デジタル大辞泉
「久喜市」の意味・読み・例文・類語
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
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久喜市
くきし
面積:二五・三五平方キロ
県の北東部にあり、市域は東西八・六キロ、南北六・一五キロ。北は加須市・北葛飾郡鷲宮町、東は幸手市・北葛飾郡杉戸町、南東から南は南埼玉郡宮代町・白岡町、西は同郡菖蒲町に接する。市域の北東から東の境界は葛西用水(古利根川)、南の境界を星川が流れ、その間を青毛堀川・中落堀川・新川用水・備前前堀川・備前堀川などの用・排水が、ほぼ北西から南東の方向へ流れている。加須低地とよばれる沖積地の南東部に位置し、微高地と低湿地に大別される。微高地は台地・自然堤防・河畔砂丘で、古い集落は自然堤防上にみられる。低湿地は後背湿地と古流路で、多くは水田であるが、最近は埋立てられ宅地化される所も多くなった。
〔原始〕
市内で発見された最古の遺物は、足利遺跡から出土した旧石器時代の石器類で、同時代の遺跡は二ヵ所確認されている。縄文時代の遺跡は二五ヵ所確認され、最古の土器は足利遺跡出土の早期の井草式土器である。前期になると高輪寺遺跡コウリンジイセキから竪穴住居跡が検出された。中期の遺跡では、足利遺跡・甘棠院西遺跡から埋甕の炉を中心とする竪穴住居跡が検出されている。後期の遺跡は御陣山遺跡・荒鎌遺跡・道合遺跡が知られており、土偶・耳飾などが出土した。晩期には東北地方の影響を受けた土器が御陣山・荒鎌両遺跡で出土している。弥生時代の遺跡の出土遺物としては、須和田式の土器片が荒鎌遺跡から出土し、後期は高輪寺遺跡から磨製石鏃・土器片が出土した。古墳時代前・中期の土師器片が高輪寺遺跡から出土している。また、吉羽の千勝神社北側の水田からは甕形土器が発見されている。
〔古代・中世〕
古代の市域は埼玉郡に属し、一部は「和名抄」にみえる太田郷に含まれていたとみられる。同郷域は当市から鷲宮町・加須市にかけてと考えられ、平安時代末期には藤原秀郷流の太田氏によって太田庄が開かれた。中世には市域の東半分が同庄に含まれ、西半分は埼玉郡から分立した埼西郡に所属したと考えられる。両地域は太田庄の鎮守鷲宮神社(現鷲宮町)と埼西郡に分布する久伊豆神社のそれぞれの祭祀圏と一致し、境界は騎西領用水(新川用水)の流れる自然堤防であった。鎌倉時代初期、太田行朝は大河土御厨において神人殺傷事件にかかわって太田庄を没収されたらしく(吾妻鏡・尊卑分脈)、以後太田氏の消息は伝わらない。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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久喜〔市〕
くき
埼玉県東部,古利根川 (→葛西用水) 西岸,関東平野の最低地付近にある市。1954年久喜町と太田村,江面村,清久村の 3村が合体し,1971年市制。2010年菖蒲町,栗橋町,鷲宮町と合体。早くから開かれ,中心市街地の久喜は江戸時代には 3と 8の日に市が立つ市場町であった。1885年の東北本線の開通,1899年の東武鉄道伊勢崎線の開通により交通の要地として発展。近年は住宅が急増して都市化が進んだ。農村部は米を産し,埼玉ナシの主産地でもある。ゴム,機械などの工場も多い。東北自動車道の開通を機に久喜菖蒲工業団地,清久工業団地などが造成された。古河公方足利政氏の隠居館の跡である甘棠院(かんとういん)は永正16 (1519) 年の開基といわれ,国指定重要文化財の紙本著色伝貞巖和尚像(ていがんおしょうぞう) がある。鷲宮神社は国指定重要文化財の太刀を保存し,鷲宮催馬楽神楽(→神楽)は国の重要無形民俗文化財。東武鉄道日光線,国道4号線,122号線,125号線,東北自動車道の久喜インターチェンジがある。面積 82.41km2。人口 15万582(2020)。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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