宮原村(読み)みやはらむら

日本歴史地名大系 「宮原村」の解説

宮原村
みやはらむら

[現在地名]呉市清水しみず一―三丁目・宮原一―一三丁目・つぼうち町・青山あおやま町・船見ふなみ町・神原かんばら町・室瀬むろせ町・宮原村

警固屋けごや村の北に位置し、東は賀茂郡阿賀あが村、北は和庄わしよう村に各々接し、西は海に臨む。阿賀村との境はやすみ(石槌山、五〇〇メートル)を中心とする山地で、斜面が海に迫り、北部と海岸側に小低地がある。「芸藩通志」は「川涜乏しく、耕種只池水を引く、旱損の患あり」と記す。南西部海岸近くに周囲四町余の烏小島からすこじまがある。安芸郡に属した。

宮原の地名は、文安三年(一四四六)二月一二日付厳島社宝蔵財物注文(野坂文書)に「金泥法華経一部 呉宮原寄進」とみえる。弘治四年(一五五八)四月九日付の安芸国安南郡呉保打渡状(「芸備郡中士筋者書出」所収)に「呉保坪付」として「合田畠五貫文宮原・室瀬之内」とあり、呉保の一部であった。


宮原村
みやばらむら

[現在地名]甲府市宮原町、中巨摩郡昭和しようわ紙漉阿原かみすきあわら

窪中島くぼなかじま村の南にある。西は鎌田かまた(現渋川)を挟んで紙漉阿原村。東寄りにはしぶ(現鎌田川)が流れ、南部の東岸に集落が形成される。村名は地内に八幡宮(現宇波刀神社)があることにより(甲斐国志)、現在も浄神場しようじんば輿回こしまわり・鳥居とりいなどの地名が残る。安和二年(九六九)七月八日の法勝院領目録(仁和寺文書)市河いちかわ庄を構成する田地の所在地として記される巨麻こま郡の「九条三宮原里」を当地一帯にあてる説がある。永徳三年(一三八三)二月一二日の小笠原長基譲状(勝山小笠原文書)には長基より子息次郎長秀へ譲られた所領のうちに甲斐国の「宮原村」がある。永禄四年(一五六一)の番帳にみえる「宮原の禰き」は、前述八幡宮の神官をさす。


宮原村
みやのはるむら

[現在地名]小国町宮原みやばる

田の原たのはる川と志賀瀬しがせ川が合流し杖立つえたて川になる所にあり、北里手永の中心。元徳二年(一三三〇)二月二三日の阿蘇社造営料木注文写(阿蘇家文書)によると、料木を「小国宮原六家内」として小国郷内一七ヵ村で負担している。正平一八年(一三六三)閏一月二五日の阿蘇社造営料木納帳(同文書)では「ぬき一支」を近世の下城しものじよう村の小村である北河内きたがわちと共同で納めている。文明一六年(一四八四)八月二八日の阿蘇十二社同霜宮最花米注文(同文書)によると、「かふりかた」として「一所宮原六か市」とあり、六斎市があり、収納使に酒饌を提供して初穂米は免除されている。


宮原村
みやばらむら

[現在地名]藤枝市宮原

助宗すけむね村の西に位置し、南東流する瀬戸せと川に南流してきた滝沢たきさわ川が村内で合流する。東西を山に挟まれ、川谷に沿って集落が形成される。当村は川根かわね(現川根町など)地方と藤枝宿とを結ぶ要衝の地であった。志太しだ郡に属し、北は滝沢村、南は寺島てらじま村・谷稲葉やいなば村、西は大草おおくさ(現島田市)。寛永一二年(一六三五)の山西領水野監物知行渡村之帳に村名がみえ、高五〇石余、田中藩領。以後の領主の変遷は寛保二年(一七四二)幕府直轄領となるまでは谷稲葉村と同じと考えられる。


宮原村
みやはらむら

[現在地名]宮原町宮原村

川左岸の南に沿い、東は立神たてがみ村に接する丘陵部、中に宮原町を挟み、西は平野部で上有佐かみありさ村に接する。北は氷川を隔てて野津のづ(現竜北町)河上かわかみ村と相対する。もと「火ノ村」といい、三宮さんぐう社勧請後、みやはる村と改めたという。永正八年(一五一一)四月二四日、相良勢が北上して宇土うとの名和勢と合戦に及んだが敗退。相良長毎はせき(現八代市)を守り、求麻くま葦北あしきたからの援軍によって「宮原」まで攻め寄せた宇土勢を退けた(天文五年一一月二二日「沙弥洞然(相良長国)長状写」相良家文書)。


宮原村
みやはるむら

[現在地名]岡原村宮原

東は久米くめ村・槻木谷つきぎだに(現多良木町)、西は免田めんだ(現免田町)、南は岡本おかもと村、北は奥野おくの(現多良木町)に接する。湯前ゆのまえ(現湯前町)の飛地の切畑きりはた(現岡原村)があった。山林と平野部に分れ集落は幸野こうの溝・百太郎ひやくたろう溝沿いを中心に点在する。鎌倉時代には「豊富五百丁」に含まれていたといわれる。正平二一年(一三六六)三月九日の橘薩摩公多譲状(肥前小鹿島文書)に「ひこのくにくまのこほりくめのかう東方下ふんミやのはら、ふせんのくにそへたの志やうのうちたいやしき并ニちとう志きの事」とあり、宮原村は久米郷東方ひがしかたに含まれ、橘氏の支配を受けていた。


宮原村
みやはらむら

[現在地名]勝山町月田つきだ

東流してきた月田川が北に流れを変える流域の平坦地に位置し、東城とうじよう往来が通る。四〇〇メートル級の山に囲まれ、北は石原いしはら村・三堂坂みどうさか村、南は手谷てたに村・こうげ村、西は月田本つきだほん村。古代・中世の月田郷の中心地とされ、康正二年(一四五六)の「造内裏段銭并国役引付」によれば、月田郷の段銭一貫二五八文を佐野孫次郎が納入している。弘治三年(一五五七)仮託の美作国献上記(美作古簡集)では同郷として中井包水が金青一両を進上。


宮原村
みやばらむら

[現在地名]烏山町宮原

那珂川右岸にあり、集落は河岸の低平地から東部河岸段丘にかけて位置する。同川が村の北・東・南境を大きく蛇行しながら南流するため、川を挟んで順に興野きようの村・大沢おおさわ村・上境かみざかい村に対し、西の烏山城下から常陸国へ向かう街道が東西に通る。同街道は当地で那珂川を渡河し、対岸大沢村とを結ぶ渡場があった。川縁には河岸が置かれた。江戸時代を通じ烏山藩領で、畑方年貢米納の村。寛永一三年(一六三六)の堀親良遺領村目録(神奈川県堀直敬文書)に村名がみえ、高二二八石余。慶安郷帳では田高八石・畑高二二〇石と圧倒的に畑方優位の村で、畑方年貢米納による負担は多大であった。


宮原村
みやばらむら

[現在地名]用瀬町宮原

樟原くぬぎわら村の南方、千代川西岸の安蔵あぞう谷の谷口に位置する。拝領高は九一石余。本免五ツ九分。享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「因幡誌」によると高一二〇石、竈数八。「因幡志」でも家数八、産土神は葦生あしお大明神。産物は材木・鍬フロ・羽子板で、羽子板について同書には「此村昔より羽子板を製して産物とす、但し運上銀を納むれば州中此里の外に製する所なし、(中略)人呼でコケラ羽子板と云ふ、其彩色蘇方クチナシの煎汁を以てあやしき模様をなせるも古への遺風と見えたり」とあり、かつて当地が宮原という京都の公家の領地で、乱を避けた宮原氏が当地に下向、その影響で羽子板が製作されるようになり、地名も宮原氏に由縁するという伝えを記している。


宮原村
みやばらむら

[現在地名]溝口町宮原

流れを北西から北に変える日野川右岸の谷口扇状地に位置し、北は谷川たにがわ村。東に山を背負う集落内を南北に日野往来が通る。村名は楽々福ささふく大明神が鎮座することに由来すると伝える(日野郡史)。拝領高は二一八石余、本免は六ツ一分。年貢米は米子御蔵納であったが、高率年貢であることに加え、遠距離で運搬負担が重かったため慶応元年(一八六五)に半数を地蔵納、残りを米子御蔵の預米を購入して納付することを許されている(在方諸事控)。延享三年(一七四六)の巡見使案内手帳(宇田家文書)によると高三四八石余、家数五四・人数二四六、馬一・牛五六。


宮原村
みやばるむら

[現在地名]阿蘇町南宮原みなみみやばる

北と西は湯浦ゆのうら村、南は小里おざと村に接する。中世には湯浦郷内で、大宮原・中宮原に分れていた。至徳二年(一三八五)八月七日の阿蘇社領郷々注文(阿蘇家文書)に「なかみやはら」とみえ、「なかゝ」方の屋敷があった。応永一六年(一四〇九)九月には以下の三通の注文が作成されているが、水害などにより耕作の継続が不能となった農民が多数逃散したため、阿蘇大宮司家側に支配の再編成が必要となり、作成されたと思われる。九月二六日の阿蘇社領権大宮司方催促方田数坪付注文(同文書)によれば、大宮原に二反、中宮原に三反の庄分の田地(中司免)があったが、両所とも百姓が逃亡し亡所となったため、この年は耕作が行われなかった。


宮原村
みやばらむら

[現在地名]瀬戸田町宮原

生口いくち島の南側中央、御寺みてら村西南にあり、南西はおぎ村に接する。北西に山を負い、東南は海に臨み、対岸は伊予国岩城いわぎ(現愛媛県越智郡岩城村)。「芸藩通志」に「広十二町、袤六町余」とある。元和五年(一六一九)の安芸国知行帳では生口島二千四六六石余に含まれる。正徳二年(一七一二)の「所務役人頭庄屋郡邑受方記」では高二二八・五四石、「芸藩通志」は畝高二四町三反三畝余で同高を記し、戸数一〇三・人口四七〇、牛五二、船二二(四〇石以下)、寺院として海瀬山宝福ほうふく(曹洞宗)を記す。


宮原村
みやばるむら

[現在地名]久住町白丹しらに

阿蔵野あぞうの村の南西、白丹村の北、神馬かんば川上流域右岸に位置。郷帳類では白丹村に含まれたと思われ、元禄見稲簿には白丹村内宮原村とみえる。「肥後国誌」でも白丹村のうち宮原村とみえ、高三五六石余。地内に菅田すがた山中やまなか大知菴だいちあん堀田ほりた宇土うどうえだい沢水そうずなどの小村(ただし大知菴は古寺跡か)がある。


宮原村
みやばらむら

[現在地名]六郷町宮原

葛籠沢つづらさわ村の南、葛籠沢川の支流宮原川流域に立地する。東は樋田といだ(現下部町)、南は三沢みさわ(現同上)。村名は当地方の氏神浅間神社を中心に発展したことにちなむという(甲斐国志)。慶長古高帳に宮原とみえ高二四三石余、幕府領。延享二年(一七四五)の村明細帳(六郷町誌)によれば、延宝六年(一六七八)の検地高二一五石余、うち高五〇石余は入作高、田高八三石余・反別七町六反余、畑高一三一石余・反別二九町五反余。家数五五・人数二七九(うち僧三・神主一)、馬一〇。郷蔵一、鉄砲一挺。田は早生稲が主、水利が悪く天水に頼ったため旱損がちで、また富士川の洪水時の水損被害もあり、困窮時には夫食拝借を受けた。


宮原村
みやばらむら

[現在地名]杵築市八坂やさか本庄ほんじよう

八坂川下流域の本庄村の北方。豊後国弘安図田帳の「本庄」にあたる。慶長五年(一六〇〇)細川氏領となり、翌六年に日出藩領が設けられたとき、本庄村の北方の山手(ただし本庄村のうち野際村を除く)栗林くりばやし村の中央を東西に通る道の北方、日出藩領みやわき村の一部、日出藩領野際のぎわ村の北方を杵築藩領とし、宮原村と称した。藩支配は家々としたため、田畑人家とも入交じり、村役人でさえ日出藩領・杵築藩領の区別ができなかった。


宮原村
みやばらむら

[現在地名]藤沢市宮原

目久尻めくじり川の両岸に位置し、東は獺郷おそごう村、西は倉見くらみ(現高座郡寒川町)、南は小動こゆるぎ(現同町)、北は用田ようだ村に接する。東端を中原なかはら道が通る。天正一四年(一五八六)一二月二五日の京紺屋津田氏に宛てた北条家朱印状写(県史三)によれば、紺屋役の負担を命じられた一五ヵ所のなかに「宮原」がある。

慶長一八年(一六一三)旗本佐野領と幕府直轄領になり、幕府直轄領は寛永二年(一六二五)旗本今村領となる。佐野領は元禄三年(一六九〇)佐野兄弟二家に分知された。佐野領の検地は延宝五年(一六七七)佐野氏自身によって実施された。佐野領内で慶長一九年から元和七年(一六二一)頃の間に百姓の立退事件が起こった。


宮原村
みやばらむら

[現在地名]市原市高滝たかたき 宮原

不入ふにゆう村の東に位置し、養老ようろう川が流れる。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高一〇八石。寛文四年(一六六四)の土屋利直領知目録(寛文朱印留)に村名がみえ、延宝七年(一六七九)まで久留里藩領。元禄郷帳では高一七七石余。享保六年(一七二一)の村明細帳(宮原家文書)は幕府領分とみられ、高一〇〇石余で、年貢米は村内より七里の八幡やわた村まで積下ろした。


宮原村
みやばらむら

[現在地名]一宮町宮原・白山はくさん

一宮本郷いちのみやほんごう村の北、一宮川左岸にある。寛文八年(一六六八)の鷹場五郷組合帳に宮原とあり、金田組に属し、旗本土方領一五〇石。幕末も同領。元禄郷帳に村名がみえ、高二五〇石余。幕末も同様。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では家数五二。正徳五年(一七一五)の年貢は米二四一俵余で、ほか御蔵立米一四俵余(海老根家文書)南宮なんぐう神社が鎮座。もと大宮台おおみやだいに日本武尊の東国遠征に際しての海上安全を祈願して創祀され、白鳳期に金田かねだ(現長生村)の開発のために勧請した美濃南宮大社(現岐阜県垂井町)の分霊が合祀され、応仁二年(一四六八)現在地に移したという。


宮原村
みやばるむら

[現在地名]玉名市宮原みやはら

伊倉いくら台地の南方、標高三〇メートル前後の丘陵上にあり、東は青野あおの村、南は横田よこた村、北は伊倉北方いくらきたがた村のうち東北帳ひがしきたちよう村に接する。寛永一二年(一六三五)の地撫帳に田一五町八反三畝余・畠五一町三畝余、高七七五石三斗余とある。小田手永に属した。元禄国絵図には「伊倉南方之内宮原村」、「国誌」にも「南方村ノ内宮原村」とみえる。明治一一年(一八七八)頃の戸数九八・人数四五一、馬三五。大豆一四〇石・裸麦二一〇石・粟三〇〇石・甘藷一五万斤・蘿蔔七万斤・櫨実三千二〇〇斤・菜種二〇石・柿三〇俵・楮皮二貫目・筍五〇斤・畳一〇〇枚・蝋燭二千斤・素麺八〇〇貫目・突煙草五〇〇貫目・酢一〇石・麹三〇石・清酒一五〇石・種油一〇石などを産する。


宮原村
みやばるむら

[現在地名]院内町宮原

恵良えら川の支流院内川中流域に沿って続く谷間の山間部に位置し、東は景平かげひら村、西は大門だいもん村。小倉藩元和人畜改帳では惣庄屋が居住、高二一一石余、家数七・人数五一(うち百姓四・名子三)、牛三・馬一。百姓には小庄屋が二名含まれる。延宝八年(一六八〇)には大門組に所属し、人数七四(「人畜帳」庄家文書)。元禄豊前国高帳では高二〇七石余。正徳元年(一七一一)の年貢割付状(小野家文書)によれば高二〇七石余(うち新田七斗余)に対する年貢高は米五二石余・大豆一一石余、ほかに小物成として屋敷回りの林を含めた山や藪の用益税に加え、茶・綿・漆・紙といった特産品に対する税を合せて米一石余・銀三七匁余が課税された。


宮原村
みやのはるむら

[現在地名]菊鹿町宮原

木野きの川の上流にあり、東は菊池郡阿佐古あさご村・池田いけだ村、西は山鹿やまが上永野かみながの村・下永野村と接する。天正一七年(一五八九)の検地帳には、田二二町一反八畝余・畑四町三畝余、分米二八六石四斗余、一三名の高持百姓がみえ、田字には宮ノ下・はたけ田・水クち・宮ノわきなど約二五、畑字にはきへはた・西ノ原・やなぎ本など約一一の下ケ名がみえる。慶長九年(一六〇四)九月の検地帳では田畑・高は天正一七年とかわらないが、高持百姓が一四名になっている。近世は菊池郡深川手永に属した。宝暦一四年(一七六四)の下ケ名寄帳には田畑二一町四畝余、うち給知は一六町四反九畝余・高二九一石九斗余、御郡間新地は畑四反六畝・高八斗余、ほかに野開・請藪などが四町九畝余ある。


宮原村
みやはらむら

[現在地名]上宝町宮原

高原たかはら川中流左岸の河岸段丘上にあり、北は見座みざ村、南西高段丘上は在家ざいけ村。慶長一八年(一六一三)の飛騨国郷帳では高原郷に属し、高八三石余。元禄検地反歩帳によると、高一三五石余、田五町一反余・畑三町六反余。「飛騨国中案内」では免三割六分八厘余、家数二九(うち百姓二〇・門屋八・地借一)。天明八年(一七八八)の村明細帳によれば、田五四石余・畑一〇一石余、反別田五町八反余・畑一五町五反余、新田として高七斗余、反別一反余、家数三六、男七八・女六八。「斐太後風土記」によると、村域は縦八町・横三町、家数三七・人数一八〇余。産物は桑五千貫・麻二〇貫・大繭一〇〇貫・小繭一一〇貫・布六〇疋・石灰四〇〇俵・ハエ二〇〇尾・ウグイ三〇〇尾など。


宮原村
みやばるむら

[現在地名]植木町宮原

現植木町の北端、大塚おおつか村・二田ふたた村に続く台地から平野への変換線上に位置し、北西の山鹿やまが久野ひさの(現鹿央町)に続く。台地の縁辺を宮原村道が通る。慶長九年(一六〇四)九月の検地帳では田四五町八反六畝余・畠一八町八反八畝余、分米六七一石三斗余、名請人延数八六人で、大和・左近・雅楽・右京・源介など中世的名乗をもつ者の持高が大きい。近世は正院手永に属し、「国誌」に「迫ト云小村アリ」とある。文政九年(一八二六)に質屋一がいた(正院手永手鑑)


宮原村
みやはらむら

[現在地名]加世田市宮原

益山ますやま村の南西に位置する。浜堀はまぼり竹屋たかやはるの集落がある。現在の万之瀬まのせ川は当地の北西、金峰きんぽう町との境で東シナ海に注いでいるが、享和二年(一八〇二)頃までは当村の西端を南流していた(「加世田再撰史」加世田市立郷土資料館蔵など)。永禄一三年(一五七〇)二月吉日の島津氏老臣連署坪付(旧記雑録)によると、加世田庄のうち「宮原名」の一反が前田八郎左衛門尉の知行地となっている。寛文四年(一六六四)の郡村高辻帳に村名がみえ、高五一九石余。


宮原村
みやはらむら

[現在地名]富士宮市宮原

淀師よどし村の北東に位置する。地内を浸食谷の拾石じつこく沢が南西流する。同川下流は風祭かざまつり川と称し、潤井うるい川に合流する。寛永改高附帳に宮原村とみえ、畑方高四五石余(田なし)。元禄郷帳では高八四石余。国立史料館本元禄郷帳によれば甲斐甲府藩領。享保一六年(一七三一)の駿府代官所村高帳(明治大学刑事博物館蔵)では幕府領、高一四六石余。旧高旧領取調帳では同高で旗本秋山領。嘉永年間(一八四八―五四)の家数三四・人数一六三(富士宮市史)


宮原村
みやばらむら

[現在地名]市原市宮原

神代かじろ村の北に位置し、久留里くるり道が通る。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高六六七石。正保国絵図でも同高であるが、枝郷の西野にしの村を含むと考えられ、元禄郷帳では高四八三石余。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では高四八七石余で家数五四、三卿の清水領。旧高旧領取調帳では請西藩領。天保一四年(一八四三)の日光社参人馬雇賃銭割当では金四両三分・永七九文余を負担(慶応大学蔵文書)


宮原村
みやはらむら

[現在地名]銚子市宮原町

諸持もろもち村の北西方、利根川右岸に位置し、銚子道が通る。慶長五年(一六〇〇)八月の検地帳(野口家文書)では上田二町九反余・中田六町八反余・下田八町一反余、畑一町一反余・屋敷三反一畝余で、高一九二石余。この帳面は後代の記録で、地頭神野とし、百姓一八軒とするも年代は定かではない。寛永二年(一六二五)知行宛行状に村名がみえ、当村四〇〇石余が旗本荒尾領となっている。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分では高四〇一石余で旗本夏目・水野領。


宮原村
みやばるむら

[現在地名]上県町瀬田せた 宮原

瀬田村の西にある同村枝郷。古くは影山かげやまとも。「津島紀略」では仁田六ヵ村の一つとして影山とあるが、検地帳および郷村帳では中栗栖なかぐるす村と同じく瀬田村の内となっている。本来は山名に由来する影山と称されていたが、山麓に国本くにもとの神祠が鎮座することから宮原とよぶようになったという(津島紀事)


宮原村
みやばるむら

[現在地名]勝山町宮原

岩熊いわぐま村の南に位置し、障子しようじヶ岳から北東へ延びた山地の末端部に集落が形成されている。元和八年人畜改帳に村名がみえ、高六四〇石余、家数四七・人数九九(うち百姓六・名子一一・鍛冶一・山ノ口一)、牛一一・馬六。正保国絵図には「宮原」と「宮原ノ内浦河内」がみえ、正保(一六四四―四八)頃まで浦河内うらがわち村を含んでいた。


宮原村
みやばるむら

[現在地名]大野町宮迫みやざこ 宮原

宮迫村の北、南流するあかね川流域の台地上にある。正保郷帳に宮野原村とみえ、田高二二七石余・畑高一〇八石余、藤北ふじきた郷に属する。旧高旧領取調帳では高一四二石余。


宮原村
みやばらむら

[現在地名]長岡市宮原一―三丁目

長岡町の南郊外、三国街道(現国道一七号)に沿って形成された集落で街道の上は宮内みやうち村、下は千手町せんじゆまち村。宮内村枝郷である。村名は宮内村の一王子いちおうじ権現社(現高彦根神社)にかかわると思われる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の宮原村の言及

【有田[市]】より

…和歌山県西部,有田川河口にある市。1954年箕島町と保田,宮原,糸我の3村が合体して有田町と改称,56年市制。62年初島町を編入。人口3万4283(1995)。河口の積出港であった箕島,北湊が中心。中世には有田郡に勢力を張った湯浅党の本拠地であり,一族から出た明恵の遺跡が残っている。近世以来,有田川流域の南北の山地にミカンが栽培された。藩の奨励で盛んとなり有田ミカンとして江戸へも出荷され,その積出港として箕島,北湊は栄えてきた。…

※「宮原村」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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