翻訳|jacquard
空引機(そらひきばた)の開口装置を改良し,紋紙を用いて自動的に開口を行わせるようにした装置で,この装置をもつ織機をジャカード機という。この装置は1801年ころフランスのJ.M.ジャカールが考案し,04年に特許を得た。長方形のカード(紋紙)上に意匠図の各経糸(たていと)に対応する点を決めておき,意匠図の緯糸(よこいと)本数だけの紋紙を用意しておく。各緯糸に対し,経糸が上になる場合,その経糸に対応する紋紙上の点に穴をあけ,この紋紙を順番につないで装置にセットする。まず紋紙の穴の位置に合わせて配列された針(横針)に紋紙を押しつけ,穴のあいていない部分の横針を後退させると通糸(つうじ)(紋綜絖(そうこう))をつるしてある縦針が傾き,そのフックが後退する。次にナイフを持ち上げると,穴があるため傾斜しなかった縦針のみが上昇し,目的の開口を行うことができる(図)。繰返し模様の場合,同じ運動をさせる経糸を通した数本の通糸をまとめて通糸把(は)を作って縦針に結ぶ。ジャカードにもドビーと同様に単動式と複動式の2種類がある。最近ではカードの代りにエンドレスのフィルムに穴をあけた紋紙を用いるものが多い。また意匠図を電子装置に読ませ,自動的に紋紙に穴をあける自動紋彫機,および紋紙を作らず意匠図をセットすれば自動的に通糸を上下させる電子ジャカードも作られている。
中国,日本における空引機の技術は自動化という点では江戸時代まで進歩がなく,もっぱら西欧で自動化が進められ,現在のジャカードへと発展した。日本では1873年佐野常民がオーストリアで購入したジャカードを75年に東京勧業試験場に設置し,また佐倉常七らがフランスで購入したものを74年第2回京都博覧会に出品した。しかし鉄製のジャカードは高価で,操作も困難であったため,すぐには普及しなかった。77年西陣の荒木小平は木でジャカードを模造し,これが80年ころから西陣の一般機業家に使用された。桐生へは86年アメリカからも導入され,その後,足利,伊勢崎,博多,八王子などへも普及した。鉄製のジャカードが普及したのは,ずっと後のことである。
→空引機
執筆者:近田 淳雄
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…このころのリヨン絹織業の生産組織は,原料の購入,その加工の委託と監督,製品の販売に従事する織元層,作業場と織機を所有しみずから製織に携わる親方層,親方のもとで働く職人層の3者から成っていた。革命期の混乱も,ナポレオンによる絹着用の奨励や,1804年にJ.M.ジャカールの発明した新型の紋織織機(ジャカード)による豪奢な織物の容易かつ迅速な製織の開始によって解消され,19世紀前半にフランス機業は第2の黄金時代を現出した。しかしながら,19世紀以降の絹織業の基本的特徴は〈大衆化〉現象の進行にあった。…
…また,この穴をあけたカードによる制御は,その後の自動ピアノや,イギリスの数学者C.バベッジの機械計算機のアイデアの発端となったとされる。ジャカールによるこの機械は一般にジャカードと呼びならわされている。【奥山 修平】。…
…洋式織機の輸入はこの事情を物語るものといえよう。1872年(明治5)京都府知事は佐倉常七,井上伊兵衛,吉田忠七をフランスのリヨンに留学させ,翌年,佐倉・井上がジャカードをはじめとする西欧式の織機類を初めて輸入した。一方,73年ウィーン万国博覧会出張に随行した伊達弥助は,各地の優れた織物に魅せられて視察研究し,75年数多くの参考品を持って帰国し,西陣織の新生面を開拓することに力を尽くした。…
※「ジャカード」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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