源俊房(読み)みなもとのとしふさ

改訂新版 世界大百科事典 「源俊房」の意味・わかりやすい解説

源俊房 (みなもとのとしふさ)
生没年:1035-1121(長元8-保安2)

平安後期の公卿。右大臣師房の長男。母は摂政藤原道長の女尊子。16歳で早くも従三位に昇り,累進して1082年(永保2)右大臣となり,翌年左大臣に進み,白河,堀河,鳥羽3代39年にわたって一上(いちのかみ)(筆頭公卿)の座を占めた。1121年正月上表辞官,2月出家して寂俊と号したが,11月12日没した。その極楽往生の相を伝える《後拾遺往生伝》によれば,政理・世務に通じ,詩文に巧みにして,書もよくしたという。その日記は,姓と官により《水左記(すいさき)》と呼ばれ,また邸宅の号,土御門殿堀河殿にちなんで《土左記》《堀左記》とも称され,いま自筆原本8巻を伝存している。
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朝日日本歴史人物事典 「源俊房」の解説

源俊房

没年:保安2.11.12(1121.12.23)
生年:長元8(1035)
平安後期の公卿。堀河左大臣と称される。従一位。右大臣源師房の長男で母は藤原道長の娘尊子。村上源氏。永承5(1050)年16歳で従三位(非参議)となり6年後に参議。しかし前斎院娟子内親王に通じたことで後冷泉天皇勅勘にあい,一時蟄居を余儀なくされた。その後は昇進を重ね永保2(1082)年右大臣,1カ月後に左大臣となり,以後死去するまで大臣の職にあること40年間におよんだ。永保3年右大臣となった弟の顕房と左右の大臣を独占し,例のないことといわれた。才学があり詩文を作ることに抜きん出ていたという。日記に『水左記』がある。

(朧谷寿)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「源俊房」の解説

源俊房 みなもとの-としふさ

1035-1121 平安時代後期の公卿(くぎょう)。
長元8年生まれ。源師房(もろふさ)の長男。母は藤原道長の娘尊子。天喜(てんぎ)5年(1057)参議。同年娟子(けんし)内親王と通じたため一時蟄居(ちっきょ)。その後は昇進をかさね,永保3年(1083)左大臣となり40年在任。従一位。のち皇位継承にからんで立場をわるくし,実権は弟の源顕房(あきふさ)にうつった。堀川左府とよばれる。詩文,書にすぐれた。保安2年11月12日死去。87歳。法名は寂俊。日記に「水左記」。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「源俊房」の意味・わかりやすい解説

源俊房
みなもとのとしふさ

[生]長元8(1035)
[没]保安2(1121).11.12.
平安時代後期の廷臣。師房の長子。母は藤原道長女。父が源姓を賜わって以来村上源氏の勢いは摂関家をしのぐほどとなった。永保3 (1083) 年俊房,顕房の兄弟で左右大臣を占め,また堀河天皇の外戚としても力があった。日記『水左記』を残している。

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世界大百科事典(旧版)内の源俊房の言及

【水左記】より

…左大臣源俊房の日記。〈源〉の偏と〈左大臣〉の左を合わせて《水左記》と称するが,その家号〈土御門〉にもとづき《土左記》《土記》ともいい,邸宅の所在地〈堀河〉にちなんで《堀河左府記》ともいう。…

※「源俊房」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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