日本歴史地名大系 「鍛冶屋町」の解説
鍛冶屋町
かじやまち
明石城下の東の入口である
鍛冶屋町
かじやちよう
鍛冶屋町
かじやまち
鍛冶屋町
かじやちよう
鍛冶屋町
かじやまち
鍛冶屋町
かじやまち
鍛冶屋町
かじやまち
鍛冶屋町
かじやちよう
鍛冶屋町
かじやまち
鍛冶屋町
かじやちよう
雲石路沿いの猫屋町から、東に折れた筋にある
元和五年広島城下絵図では油屋町の筋の一本北側の筋東部と、それに交差する縦町に「かぢや町」とあり、町間数一町二〇間を記す。寛永二年広島町数家数改め(済美録)では本家三三軒・借家一三軒。同一四年鍛冶弟子二一人へ「油屋町のうら畠畝三反十二歩屋鋪地に下されけるよし」(同書)にて
鍛冶屋町
かじやまち
福山城の東に開かれた職能集団の一町。
「備陽六郡志」に「備後藤四郎国吉住居したる家有、正徳・享保の比千貫屋忠左衛門と云者住しけるが鍛冶久兵衛世倅与右衛門に売侍り」とあって、山伏との切合の怪談が載る。「福山志料」は「古刀銘尽に藤四郎国吉近代上作、同国定トモニ福山住トミユ、此所ニ在シヤ」としているが、備後の作刀で元和以後の銘をもつものに「備後福山住人児玉藤四郎国吉作、慶安四年三月吉日」というものがあり、また安永九年(一七八〇)の「備後福山住藤四郎国吉作」という刀があって、藤四郎国吉の名がみられるが、この鍛冶屋町に住んでいたものであろう。
鍛冶屋町
かじやちよう
南北に通る
平安京の条坊では、左京七条三坊二保三町西側と七条二坊三保一四町東側の地。平安時代中期、当町西側は宇多上皇の御所
近世には西本願寺寺内町となり、寺内九町組のうち鍛冶組に所属。地子屋敷町。寛永一四年(一六三七)洛中絵図、天明六年(一七八六)京都洛中洛外絵図には、「西洞院三丁目」とあるが、寛文五年(一六六五)刊「京雀」には、既に現町名の「かぢや町」の名がみえる。
鍛冶屋町
かじやまち
鍛冶屋町
かじやまち
鍛冶屋町
かじやちよう
鍛冶屋町
かじやまち
鍛冶屋町
かじやちよう
鍛冶屋町
かじやまち
鍛冶屋町
かじやまち
鍛冶屋町
かじやちよう
鍛冶屋町
かじやちよう
東西に通る
平安京の条坊では、町の北側は左京四条二坊一保一町南、南側は左京四条二坊一保二町北。平安中期以降は六角大宮大路の東にあたる。
応永三二年(一四二五)一一月一〇日付の酒屋交名(北野天満宮史料)に「三位 六角大宮東北頬 明三」とある。
町名は、寛永一四年(一六三七)洛中絵図には「かじや町」とあり、寛永一八年以前の平安城町並図に「梶町」、承応二年(一六五三)新改洛陽並洛外之図に「梶や町」、寛文五年(一六六五)刊「京雀」に「丸木や町」、元禄九年(一六九六)京大絵図に「まるや丁」とあり、宝暦一二年(一七六二)刊「京町鑑」に「鍛冶屋町」とある。
鍛冶屋町
かじやちよう
鍛冶屋町
かじやまち
鍛冶屋町
かじやちよう
鍛冶屋町
かじやまち
鍛冶屋町
かじやちよう
鍛冶屋町
かじやちよう
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報