にもいくつかの遺跡が発見されているが、北部の狭山丘陵の台地上に遺跡が集中している。とくに近隣市町では例をみない特徴をもった遺跡が多い。吉祥山きつしようやま遺跡では狭山丘陵全体をみても類例の少ない縄文時代後期・晩期と弥生時代後期の遺跡、遺物が発見されている。とくに東北地方に分布する縄文後期後半の新地式土器が狭山丘陵周辺で初めて確認された。吉祥山遺跡から西北西に一・五キロ、丘陵の谷地に位置する後ヶ谷戸うしろがやと遺跡は弥生後期から古墳時代にかけてのものとみられ、河川の治水用に使われたと推定される板材などの木製品が見つかっている。

〔古代・中世〕

古代律令制下では武蔵国多摩郡に属した。吉祥山遺跡の東側に隣接する赤堀あかぼり遺跡で平安期の住居跡のほかに小鍛冶跡が一基見つかり、鉄鏃・刀子・火打金などの鉄製品が採集されている。また丸瓦を竈に転用した住居跡も複数見つかっている。平安時代後期になると、狭山丘陵地域には武蔵七党の一つである村山党が台頭してきた。村山党は村山・山口・宮寺・金子などの諸氏からなり、鎌倉幕府御家人として活躍したが、その中心は金子氏だったようで、「金子・村山輩」などと連記されることが多い(「吾妻鏡」治承四年八月二六日条など)。しかし南北朝期に南朝方にくみしたためか、その後の活動の詳細は不明。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「武蔵村山市」の意味・わかりやすい解説

武蔵村山〔市〕
むさしむらやま

東京都西部,多摩湖の南西にある市。北は埼玉県に接する。大部分が平坦な武蔵野台地にある。 1954年町制施行し,村山町成立。 1970年市制施行とともに名称変更。付近一帯は武士団武蔵七党の一つ村山党の領域で,殿ヶ谷 (現在の瑞穂町) に居館が置かれた。狭山茶や近郊野菜の栽培が行なわれている。西部の三ッ木付近は手織村山大島紬の産地。南西端にアメリカ軍横田基地があり,南部には化学工場が立地。大規模な都営村山団地が建設されるなど住宅の進出が著しく,住宅都市の性格が強まっている。国立病院機構の療養施設や国立感染症研究所 (村山分室) がある。市域北部の狭山丘陵一帯は,狭山都立自然公園に属する。面積 15.32km2。人口 7万829(2020)。

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