日本大百科全書(ニッポニカ) 「フランツ」の意味・わかりやすい解説
フランツ(2世)
ふらんつ
Franz Ⅱ
(1768―1835)
神聖ローマ帝国最後の皇帝(在位1792~1806)。オーストリア皇帝としてはフランツ1世(在位1804~35)。レオポルト2世の子。強固な絶対主義的政治信念のもと、フランス革命といっさいの革新に反対してヨーロッパ反動勢力の主柱となった。ポーランド分割によってポーランドを滅亡させ、1804年ハプスブルク家の新旧領地を統合してオーストリア帝国を創建した。他方、対仏大同盟に参加してナポレオン1世に対抗したが敗れ(アウステルリッツの戦い)、南西ドイツ諸国がライン同盟を結んでナポレオンの保護下に入るに及び、06年神聖ローマ帝国解体を宣言して、帝位を退いた。10年皇女マリ・ルイーズをナポレオン1世に与えて一時対仏関係を鎮静させ、メッテルニヒとともに再起を目ざした。ウィーン会議以降は正統主義の原則のもと、15年の神聖同盟、ついで18年に結成された五国同盟の一員として、王政復古後の現状維持に努めた。
[岡崎勝世]
フランツ
ふらんつ
Robert Franz
(1815―1892)
ドイツ・ロマン派のリート作曲家。ハレの一般市民の子として生まれる。毎晩父が歌うプロテスタント教会コラール(賛美歌)を聴いて育ち、母からピアノの手ほどきを受けたのが少年期の唯一の音楽教育だった。デッサウの音楽家シュナイダーのもとで2年間音楽理論を学ぶが、結局故郷に帰り、バッハ、ヘンデル、シューベルト、シューマン、メンデルスゾーンの作品を研究しながら独学で音楽を修めた。1841年ハレのウルリヒ教会のオルガン奏者、翌年同市ジングアカデミー合唱団の指揮者、59年大学音楽監督となり、おりからドイツで盛んになったバッハ復興運動の中心人物となった。43年には最初の歌曲集が出版され、生涯に350曲を超える歌曲を書いた作曲家としての当時の評価の高さは、リストが彼の評伝(1872)を書くほどの崇拝ぶりからもうかがえる。
[樋口隆一]