久喜本町(読み)くきほんまち

日本歴史地名大系 「久喜本町」の解説

久喜本町
くきほんまち

[現在地名]久喜市中央ちゆうおう一丁目・同三―四丁目・みなみ一―二丁目・同五丁目・本町ほんちよう一―八丁目・上町かみまちきた二丁目・久喜本

南東は久喜新町、北から東は中落堀なかおとしぼり川を境に野久喜のぐき古久喜こぐき両村。郷帳類では久喜郷(村・町)で一括されるが、貞享元年(一六八四)の久喜鷹場村数覚(伊達家文書)に久喜本町とみえ一村として扱われていたと考えられる。明和七年(一七七〇)の高は五七五石余(「騎西領用悪水圦樋等仕来覚書」押田家文書)。貞享元年米津政武が当地に陣屋を設け、寛政一〇年(一七九八)七月まで存続した(寛政重修諸家譜)幕末には独立した一村となり、改革組合取調書によると、幕府領と三卿の一家である清水領、旗本島田領と甘棠かんとう院領一〇〇石。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報