朝日日本歴史人物事典 「仁寛」の解説
仁寛
平安後期の真言宗の僧。左大臣源俊房の子。京都出身。立川流の始祖として知られる。康和3(1101)年,醍醐寺無量光院に於いて,兄の三宝院勝覚 から伝法灌頂を受ける。後三条天皇の第3皇子輔仁親王の護持僧。不遇の輔仁親王を天皇位に就けようと永久1(1113)年鳥羽天皇暗殺計画を企てる。事件発覚後,伊豆国(静岡県)大仁に配流され名を蓮念と改める。約4カ月後に投岩自殺を図り没したというが定かでない。その間,配所で在俗の人々に真言密教を授ける。弟子に寂乗,観蓮,見蓮,観照がいる。なかでも武蔵国立川(東京都)の陰陽師見蓮は,密教に陰陽道を混入させた一説を作り,師の名を借りて蓮念の名で広める。これがのちに真言宗に影響を与え全国規模で流行した立川流の始まりといわれる。さらに,南北朝期の高野山の僧宥快が立川流を邪教とする『宝鏡鈔』に記したことから,仁寛がその祖とされてきた。今日では,仁寛と立川流の関係が明らかにされるなか,立川流の起源は兄の勝覚にあるとの説も現れ,仁寛=立川流の祖といった見解には疑問が投げ掛けられている。<参考文献>守山聖真『立川邪教とその社会的背景の研究』
(井野上眞弓)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報