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佐倉常七 さくら つねしち

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

佐倉常七 さくら-つねしち

1835-1899 幕末-明治時代の織物技術者。
天保(てんぽう)6年1月7日生まれ。美濃(みの)(岐阜県)の人。京都西陣で織物をまなぶ。明治5年京都府織物伝習生として渡仏。ジャカードやバッタンなどの洋式織機を日本に導入した。京都府織工場教授,京都市染織学校嘱託教師などをつとめた。明治32年7月24日死去。65歳。本姓は河瀬。

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書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

朝日日本歴史人物事典の解説

佐倉常七

没年:明治32.7.24(1899)
生年:天保6.1.7(1835.2.4)
明治期の西陣織匠。岐阜の人。河瀬久兵衛の長男。幼少時に父を失い,佐倉家の養子となり,のちに常七を襲名。京都西陣のふじ屋久兵衛のもとで織物業を学んだ。明治5(1872)年京都府織物伝習生として,吉田忠七,井上伊兵衛と渡仏し,リヨンで苦難の末製織法を習得。翌年帰国し,ジャカードやバッタンなどの洋式織機を日本に初めて導入した。当初はその効用を知らない者からの攻撃を受けたが,のちに急速に普及した。日本への織物製織技術の導入は佐倉によるところが大きい。8~14年京都府織工場教授。のちジャカード機の実用に成功し鹿子織等の織法を案出した佐々木清七の工場に転じ,26年独立し自ら工場を経営した。25年に西陣の10傑に選ばれ,27年米国コロンビア世界大博覧会より協賛名誉賞を受賞。さらに29年京都市織染学校嘱託教師となった。<参考文献>四方呉堂「織界の隠士 佐倉常七君伝」(『大日本織物協会会報』121,122,123号)

(松本貴典)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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世界大百科事典内の佐倉常七の言及

【織物】より

…生糸も従来の座繰りから機械製糸への転換を図るため,政府は1870年(明治3)富岡製糸場の設立を計画し,フランス人技師の指導でフランス式繰糸機300釜を設置し,またスイス人技師の指導でイタリア式繰糸機の技術導入も行った。 西洋織機の輸入は1872年,機織法の改善に着眼した京都府知事長谷信篤によってフランスのリヨンに派遣された西陣の佐倉常七,井上伊兵衛,吉田忠七の3人のうち翌年帰朝した佐倉,井上が,バッタン,ジャカード,金筬,紋彫器を携えてきたのが最初である。バッタンは緯糸を通す杼の往復運動を左右の手を使わずにできるようにした機で,1本の紐を引くだけで杼が左右に動き,緯糸を織り込むことができるから,製織能率は著しく上がり,また投杼による織物幅の制限は解除され,広幅織物の製織も可能となった。…

【西陣織】より

…洋式織機の輸入はこの事情を物語るものといえよう。1872年(明治5)京都府知事は佐倉常七,井上伊兵衛,吉田忠七をフランスのリヨンに留学させ,翌年,佐倉・井上がジャカードをはじめとする西欧式の織機類を初めて輸入した。一方,73年ウィーン万国博覧会出張に随行した伊達弥助は,各地の優れた織物に魅せられて視察研究し,75年数多くの参考品を持って帰国し,西陣織の新生面を開拓することに力を尽くした。…

※「佐倉常七」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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