精選版 日本国語大辞典 「織物」の意味・読み・例文・類語
おり‐もの【織物】
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紡績した糸を使って経糸(たていと)を平行に並べ、それに対して直角に緯糸(よこいと)を一定の法則に従って交錯させ、平面をつくりあげたものの総称。これをつくるときには織機を使い、手動あるいは機械的操作によって織り出されるが、織機を使わずに手先だけで組み合わせ、織物と同じような組織に構成するときには、織物ではなく編組(へんそ)である。
ただ中世の記録に「織物」とあるのは、織物一般の総称ではなく、「織色綾(おりいろあや)」のことで、経緯(たてよこ)をそれぞれ違う色糸で織り出した経三枚綾、緯六枚綾のもの、あるいは経緯六枚綾からなる綾組織のものをさし、古代の錦(にしき)生産が衰退したとき、それにかわるものとして出現した織物である。
織物は、まず一方の糸を平行に必要とする織幅に並べて整経(せいけい)するが、この糸を経糸とよび、それに対して直角に交錯させる糸を緯糸、あるいは緯糸(ぬきいと)(とくに伝統織物に対して)とよんでいる。この経緯糸の交錯する方法の違いにより、平織、綾織(または斜文(しゃもん)織)、朱子(しゅす)織の三つの組織に分けられ、織物の三原組織とよんでいる。またからみ織を含めて四原組織を提唱する研究者もある。織物の種類は、構成する原料により、麻織物、絹織物、毛織物、化繊織物、合繊織物などに分けられ、またこれらの繊維原料を混紡するか、異なる繊維の原糸を経緯に交織したものからなる。織物の名称は、原産地名、創始者名、生産会社名、用途、材料などによっていろいろの名称がつけられ、また最近の合繊織物は、それぞれ生産会社独自の名称がつけられている。それに加えて本来の織物名は、別の繊維を使った同一組織のものにも使われており、名称は固定したものではない。染色の面からみると、織物は漂白して使うこともあるが、染色を製織前の糸段階で行うのが先染(さきぞめ)織物で、製織したのち染色するのが後染(あとぞめ)織物である。
織物は一定の幅と長さをもっているが、用途、裁断方法により決められている。幅は着尺地のものを小幅(こはば)といい、産地、製品で違いがあるが、鯨(くじら)1尺(約38センチメートル)が標準である。広幅(ひろはば)は着尺地の2~3倍の幅をもち、裁断上から幅が決められている。長さは着尺地で約11メートル(鯨尺では2丈8尺)を一反とし、広幅では繊維の種類により慣習上異なっている。
[角山幸洋]
織物の発生は、一般的に新石器時代になってから、組、編、織へと発展し、織物が生まれたとされているが、その過程がわかる資料の出土はまだない。ただ織物(平織)への前段階にみられる編物の組織で、織物と関係するものはわかっている。日本の場合では、縄文晩期の遺跡、宮城県山王囲(さんのうがこい)遺跡から編物(もじり編と仮称)が出土し、また同時期の九州一帯の遺跡から出土する組織痕(こん)土器に圧痕として残っている。この組織は、経糸を平行状に並べ、それに2本の緯編糸をもじり合わせた莚(むしろ)ようの組織である。これは世界各地で織物発生以前にみられ、また土俗的にも織物をつくらない地域で知られている。この組織から経糸を一斉に開口する綜絖(そうこう)が発明されたことにより、消滅したものと考えられ、一般的に、この転換時期を新石器時代の初めに置くことができ、日本ではそれから遅れて縄文晩期から弥生(やよい)前期に置かれるであろう。
織物の発展過程は、組織の単純なものから複雑なものへ展開したことは一般的にいえるが、それは繊維の種類、織機の構造などの差異により、地域的に大きな格差を生じた。少なくとも長繊維の蚕糸を使い、高度の織物技術により織り出される中国織物の優位性は、西欧で近代的発明により新しい織物が生み出されるまで続いたのである。文明の発生した地帯では、いずれも早くから織物の発生がみられたが、遺物の残存状態により不明のところもある。現在のところもっとも古い出土遺物は、エジプトのファイユーム遺跡から出土した紀元前5000年ごろの亜麻布であろう。そのほかスイスの湖上住居、インドのモヘンジョ・ダーロ、中国の殷墟(いんきょ)、アメリカ南西部のニュー・メキシコやアリゾナ、ペルーの海岸地帯などの遺跡から、麻、毛、木綿、絹など、それぞれその土地に存在する繊維を使った織物が出土している。これらの地域は独自の繊維原料を用いて発展していき、特産品を生んでいった。とくに中国の絹は西方の世界にとっては羨望(せんぼう)の的であり、シルク・ロードを通って西方へ運ばれ、主要な貿易品のなかでも中心的位置を占め、ついには技法が西方へ伝播(でんぱ)することになった。麻織物は地中海地方一帯にわたって使われていたし、非常に細かい良質のものまで生産されていた。そこへインドから綿織物が、また中国から絹織物がもたらされ、衣生活を豊富にしていった。とくに絹は貴重であったため、そのまま使用せずに、織物を解きほぐし、麻と交織するという方法さえとられた。綿織物はインドが主要な生産地であったが、すでに前327年に、アレクサンドロス大王が東方遠征したときに西方に紹介されており、多量の綿織物が地中海地方で取引されていた。
一方、毛織物は、メンヨウを家畜化した牧畜地帯で始められたとみられるが、やがてイタリアで盛んに製織され、オランダを経て近世にはイギリスへ伝えられた。この三つの繊維は互いに混紡・交織され、各地の特産となり、また国家政策の一環として生産が奨励され、織物工業を生んでいった。フランスのリヨンは絹織物工業の中心であり、オランダのフランドル地方は毛織物工業の中心であった。木綿は、東インド会社が設立されたのち、17世紀には、ヨーロッパ諸国に多量にもたらされたが、需要量の増加から製織方法の改良が試みられ、1733年にジョン・ケイが飛杼(とびひ)(バッタン)装置を発明し、いままでの手織機による能率を飛躍的に向上させた。さらにエドモンド・カートライトによって、1785年に力織機が発明されている。やや遅れて1804年には、フランス人のジョセフ・マリー・ジャカールによってジャカード機がつくられ、紋織物を機械的に製織する方法が考案された。このような産業革命期における発明は、紡績機の発明とともに、繊維産業としての近代化を推し進めることになった。そして19世紀のなかばには力織機が手織機にとってかわり、機械力をもってするイギリスの綿織物は世界的地位を獲得するに至った。20世紀に入ると、資本主義産業は化合繊を生み出し、天然繊維の分野を蚕食していった。しかし現在では両者の欠点を補い、特性を引き伸ばす方法が考案され、新時代にふさわしい織物が誕生している。
[角山幸洋]
日本の織物の起源は、照葉樹林地帯からの技術伝播によるものとみられるが、少なくとも弥生(やよい)前期までには織物の製織が完成されていた。九州北部の弥生遺跡からは絹、苧麻(ちょま)の織物片が出土しており、弥生前期の東限である名古屋・西志賀(にししが)遺跡からは、弥生土器底部に織物圧痕(あっこん)が残存している。機(はた)織りの道具は静岡・登呂(とろ)遺跡、奈良・唐古(からこ)遺跡のほか、各地の弥生遺跡から出土しているが、いずれも原始機の部品である。古墳時代になると中国からの渡来人により、錦綾技法が伝わり、織機に改良が加えられて飛躍的発展をみた。古墳出土の金属製品には、初め平絹だけであったが、古墳中期ごろから錦(にしき)、綾(あや)が付着するようになる。また筬目(おさめ)の入った織物が出土し、織機構造に改良がみられた。飛鳥(あすか)・奈良時代には中国の隋唐(ずいとう)の技法が伝わり、錦も経錦(たてにしき)から緯錦(よこにしき)に転換し大形の豪華な模様を織り出すことが可能となった。中央では織部司(おりべのつかさ)を中心として高級織物が生産され、また地方でも調庸(ちょうよう)として絁(あしぎぬ)、麻がつくられ中央へ貢納された。これらは現在、正倉院宝物にみることができる。また高級織物も、奈良時代には中央から挑文師(あやとりし)が派遣され、生産が拡大された。このような律令(りつりょう)制による統制的生産が衰退し始めると、織部司所属の織手たちは束縛から解放され注文生産を営み始める。そして中国との国交停止によって国内生産は一時停滞したが、やがて宋(そう)から唐錦(からにしき)、唐綾(からあや)が輸入され、それを模倣して国産化された。
また地方生産地の再編成が行われ、12世紀ごろには、阿波(あわ)の絹、美濃(みの)の八丈、常陸(ひたち)の綾、紀伊の縑(かとり)、甲斐(かい)の班布(はんぷ)、丹後(たんご)の和布、石見(いわみ)の紬(つむぎ)などが特産品として知られるようになった。この時期には自己の原料による自主生産へと発展をみた。
中世末から中国の明(みん)の織法が伝えられ、金襴(きんらん)、緞子(どんす)、縮緬(ちりめん)などの技術が、泉州堺(さかい)を通じて西陣へ伝来した。西陣は応仁(おうにん)の乱(1467~1477)以後、西軍の山名宗全(やまなそうぜん)の陣跡に織工たちが居を構えたが、将軍家直属として保護され、独占的地位を確保していった。しかし国内生産の和糸(わし)は高級織物に適さないため、中国からの唐糸(からいと)によらねばならず、そのため舶載された唐織物は国産品と格差があり、「名物裂(めいぶつぎれ)」としてごくわずかな断片までも珍重された。一方、文禄(ぶんろく)・慶長(けいちょう)の役以後、朝鮮からもたらされた木綿は、国内の温暖地に木綿の栽培を刺激し、薩摩(さつま)木綿をはじめとして、関東地方を北限とする西の各地で織り出され、庶民の衣料として急速に普及していき、西日本におけるそれまでの麻織物を衰退させた。また西陣の技術は、各地に伝えられ、絹織物の生産に寄与していった。それに加え、各藩の国産奨励は、黒田藩の博多(はかた)織、伊達(だて)藩の仙台平(せんだいひら)、上杉藩の米沢(よねざわ)織、明石(あかし)藩の木綿織など、藩経済の支柱となるとともに、特産品を生んでいった。
明治維新以後、西欧から洋式技術が導入され新しい発展段階を迎える。日本からはヨーロッパで開催される博覧会への出品や、フランスへ技術者を派遣するなど、伝統技術の育成を図り、また国内では1877年(明治10)に第1回内国勧業博覧会が東京・上野で開催され、各地の織物を向上させ、織機の改良への刺激となった。この時期に空引機(そらひきはた)はジャカード機に転換し、高機(たかはた)にはバッタン(飛杼)装置が加わり、製織能率は向上した。各地でも明治10年代には、地機(じばた)から高機へと転換していった。
ところが毛織物の場合をみると、日本では気候風土の関係からメンヨウの飼育に成功しなかったので、すべて羊毛の輸入にまたねばならず、明治に至るまで発達は望めなかった。陸海軍の制度が置かれ、毛織物の制服が必要になり、また洋服用生地の輸入が急速に増加してくると羊毛工業の創設が考えられ、1879年(明治12)に東京に千住製絨所(せんじゅせいじゅうしょ)が設立され、軍需を中心の毛織物の充足に寄与することができた。
明治以後における洋装の浸透の結果、いままでの小幅織物に対して新しく広幅織物の生産が盛んとなり、両者の生産は互いに使用分野を分割して行われ、二重構造化していった。近代的繊維工業は、国内の紡績の需要が満たされると織物生産のほうへ目が向けられ、紡績と織布を兼営する大企業が生まれるとともに、国内市場ばかりでなく海外へも大量に輸出されるようになった。これには豊田佐吉(とよださきち)、津田米次郎(つだよねじろう)らによる織機の発明改良が大きな役割を果たしている。さらに人絹の製造がおこるにつれ、絹織物との間に繊維間競合を招き、またスフは毛織物、綿織物と対抗し、第二次世界大戦の激化とともに代用繊維化していった。戦後における合成繊維の発展は目覚ましく、日本では本格的生産が1952~1953年(昭和27~28)ごろから開始され、従来の天然繊維の分野に進出するとともに、いままでの織物の欠点を補いつつ発展を続け、さらに工業分野にまで広く進出している。
[角山幸洋]
織物の生産地域は、工業立地の条件が多くの要素をもっている。原料産地、製品の消費地、気候、用水、動力、交通、労働力、資本力、政策、伝統などの要素は、相互に絡み合って織物生産に影響を与えている。絹織物では、政治・経済の中心であった地域、また城下町で生産されてきた。綿織物は、綿花栽培との関係が強い。熱帯植物であるワタは、日本での栽培北限が関東地方であるため、近畿、東海、中国、四国、九州の各地方に盛んであった。
[角山幸洋]
織物をつくるには準備工程と製織工程に分けられる。まず準備工程では、経糸の毛羽立つのを防ぎ、織り上げた生地に一種の風合いを与えるため、糊(のり)付けが行われる。この糊付けは、糸の性質、撚(よ)りの回数、織物の性質によって異なるが、糊に防腐剤や柔軟剤を加えて、綛(かせ)あるいは機台にのせて糊付けされる。整経は、繰り返した糸を無地、縞(しま)など必要とする順序に配列する。この作業は簡単なものは手作業でも行われるが、各種の必要とする構造からなる整経機を使うこともある。整経が終わると経(たて)巻き、綜絖(そうこう)通し、筬(おさ)通しをする。製織工程では、織物組織に応じて構成された各種の織機を使い製織する。製織の終わった布を織機から取り外すことを織りおろしという。
[角山幸洋]
織物の仕上げ加工は、その風合い、外観など、織物の総合的な審美的性質を改良して、用途に適応する性能を与えることである。これは、織物の形、あるいは組織構造の状態を整えるという整理あるいは仕上げをその目的としていて、精練、漂白と同じように染色に付随した加工とみなされてきた。しかし、近年の化学の進歩に伴って、材料としての繊維、あるいは織物に対して、その欠点を改良し、用途に適応する新しい性能を積極的に付け加える処理加工の方向に変わってきた。一般に糊付け加工、幅出し加工、艶(つや)出し加工がなされていたが、第二次大戦後、防縮(ぼうしゅく)加工(サンフォライズ、ウォッシュ・アンド・ウエア、ノー・アイロンなど)、防皺(ぼうすう)加工(樹脂加工、エバグレーズ)、防虫加工、防臭加工(サニタイズ)、防水加工(撥水(はっすい)加工を含む。ゴアテックス)、防火加工など、あらゆる技術革新による仕上げ加工が応用されており、天然繊維の欠点を補い利点を伸ばす処理方法がとられている。
[角山幸洋]
織物はその用途に応じて必要な性能を備えていなければならない。織物の性能は物理的性能と化学的性能とに分かれ、物理的性能は主として被服構成に際して必要であり、また化学的性能は、被服整理とか染色加工に必要な性能である。これらの性能はどのような織物を使用する際にも要求されることである。これらは広範囲な用途にわたるため、織物の主要な用途である衣料の諸性能をあげ、被服にどのような影響があるかを取り上げることにする。
[角山幸洋]
織物が主として外力に対し、どれだけの抵抗する性能をもっているかとして、引っ張りに対する強さ、剛軟性(ごうなんせい)、弾性、破裂強さ、衝撃強さ、滑り摩擦などがある。主として機械的じょうぶさは、織物自体の繊維、紡績、組織に影響されることになる。
[角山幸洋]
織物の使用において、どれだけ損傷を受けずに、もとの形を維持できるかであり、主として材料の耐摩耗性、耐疲労性、防汚性、耐洗性、耐熱性、防虫性、抗菌性などがある。このことから、生地の使用に際しては、連続使用することなく、ときどき休ませて使用することが必要となる。
[角山幸洋]
衣料の条件には、気候調整力のよいもの、身体を保護するもの、身体の活動に適応するものなどがあげられ、吸水性、保温性、通気性、熱透過性、防菌・防黴(ぼうかび)性、防炎性、耐化学薬品性などがある。
[角山幸洋]
織物の装飾効果を発揮するのは、外観的加工だけでなく、ドレープ性、プリーツ性、ピリング性(織物の表面に毛玉ができること)、色彩、光沢などの性能がある。
[角山幸洋]
一般に風合い、地合いともいい、手ざわりやドレープ性などで感じる性能の一つで、シャリ味、ヌメリなど感覚的な表現がとられている。この性能は、織物生地の剛軟性、伸縮性、圧縮性、滑りやすさなどの性能を総合して感覚的に表すものである。この感覚的なものを数値で表すため、官能検査による方法がとられる。
[角山幸洋]
織物の名称は、初めわずか数種の織物しかなかったときには、単に布(ぬの)、絹布(けんぷ)のように使用繊維を総称したけれども、織物の発達とともに織物組織による品種が増加し、それを区別することや、販売の目的から材料、用途、織物組織、生産地、生産会社、織物組織の創始者などにより新しい名称がつけられてきた。この名称は、現在では新しい織物ができると、販売上の目的から会社独自の商品名をつけることが多い。またもとの商品名でも代替えの繊維からなるときは、そのまま商品名を流用することがあり、織物の内容を異にすることもある。この傾向は古くからみられ、たとえば、紬(つむぎ)といえば、紬糸によって織物が構成されているが、それに似た玉糸(たまいと)や生糸を使用しているものでも、紬の名称を使っている。現在の織物製品の番号は、繊維業界および商品取引に共通する一般的番号(スワッチ番号)と、織物製造会社独自の製品番号(チョップ番号)に分けられる。たとえば金巾(かなきん)3号(2003)は一般的番号の代表的なもので、多品種の製品を販売的、品質的に比較するための基準となっている標準的品種でもある。
[角山幸洋]
織物の形状の特徴は、基本的には、一定の幅と長さをもっていることである。これに織物の加工および用途が反映され、それぞれ特定の寸法がとられている。基本的には、衣料として構成される被服量から規格寸法が決められたのであろう。そのうち、日本の織物は成立事情や、被服形態のうえから、大きく小幅と広幅に区分できる。これが織物生産において、大企業では広幅の輸出織物、中小企業では小幅の内地織物という生産の二重構造を生むことになった。
織物の単位は、一般に「一反」といい、また「一端」と書くこともある。また「匹(ひき)」という単位を用い、2反を一匹(疋)とよんでいる。織物を贈答するとき、あるいは金品の贈答でも織物をもって表示するときには、この「疋」を用いる。織物の織端(おりはし)については、端末(たんまつ)、布端(ぬのはし)ともいい、一般に織り放したままの状態が多いが、ときには製品名、製作者名などを織り込んだり、スタンプを押捺(おうなつ)し表示することがある。長さの寸法では、古くは「尋(ひろ)」を単位として織物の長さとしていたこともあり、現在でもそれに従っている伝統織物もある。この1尋は身体尺であるため、原則的には両手をいっぱいに伸ばした長さをいい、尺度にあてはめるならば5尺(約150センチメートル)とされるが、それぞれの織物産地によりその寸法を異にし、4尺(約120センチメートル)前後を基準としている。この算出によると、一反の長さは7~7.5尋である。「一反」は織物の長さを表す単位で、普通、着尺地として1人分の衣服がつくれる被服量を基準として生まれたもので、もと鯨尺(くじらじゃく)で幅約9寸5分~1尺(約36~38センチメートル)くらい、長さ2丈8尺(約10.8メートル)であったが、いまでは体位の向上や、メートル法の施行により、約11~12メートルを一反にしている。ただ織物の種類、伝統的産地などにより、いくぶん異なることがある。広幅織物、または日本より輸出される織物は、その成立事情により、ヤードとメートルを単位として決められている。その多くは30、40、50ヤール(メートル)を基準としている。
織物の縁の部分を耳、あるいは織耳(おりみみ)といい、地(じ)の部分と組織的に区別している。この耳は、生地の耳部分をじょうぶにすること、織り上げたのちの幅出し、樹脂加工などの仕上げ加工のときに必要となる。そのため一般に地の組織と違ったじょうぶな斜子(ななこ)組織、綾組織となっていて、商標、商品名などをマークに入れることがある。しかし表示としての幅は、織耳を含める場合と除いた場合の寸法によることがある。この幅は、シャツ、ドレスなどのように、各種の型に裁断するとき、むだを生じないように決められており、基本的には広幅によっている。
幅の大小によって、細幅織物(テープ、リボンなど)、小幅織物、広幅織物、ダブル幅織物など、その用途に応じての区別がなされている。和服地には、もと小(並)幅であったが、のちには広幅が生まれた。洋服地にはシングル幅とダブル幅があり、シングル幅はだいたい76~91センチメートル(30~36インチ)が基準となり、ダブル幅はその倍数の幅となっている。
[角山幸洋]
使用される織物の分野は広範囲にわたっているが、主要な部分を占めるのはやはり衣料である。「衣料用」としては、紳士服、婦人・子供服、オーバー、作業服、学生服、カッターシャツ、ブラウス、ドレス、レインコート、ジャンパー、ダスターコート、着物、羽織、婦人肌着、和装小物、足袋、スカーフ、マフラー、ネクタイ、風呂敷(ふろしき)、ベール、ガウン、スキー・スポーツ服、水着、裏地、芯(しん)地、パジャマ、寝具、毛布など広範囲に用いられている。「産業用」としては、絶縁的材料、テント、各種運搬用袋、安全ベルトなどで、今後は、とくに工業的分野における繊維の利用に期待がもたれ、そのうち現段階では、炭素繊維の期待が大きいといえよう。
[角山幸洋]
織物の用語、そして品位を判定する試験法としてJIS(ジス)(日本産業規格)が制定されている。その内容は、織物・製織・染色加工・試験・検査の繊維用語、繊維・糸・織物の物理的・化学的試験方法などである。また市販品には、家庭用品品質表示法に基づく「繊維製品品質表示規程」により原料の繊維、およびその使用割合を表示することが決められ、また使用法についても、それぞれの繊維製品に表示されている。
[角山幸洋]
『角山幸洋著『日本染織発達史』(1965・三一書房)』
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…後者は,オスマン・トルコの代表的なタイプであるが,16世紀後半には,深紅色,緋色を呈色とする,いわゆる〈アルメニアの赤土〉の使用によって,いっそう華やかさを加えた。【杉村 棟】
[染織]
質・量を誇るイスラム工芸のなかでも染織は主要な分野をなし,特に絹織物とじゅうたんがめざましい発展を遂げた。中国から伝わった絹織物は,ササン朝以降オリエント世界で開花し,イスラム世界の拡大とともにヨーロッパに伝播し,ロマネスク文様の源泉の一つとなるなど,美術の東西交流史上重要な役割を果たした。…
※「織物」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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送り状。船荷証券,海上保険証券などとともに重要な船積み書類の一つで,売買契約の条件を履行したことを売主が買主に証明した書類。取引貨物の明細書ならびに計算書で,手形金額,保険価額算定の基礎となり,輸入貨...
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