伊倉南方村
いくらみなみがたむら
[現在地名]玉名市伊倉南方
伊倉台地の南西部とその下の三角洲平野に立地し、東は宮原村、北は伊倉北方村に接する。応永一七年(一四一〇)一二月三日の足利義持御教書(小代文書)に「伊倉庄南方」とみえ、野原庄(現荒尾市)などとともに小代左近入道宗祐(広行)に安堵されている。この伊倉庄南方は近世の宮原村・片諏訪村などを含む広い地域をさすと思われる。天正(一五七三―九二)初め頃と推定される七月一一日の城久基知行預ケ状写(内田文書)では伊倉南方三八町のうち次郎丸名三町が城刑部少輔(頼忠)に領け置かれ、同一五年には「いくら南方」のうち「浜横島」を除く七五町が佐々成政から山上三名字衆中に与えられている(同年八月二八日「佐々成政黒印状写」内田文書・牛島文書)。また同年九月一七日の内田織部介宛の伊口意心知行宛行状写(内田文書)には七五町分の内訳が記され、伊倉南方六一町二反半のうち一〇町六反は畠地、このほか六貫二五〇文が野畑代蔵入地で、伊倉のうち南の一四町四反のうち二町六反は畠地とある。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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