日本(読み)にほん

精選版 日本国語大辞典 「日本」の意味・読み・例文・類語

にほん【日本】

[一] (「東の方」の意の「ひのもと」を漢字で記したところから) わが国の国号。大和(やまと)地方を発祥地とする大和朝廷により国家的統一がなされたところから、古くは「やまと」「おおやまと」といい、中国がわが国をさして倭(わ)国と記したため倭(やまと)・大倭(おおやまと)の文字が当てられた。その後、東方すなわち日の出るところの意から「日本」と記して「やまと」と読ませ、大化改新の頃、正式の国号として定められたものと考えられるが、以降、しだいに「ニホン」「ニッポン」と音読するようになった。明治二二年(一八八九)制定の旧憲法では、大日本帝国(だいにっぽんていこく)が国号として用いられたが、昭和二一年(一九四六)公布の日本国憲法により日本国が国号として用いられるようになった。その読み方については国家的統一はなく、対外的に多く「ニッポン」を用いる以外は「ニホン」「ニッポン」が厳密に使いわけられることなく併用されている。本辞典では、文献上明らかに「ニッポン」と記されている場合以外は、すべて「ニホン」として扱った。美称として、大八洲(おおやしま)、豊葦原瑞穂国(とよあしはらのみずほのくに)、葦原中国(あしはらのなかつくに)、秋津島、秋津国、大倭豊秋津島など。
※宇津保(970‐999頃)俊蔭「日本の衆生、三年つつしみてかの仙人になつみ」
※日葡辞書(1603‐04)「Nifon(ニホン)」 〔李白‐哭晁卿衡詩〕
[二] (日本) 日刊新聞。明治二二年(一八八九)陸羯南(くがかつなん)が創刊。日本主義を唱え、国民の統一と国家の独立を主張。大正三年(一九一四)廃刊。

にっぽん【日本】

[1]
[一] わが国の呼び名。→にほん
※高野本平家(13C前)一「日本(ニッホン)秋津嶋は纔に六十六箇国」
※天草本平家(1592)一「タイタウ Nippon(ニッポン)ニ ヲイテ ヲゴリヲ キワメタ ヒトビト」
[二] 「にほんばし(日本橋)」の略。
※雑俳・柳多留‐二〇(1785)「日本に死にそこないが二人なり」
※雑俳・川傍柳(1780‐83)二「日本を越すとありんす国へ出る」
[2] 〘名〙 (形動) 日本一であること。すばらしいこと。あっぱれであること。
※黄表紙・狂言好野暮大名(1784)「下々を憐れませらるる御仁心の程日本だ日本だ」
[補注]古くから「ニホン」「ニッポン」と両様によまれてきたが、本辞典では特に「ニッポン」と読みならわされているもの、および、文献上確証のあるものを除いて、すべて「ニホン」にまとめた。なお、子見出し項目も「ニホン」の項のもとで扱い、「ニッポン」の読みのある例も、そこにまとめた。→日本(にほん)

ひ‐の‐もと【日本】

※宇津保(970‐999頃)俊蔭「汝日の本の父母にむかふべき便りを与へむ」
※新古今(1205)羇旅・八九八「いざこどもはや日のもとへ大伴の御津の浜松まちこひぬらん〈山上憶良〉」
[補注]挙例の「新古今」は、「万葉集‐六三」を出典とする。「万葉集」の「早日本辺」は「はやくやまとへ」と訓むべきだとされるが、「万葉集」諸写本の傍訓には「ハヤヒノモトヘ」とある。

じっ‐ぽん【日本】

日本国の呼称。「日本」の字音読みから、ヨーロッパ語で呼称されたものの一つ。
※日葡辞書(1603‐04)「Iippon(ジッポン)。ヒノ モト〈訳〉東洋、すなわち日本」

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デジタル大辞泉 「日本」の意味・読み・例文・類語

にほん【日本】

わが国の国号。アジア大陸の東方にあり、北海道本州四国九州および周辺諸島からなる島国。首都、東京。行政上、1都1道2府43県に分けられる。総面積37万7815平方キロメートル。総人口1億2568万(2021)。
[補説]古くは大和やまと地方を基盤とする大和政権によって国家統一がなされたところから「やまと」「おおやまと」と称したが、大化の改新のころ「日出づるところ」の意で日本ひのもとと称し、奈良時代以降これを音読して「ニッポン」または「ニホン」というようになった。古く、大八洲国おおやしまぐに葦原中国あしはらのなかつくに葦原千五百秋瑞穂国あしはらのちいおあきのみずほのくになどの美称がある。明治22年(1889)には「大日本帝国憲法」の制定により「大日本帝国だいにっぽんていこく」が国号として用いられ、昭和21年(1946)には「日本国憲法」の公布により「日本国」が国号となったが、読み方は統一されていない。大和政権以降、公家による律令時代、武家による封建時代を経て19世紀後半の明治維新により近代国家としての基礎が確立。日清日露戦争第一次大戦などで千島列島台湾・南サハリン・朝鮮などを領土として獲得したが、第二次大戦に敗れその大半を失った。→にっぽん(日本)
[類語]大和やまと日の本八洲国やしまくに大八洲おおやしま秋津島敷島葦原あしはらの中つ国豊葦原とよあしはら瑞穂みずほの国和国わこく日東東海扶桑ふそう神州本邦本朝ジャパンジパング

にっぽん【日本】

わが国の呼び名。→にほん(日本)
「ヒノマルノハタハ―ノシルシデアリマス」〈尋常小学修身書・第2学年用・明治36年〉〈日葡
[補説]「日本」が「ニホン」か「ニッポン」かについては決定的な説はない。「日」は漢音ジツ、呉音ニチで、ニチホンがニッポンに音変化し、発音の柔らかさを好むところからさらにニホンが生じたものか。ジパングジャパンなどはジツホンに基づくものであろう。国の呼称としては、昭和9年(1934)に臨時国語調査会(国語審議会の前身)が国号呼称統一案としてニッポンを決議したが、政府採択には至っていない。日本放送協会は昭和26年(1951)に、正式の国号としてはニッポン、その他の場合はニホンといってもよいとした。日本銀行券(紙幣)や運動競技の国際大会でユニホームのローマ字表記がNipponなのは、先の事情による。平成21年(2009)、麻生内閣は「今後、『日本』の読み方を統一する意向はあるか」の質問に対し、「『にっぽん』又は『にほん』という読み方については、いずれも広く通用しており、どちらか一方に統一する必要はないと考えている」と答弁した。外務省では、英語による名称はジャパン(Japan)を用いている。なお本辞典では、両様に通用する語については、便宜上「にほん」の見出しのもとに集めた。
[名・形動]《安永・天明(1772~1789)ごろの江戸での流行語》日本一であること。すばらしいこと。また、そのさま。
「この不自由なところが―だとうれしがりけり」〈黄・艶気樺焼
[補説]書名別項。→日本

にっぽん【日本】[書名]

Nippon》江戸時代後期に来日したドイツ人医師・博物学者、シーボルトによる日本の総合研究書。ドイツ国王ウィルへルム2世の援助を受け、オランダ、ライデンで出版。1832~1851年にかけて13回の配本を行い、全20冊を刊行した。日本の地理・歴史・社会・風俗・動植物など、多分野について紹介した大著で、図版も多数収録。
明治22年(1889)創刊、大正3年(1914)廃刊の日刊新聞。明治21年(1888)創刊の日刊紙「東京電報」を改題して陸羯南くがかつなんが創刊。国家主義の立場から過度の欧化政策を批判、薩長藩閥政府を攻撃したため、しばしば発行停止処分を受けた。記者として古島一雄福本日南・末永純一郎・正岡子規などが在籍、資金面では谷干城近衛篤麿らが支援。

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百科事典マイペディア 「日本」の意味・わかりやすい解説

日本【にほん】

◎正式名称−日本国Japan。◎面積−37万7970.75km2。◎人口−1億2805万7000人(2010)。◎首都−東京(1316万人,2010)。◎住民−日本人,アイヌ,朝鮮人,中国人など。◎宗教−仏教,神道,キリスト教など。◎言語−日本語(公用語)。◎通貨−円。◎首相−安倍晋三(1954年生れ,2012年12月就任)。◎憲法−1946年11月公布,1947年5月発効。◎国会−二院制。衆議院(定員475,任期4年),参議院(定員242,任期6年)。2016年3月時点の衆議院議席分布−自由民主党290,民主・維新・無所属クラブ92,公明党35,日本共産党21,おおさか維新の会13,生活の党と山本太郎となかまたち2,社会民主党・市民連合2,無所属18,欠員2。2016年3月時点の参議院議席分布−自由民主党116,民主党・新緑風会59,公明党20,日本共産党11,おおさか維新の会7,維新の党5,日本のこころを大切にする党4,日本を元気にする会・無所属会4,社会民主党・護憲連合3,生活の党と山本太郎となかまたち3,無所属クラブ2,新党改革・無所属の会2,各派に属しない議員6。◎GDP−4兆9093億ドル(2008)。◎1人当りGDP−3万3800ドル(2007)。◎農林・漁業就業者比率−3.4%(2003)。◎平均寿命−男79.0歳,女86.0歳(2007)。◎乳児死亡率−2‰(2010)。◎識字率−100%。    *    *アジア大陸の東方に長さは3500km以上,幅は広い所で300kmにわたって北東〜南西に連なる日本列島を占める国。古くは(わ),倭国などと呼ばれ,中国の《漢書》から《隋書》まではこのように表記されている。〈日本〉の国号は律令国家の成立とともに定着したとみられる。読み方は〈にほん〉〈にっぽん〉の二つがあり,1934年文部省は後者に統一することを提案した。現行憲法には〈日本国〉とある。日本の国土は,北海道,本州,四国,九州の4大島と周辺海域の諸島からなる。1968年には小笠原諸島が日本に復帰して東京都に所属,1972年には沖縄が復帰して沖縄県となった。首都は東京都。〔地形〕 日本列島の地形区分は地質構造を基準にして西南日本と東北日本に2大別され,その境界は本州中部を南北に縦断する糸魚川(いといがわ)‐静岡構造線である。西南日本はさらに内帯(北側)と外帯(南側)に分かれ,その境界は長大な断層帯の中央構造線である。地形は地殻運動が激しいため土地の起伏が大きく,多くの断層によって地塁や地溝に区切られ,全体に平地が狭小な山地形を呈する。また新しい地殻運動の結果,河岸段丘,海岸段丘,開析扇状地,隆起三角州,隆起海食台地,海岸平野などが各地に形成されている。東北日本では3列の山地が南北方向に並行に連なる。この山系には北見山地,日高山脈,奥羽山脈,三国山脈,越後山脈,関東山地などの高峻(こうしゅん)な山地と,北上高地,阿武隈高地,出羽山地などの丘陵状山地とがある。西南日本の山系では,紀伊山地,四国山地,九州山地など外帯の山地が高峻で,中国山地,丹波高地など内帯の山地は高原状を呈する。本州中央部には日本アルプスと呼ばれる飛騨山脈(北アルプス),木曾山脈(中央アルプス),赤石山脈(南アルプス)が標高3000m級の高峰をもってそびえ,日本の最高峰富士山(標高3776m)もこの地域にある。火山が多いことも日本の地形の特色で,多くの火山帯があり,最も多いのは成層火山であるが,溶岩円頂丘も多い。火山群にはカルデラが発達するものも多く,特に阿蘇山のカルデラは東西約17km,南北約25kmで世界最大の規模で知られている。 日本の河川は一般に流路が短く勾配(こうばい)が急である。したがって降水は直ちに流下して粗粒の土砂を運搬し,山地の谷口には扇状地の発達が顕著である。その付近では堆積によって河床が上昇し,天井川を作ることも多い。石狩,十勝,北上,最上,阿武隈,利根,信濃,天竜,木曾,淀,吉野,筑後などが大河川で,流域面積の最大は利根川(1万6840km2),最長の川は信濃川(幹川流路延長367km)。海岸線が複雑なことも著しい特色で,その延長は2万8000kmに及ぶ。岩手県太平洋岸,志摩半島,四国西岸,九州北西岸など出入の多いリアス海岸と,山形県,新潟県,鳥取県の日本海岸など砂浜からなる平滑な海岸とが組み合わさっている。日本の平野や盆地はきわめて小規模で,各地に散在する傾向がみられる。いずれも河川の作用による沖積平野であるが,台地と低地とからなる場合が多い。東西約140km,南北約110kmで日本最大の関東平野をはじめ,石狩,越後,濃尾,大阪,筑後などの平野がおもなものである。〔気候〕 年平均気温10〜18℃,年降水量は1000〜2500mm。ユーラシア大陸東岸の温帯に位置し南北に細長い地理的条件により次の特徴をもつ。1.同緯度の大陸西岸よりも冬寒く夏暑い(東岸気候)。2.季節風が卓越し夏は高温多湿(季節風気候)。3.多雨。春雨,梅雨,秋霖(しゅうりん)の3雨季がある。4.冬季の日本海側の大雪と太平洋側の晴天乾燥(明瞭な気候境界)。5.低気圧の通路にあたるため天気の変化が激しい(前線帯気候)。6.温帯に位置し四季の変化に富む(温帯気候)。7.南北の気候の差が大きく二つの気候帯にまたがる。8.大陸の内部に比べると海洋の影響を受けて温和(大陸度40〜50。ある程度海洋性気候)。9.台風常襲国。10.地形が複雑で盆地気候,山岳気候などが複雑に分布し,海陸風などの局地風が発達する。11.台風や梅雨による風水害をはじめ冷害,霜害など気象災害が多い。 日本の気候区分は,区分法によって異なるが,大きな境界が二つある。その一つは日本の背骨を形成する山脈で,これを境に日本海側(岸)式気候と太平洋側(岸)式気候に分けられる。両者の相違は冬季に顕著で,前者は曇った天気が続き雪が多いのに対して,後者では晴天乾燥が続く。この二つの気候の差は北海道から九州にかけて現れ,ところにより両気候が複雑に入り乱れる。もう一つの大きな境界は,ケッペンの気候区分での亜寒帯気候と温帯気候の境界,アリソフの気候区分での中緯度気団地帯と亜熱帯地帯の境界で,両者ともほぼ北緯37°〜38°の線に沿って東西に走る。ただしこの境界線は土地の高低により変形を受けている。この境界の北と南の気候の差は動植物の分布に明瞭に反映されている。〔資源〕 日本には多種多様な地下資源が賦存するが,標本的な量にとどまるものが多く,工業原料資源は国際的にみてきわめて貧弱である。まとまった産出をみるものは石灰石,硫黄,石炭,銅・鉛・亜鉛鉱石などで,近代工業に不可欠な鉄鉱石,ボーキサイト,ニッケル鉱,原油などはほとんどを輸入に依存する。石炭も原料炭(特に製鉄用の強粘結炭)の産出は少なく,産業の拡大と重化学工業化の進展につれて輸入資源の比率が急増している。かつて輸出さえしていた銅が今日では所要原鉱の大部分を海外に求めているのはその一例である。また水力資源は豊富であっても,エネルギー革命原子力発電の実用化とともにエネルギー資源の輸入も増加の一途をたどっている。しかしこのような国内資源の貧弱さが,かえって今日国際的に最も有利な工業立地(臨海コンビナート)を形成させた事情も無視すべきではない。なお最近世界的に注目されている海岸・海底資源(大陸棚の石油資源など)の開発は日本周辺でも緒につきつつあり,成果の実現が期待されている。〔経済〕 日本経済の資本主義化は,明治維新以降,官業創設とその払下げにみられるような殖産興業の強行など,国家の政策的介入によって急速に進められた。20世紀初頭には,安価な労働力利用の上に立つ紡績,製糸などの繊維工業と,軍事的需要を基盤とする鉱山,冶金業などが確立され,日露戦争,第1次大戦を経て1930年代までには機械,化学など近代的産業も確立をみた。この間の資本の集積により主要産業における財閥の支配が完成されたが,一方,寄生地主制が支配的な非近代的農業,中小零細企業が広範に併存し,低賃金,低生活水準,膨大な潜在的失業など,日本経済の二重構造といわれる特性が胚胎された。第2次大戦で日本経済は壊滅的な打撃を受けたが,戦後は驚異的な復興・発展を遂げ,1956年の《経済白書》は〈もはや戦後ではない〉と宣言し,1968年には国民総生産で西ドイツを抜き,米・ソに次ぐ世界第3位を占めるに至った。戦後の経済発展は,農地改革財閥解体と集中排除,独占禁止法制定などの経済民主化を出発点とし,朝鮮戦争で得た巨額の利潤による資本蓄積,技術革新の展開による設備投資を軸とする1960年代の高度経済成長に進んできたものであるが,その実質成長率は年平均10%を超える,世界に例をみない高いものであった。 このような高度成長は一つには民間企業設備投資が常に国民総生産の20%前後を占め,その比重が外国に比べてきわめて高かったこと,また国民総生産が大きくなったとはいえ,1人当り国民所得は小さく(1968年で世界19位),それだけ発展の余地が大きかったこと,および輸出の伸長などにささえられてきたといえる。この高度成長の間,主要産業での大企業への生産の集中は一層進行した。またかつての恒常的な労働力過剰状態から史上初めての労働力不足への転換が招来されるに至り,これをてことする農業の近代化,中小企業の合理化が促進され,二重構造の解消が進んだ。しかし高度成長の結果,先進国中で最高の消費者物価上昇,社会資本の不足,大都市の過密と産業公害,反面での過疎地帯の生成など,高度成長のひずみと称される国民生活上のアンバランスが顕著になった。 1970年代に入ると,主要国間の経済関係の変化のためドルを基軸とする通貨安定制度(IMF)が崩れ,変動為替相場制に移行,世界経済システムの転換期を迎えた。また先進諸国の産業はマイクロエレクトロニクス(ME)技術を中心とするきわめて速いテンポの技術革新の時代に突入した。そこに起こったのが1973年の石油危機で,他の先進諸国と同様,日本経済も不況とインフレの同時進行(スタグフレーション)の状況に陥った。これによる高度経済成長の終焉は多分野に大きな影響を与えたが,その一つは財政である。税収が激減する一方,景気対策のための財政支出は増大したため,多額の赤字国債が発行され,累積する財政赤字が課題となった。国鉄,電電公社,専売公社の分割・民営化や行政改革の方針,1988年の消費税導入はここに発している。また石油危機は企業を雇用調整に向かわせたが,労働組合は賃上げ要求抑制により雇用の確保をはかり,労使協調路線を選択,戦後労働運動に大きな変化をもたらした。さらに省エネルギー化の進行は産業構造の転換をも促進した。製造業における省エネ型の機械工業の比重の増大などがそれだが,とくにエネルギー消費の少ないサービス業人口は,この時期前後からの女性の労働力市場への大量の参入ともあいまって増大した。日本経済はこうした石油危機後に対応する産業調整を迅速に実現したが,これを支えたのはME技術革命を活用した労働生産性の飛躍的な向上であり,またこの技術により日本は機械製品を中心に輸出を急速に伸ばした。これは一方,自動車,半導体などの貿易摩擦をうみ(〈日米自動車協議〉〈日米半導体協定〉参照),対外収支の不均衡は1980年代後半から急速な円高をもたらした。この円高などを背景に,1980年代後半株式や土地,ビルなどへの投機が異常に活発化し,株価・地価の急騰をよんだ。この過剰な〈投資の泡(バブル)〉(バブル経済)は1990年には破裂し,株価・地価は急落,投資家・企業への深刻なダメージ,巨額の不良債権と金融機関への不信を残し(〈不良債権処理問題〉〈破綻金融機関〉),以後21世紀初頭まで不況を長びかせてきた。一方,経済のグローバル化のなかで進展する金融の自由化(〈日本版ビッグバン〉),安価な労働力を求めての企業の海外進出と国内の産業空洞化,雇用を求める外国人労働者の流入など,多様な課題が現れている。さらに構造改革にともなって貧富格差・地方格差が拡大するなか,行政改革,年金制度高齢化社会などの問題も含めて,日本経済は難しい局面に至っている。〔政治〕 日本国憲法は主権在民を宣言し,天皇は日本国および日本国民統合の象徴であってその地位は国民の総意に基づくと定めている(憲法前文,憲法1条)。統治組織は三権分立の原理に基づく。立法権は国権の最高機関たる国会に属し,国会はいずれも公選の代表で組織する衆議院参議院で構成する(憲法41条〜43条)。行政権は内閣総理大臣を長とする内閣に属し,内閣は行政権の行使について国会に責任を負う(憲法65条,66条)。司法権は最高裁判所および法定の下級裁判所に属し,裁判所は違憲立法審査権をもつ(憲法76条,81条)。中央行政機関は1府10省からなり,地方行政は都道府県および市町村が当たる。治安維持は警察が担当し,中央に国家公安委員会警察庁,地方に都道府県公安委員会都道府県警察が置かれる。防衛関係は自衛隊が担当し,防衛省の統括下に陸上・海上・航空自衛隊がある。主要政党は1955年―1993年のあいだ続いた〈55年体制〉のもとでは,保守・革新の二大政党である自由民主党日本社会党を中軸に,民社党日本共産党公明党などであるが,1990年代に多党化と再編がすすみ,新党さきがけ新進党(民社党も合流),民主党などが登場し,社会党は1996年社会民主党と改称した。さらに新進党が1997年末に解党した後,諸党派の再編が進み,1999年には自由民主党,自由党,公明党による〈自自公〉連立政権が出現するにいたった。2000年には自由党から連立政権維持グループが保守党(のち保守新党)として分離し,〈自公保〉連立に変わった。その後2003年の衆院選の前後に,自由党は民主党に加わり,保守新党は自民党に合流し,野党としての民主党の重みが増した。2009年8月の総選挙では民主党が圧勝,民主党・社民党・国民新党による連立政権で歴史的な政権交代を果たしたが,2012年12月の総選挙で民主党は自民党に大敗を喫し,自民・公明が政権を奪還,自公連立による安倍晋三内閣が発足した。〔歴史〕 日本は更新世には大陸と陸続きで,大陸と同様な旧石器文化が展開していたが,沖積世には列島となって,縄文(じょうもん)文化と呼ばれる独自の新石器文化に移行した(縄文時代)。前3−前4世紀ころに,金属器の併用と水稲耕作とを特徴とする弥生(やよい)文化が西日本に起こって東日本へ波及すると(弥生時代),穀物蓄積や灌漑(かんがい)用水統制などが原因となって階級が分化し,各地に司祭者を王とする小国家が成立した。それらはやがて邪馬台(やまたい)国のような地方国家に成長したが,3世紀後半から豪族の連合政権である大和政権が日本統一を始めつつ,4世紀後半から南朝鮮の加羅諸国との外交関係もあった。新たな支配者の権威の象徴として古墳が各地に築造され,大陸や朝鮮から産業技術や漢字が取り入れられて古墳文化が成立した(古墳時代)。6世紀末に仏教が伝来し,7世紀前半の飛鳥(あすか)時代には日本最初の仏教文化が起こった。大和朝廷は隋・唐の東方進出に圧迫されて国政改革の必要を生じ,7世紀後半には大化改新壬申(じんしん)の乱を経て,中国の制度をまね,天皇を政治的・宗教的中心とする中央集権の律令国家が形成された。8−9世紀の奈良時代平安時代初期の文化は大陸文化の影響が顕著で,その傾向は以後も長く続いたが,平安初期には仮名も作られ,中期以後は独自の美的感覚が京都の朝廷貴族の間に生まれて国風文化と呼ばれた。政治的にも律令国家が変質して摂関政治,続いて院政が,荘園を経済的基盤として展開した。 全国各地の豪族は中央集権の衰退に伴い武士に成長,荘園の管理権を握り,12世紀末には源頼朝が鎌倉に幕府を開いた。鎌倉幕府は13世紀に承久(じょうきゅう)の乱文永・弘安の役で京都朝廷をしのぐ実力を示したが,荘園領主や在地領主を把握(はあく)しきれず,14世紀前半に倒れた。鎌倉時代には奈良・平安以来の仏教をうけて今日の日本仏教の諸宗派が発達した。南北朝時代の動乱を経て,14世紀の中ごろ京都に足利氏の室町幕府が開かれた。この室町時代には守護は領主化して守護大名に成長し,公家武家の文化が融合して東山文化が栄えた。しかし応仁・文明の乱後,守護大名を打倒した戦国大名が各地に割拠する戦国時代となり,古代貴族は没落し幕府権力は衰退した。16世紀中ごろキリスト教と鉄砲が伝わり,キリスト教は宣教師の精力的な布教で浸透,鉄砲は戦国大名の戦術・築城法に決定的な影響を与えた。この戦乱の中から覇権を握った織田信長,次いで豊臣秀吉が天下を統一,太閤(たいこう)検地によって新しい徴税体系と農村の支配体制が確立し,刀狩によって兵農分離が行われた。織豊政権のもとで華麗な安土桃山時代の文化が生まれた。 戦国大名の最後の覇者徳川家康は農村収奪の上に統一国家を再建,江戸幕府を開いた。幕府は幕藩体制のもとに士農工商の身分を固定し,キリスト教禁止を口実に鎖国を行い,のちには儒教的教化も利用しつつ全国支配を強化した。江戸時代の太平の永続は交通・商工業の躍進,町人の台頭,貨幣経済の発展,多数の都市の出現をもたらし,江戸と大坂を中心に元禄文化文化文政時代の文化が栄えた。しかし,経済の実権を握る町人の力は,一方で武士の権威を失墜させ,農民の窮乏化とたび重なる災害は百姓一揆(いっき)を頻発(ひんぱつ)させ,幕藩体制は内部から崩壊し始めた。北方には18世紀半ばからロシアが南下してくるが,幕府は蝦夷地(えぞち)を19世紀初めまでに直轄地として内国に編入した。19世紀中期以降は欧米列強が東洋に進出して日本に開国を迫り,下級武士による尊王攘夷(じょうい)運動倒幕運動が激化して,ついに260余年にわたる江戸幕府は倒れ,明治維新を迎える。 1868年の王政復古によって成立した明治政府は京都朝廷の天皇を頂点とする公家と諸侯,西南雄藩の下級武士を中心とする合体政権であった。彼らは戊辰(ぼしん)戦争で旧幕府勢力を打破し,首都を江戸に移して東京と改め,版籍奉還廃藩置県により中央集権体制を強化した。この間,17世紀以来薩摩藩の支配下で,日清両属の状態にあった琉球を〈琉球処分〉により沖縄県として統合し,また蝦夷地を北海道と改称してアイヌの同化政策をすすめた。こうして政府は文明開化殖産興業政策を推進し,軍隊・警察をはじめ電信,鉄道,各種工場(官営工業)など官営事業を開始した。1873年の地租改正条例は私的土地所有権の確認と同時に政府の財政的基礎を形成する契機となった。1877年の西南戦争を最後に明治初年以来の不平士族の反乱は鎮圧された。同時に自由民権運動が全国に展開,政府も1881年,10年後に国会を開くという詔書を発布した。政府の憲法制定準備はひそかに進行したのち,1889年の大日本帝国憲法発布,1890年の国会開設により天皇制の支配体制は完成した。日清戦争の結果,日本は台湾を領有し,またその賠償金を基礎に金本位制度を樹立して,資本主義経済体制を整えた。朝鮮・満州をめぐるロシアとの対立が深まり,日露戦争によって日本の朝鮮・南満州に対する支配権を確立,1910年日韓併合を強行した。国内における資本主義の発展に伴い,階級対立は深まり,社会主義思想も広まったが,政府は大逆事件などによって社会主義思想を弾圧した。しかし,1913年憲政擁護運動で民衆は初めて内閣を倒した。以後〈大正デモクラシー〉のなかで民主主義思想は広まり普通選挙,女子参政権などの要求が,労働者の要求と結びついて展開した。米騒動は,民衆の経済的要求が政治行動となった画期的事件であった。 第1次大戦に際し日本は二十一ヵ条要求を中国につきつけ,こののち,中国問題と軍備縮小問題をめぐって英,米との対立は決定的となった。1927年の金融恐慌から大恐慌にかけて(昭和恐慌),日本資本主義の矛盾は最大限に露呈し,同時に中国への帝国主義武力侵略が開始された。1931年満州事変により,日本の国際的孤立は深まり,同時に共産主義・社会主義思想や労働者・農民の運動に対する弾圧は治安維持法によって強化された。五・一五事件二・二六事件を通じてファシズム体制は強まり,1936年日独防共協定(翌年,日独伊防共協定)によって日本は反共戦線へ荷担した。1937年日中戦争の開始により,日本の戦争体制は決定的となり,あらゆる面で統制が強化され,国家総動員法はその支柱となった。1940年日独伊三国同盟,1941年日ソ中立条約を経て同年12月8日太平洋戦争に突入した。日本は緒戦の勝利にもかかわらず,本格的な反攻が始まると後退を続け,沖縄の戦,本土空襲,広島・長崎への原子爆弾投下により壊滅的な打撃を受け,ソ連が参戦するに及んで1945年8月ポツダム宣言を受諾した。1946年日本国憲法の公布によって戦争放棄,基本的人権の尊重の原則が確立され,民主主義国家として再出発することとなった。〔戦後の歩みから現在へ〕 1945年8月15日日本は降伏し,太平洋戦争は終結した。以後のいわゆる戦後史は,日本の再建と発展に決定的な影響力をもつ米国の対日政策と深くかかわり,おおむね以下の各期に区分してとらえることができる。 第1期(1945年―1947年)。日本は降伏と同時に連合国軍の占領下に置かれ,東京には占領軍総司令部(GHQ)が設置され,米国のマッカーサーが連合国最高司令官となった。実質的には米軍の単独占領で,占領政策も米国が単独に決定した。11ヵ国代表からなり占領政策決定機関たる極東委員会も,最高司令官の諮問機関たる対日理事会も実質的権限はなかった。統治方式は日本政府を介して行う間接統治であった。この時期には軍国主義一掃と民主主義的諸制度の制定など大変革が行われ,天皇人間宣言,極東国際軍事裁判の開廷,財閥解体,農地改革,新教育制度の施行があり,1946年11月新憲法が公布された。また平和と民主化を求める革新勢力の伸張は著しく,そのために幣原喜重郎内閣は総辞職に追いこまれた。 第2期(1947年―1954年)。この時期に入ると占領軍当局は保守勢力擁護の態度を明確化した。1947年史上最大といわれる二・一スト計画はGHQの命令で未発に終わり,以後労働運動は大きく転換した。中国大陸における蒋介石政権の相次ぐ敗退に対処するため,1948年米国陸軍長官のローヤル声明を転機として米国は日本非軍事化政策を放棄し,反共の防壁として米国の傘の下での日本の自立化を進めた。1949年総選挙で民主自由党が圧倒的勝利を収め,長期にわたる保守党政権の支配が始まった。1950年朝鮮戦争を機にGHQはレッドパージをもって革新勢力を弾圧,共産党を事実上非合法化した。他方,米国の日本再軍備化方針により警察予備隊が設置された。また朝鮮戦争激化に伴い日本は米軍の兵站(へいたん)基地となり,いわゆる特需景気によって経済は復興した。1951年サンフランシスコ講和条約が結ばれ,1952年その発効により独立が回復された。しかしそれはソ連・中国などを除いたいわゆる片面講和であり,また同時に調印された日米安全保障条約により米軍は引き続き駐留することとなった。次いで中華民国(台湾)と日華平和条約が締結され,いわゆるサンフランシスコ体制が確立した。講和条約締結期から片面講和・基地反対をめぐり平和運動や労働運動が高まり,その情勢の中で講和条約発効直後の1952年メーデー事件が起きた。 第3期(1954年―1960年)。1954年日米相互防衛援助協定(MSA協定)が締結され,日本の再軍備化は進み,自衛隊が生まれた。1955年保守合同による自由民主党の成立と,左右両派の統一による日本社会党の成立によってできた保守対革新の二大政党制に移行した(55年体制)。この時期に自民党は〈憲法の自主的改正〉を唱え,憲法調査会を1956年発足させている。経済面では外資の大量流入もあっていわゆる神武景気が起こり,後の所得倍増政策の素地を作った。一方,破防法・教育2法制定に対する反対運動,本土・沖縄における基地強化反対運動,ビキニ水爆実験に端を発した原水爆禁止運動が全国的に広まった。1956年日ソ国交が回復され,引き続き国連加盟が実現,IMFや国際復興開発銀行(世界銀行)にも加入し,国際社会への復帰が実現した。1958年に始まった安保条約改定交渉は大きく国内をゆるがす問題となり,全国的な安保反対運動安保闘争)が展開された。しかし政府は1960年新安保条約を成立させ,日本の政治体制は新しい段階に入った。一方,この運動のなかで市民運動という新たな政治参加の形態が定着しはじめた。 第4期(1960年―1970年)。この時期は米ソ両大国の冷戦状態から平和共存体制への転換が国際的な背景となっている。ケネディ政権の出現により米国の対日政策は手直しされ,両国の結合が強められた。日本はアジアにおける地位の回復をめざし,東南アジア諸国への進出も顕著となったが,それは1965年の日韓条約成立によりほぼ完成された。独占資本の地歩は強化され,日本経済の国際的地位は高められ,海外進出が急速に伸びた。1964年のOECD加盟,東南アジア開発閣僚会議提唱,1965年のアジア開発銀行設立提唱,1966年のアジア太平洋閣僚会議開催など一連の動きがその現れであった。しかし1960年代の経済躍進は,ベトナム戦争に伴う特需に大きく起因していることからも明らかなように,対米依存の傾向が強い。この間日韓条約阻止闘争の失敗により革新勢力の運動は転機を迎えた。一方では組織分裂が起こり,他方では軍事基地撤去・沖縄復帰運動や青年・学生の学園改革・反戦運動など反体制運動が盛んになった。1965年以後の産業・貿易の驚異的な発展は国際経済における日本の地位を不動のものとした。また日米パートナーシップのスローガンのもとに,政治的にもいわゆる日本の自主・自立化が強力に進められた。 第5期(1970年―1989年)。1971年のドル・ショック,1973年の石油危機,さらに生産の大規模化と都市化による公害等により高度経済成長は終わった。1970年代の大幅な財政支出がもたらした財政危機は深刻であり,国債の累積による長期債務残高は一般会計規模の2倍を超えた。政府は1981年臨時行政調査会を設置し,財政再建・行政改革に取り組み始めた。政権は1980年,1986年と衆参同日選挙で大勝した自民党が担当しつづけ,電電公社や国鉄の民営化を実施した。これは1980年代に進んだ労働組合の再編(1989年〈連合〉結成など)にも大きな影響を与えた。1980年代後半のリクルート事件,大型消費税の導入などによって政治不信は拡大し,1989年には再び多党化,参議院では与野党が逆転し,与野党伯仲の状況が生まれた。 第6期(1990年―)。1980年代末−1990年代初めの東欧革命・ソ連解体による冷戦体制の崩壊は全世界に大きな影響を与えた。そのような状況下で1992年PKO協力法成立により,国連の枠組みの下で自衛隊がカンボジアに出動し,いわば戦後初の海外派兵となった。1993年夏の衆院選の結果,自民党が過半数を割って非自民の連立政権が誕生し,ここに〈55年体制〉は崩壊した。この時の細川護煕内閣により小選挙区比例代表並立制が導入された。1994年には自民党・社会党・新党さきがけによる連立政権で村山社会党内閣が成立し,村山は社会党の基本政策であった安保廃棄・自衛隊違憲などを放棄した。この間に多党化のなかで政党再編がすすみ,新進党,民主党が発足し,社会党は社会民主党と改称。1996年秋の衆院選では自民党がほぼ半数を獲得した。1980年代後半以降,外交・軍事面では,ひきつづき米国との連携を強め西側諸国の一員としての外交政策を推進してきたが,ロシアとの北方領土問題,米国・EU諸国との輸出増大による経済摩擦,東南アジア諸国連合との協調,沖縄基地問題など問題は多く残されている。また,民主化が進む周辺アジア諸国の人びとから〈戦後補償〉の要求が国家レベルとは別に提起され,日本および日本国民のあり方が問われている。国内的には,外交とも絡む経済面での〈規制緩和〉問題が一貫して提起されているが,高齢化社会へ向けての福祉行政の充実,原発事故等の公害・自然破壊・環境破壊の防止,過疎・過密,地価高騰などの都市問題と地域振興,高度情報社会に対応した産業再編,農産物の輸入自由化に対応する農業対策,これらの施策を実行するための行財政改革や政党の政治倫理の確立等々,問題は山積している。長期に及ぶ不況の克服や切迫した金融再編を緊急の課題として抱えつつ,これらの問題に対応する過程で,1999年に小渕恵三内閣は,ガイドライン(日米防衛協力のための指針)関連法,国旗国歌法を成立させるなど,国論を二分するテーマを強引に押し通す手法を取った。また,2001年には中央省庁等改革基本法が施行され,内閣府の発足,財務省(旧大蔵省)と金融庁の分離など,中央行政機関の変革がなされた。こうしてグローバリゼーションが進むなかで,21世紀の日本の進路が問われている。2001年に登場した小泉純一郎内閣は〈聖域なき構造改革〉を唱え,また2002年には〈日朝平壌宣言〉により日朝国交回復交渉に着手する一方,米国での〈9.11事件〉以後,2001年〈テロ対策特別措置法〉を制定,イラク戦争に際し2003年〈イラク復興支援特別措置法〉を成立させた。また〈有事法制〉も定め,翌年自衛隊をイラクに派遣するなど,戦後日本のコースは大きな転換点へとさしかかった。2005年,衆議院の憲法調査会報告書は9条問題などで改憲の方向を盛り込んだ。他方では,ASEAN+3(中国・日本・韓国)から展開した〈東アジア共同体〉構想が議論される状況の下で,国連安保理常任理事国への日本の立候補問題などとも関連して中国で反日デモが激化。韓国では歴史教科書問題,竹島問題,靖国参拝問題などが連動して,日韓関係も困難な局面にあり,日朝交渉は膠着状態である。2006年9月,小泉長期政権を引き継いだ安倍晋三内閣は,新憲法の制定や教育の抜本改革に取り組む姿勢を明確に打ち出した。しかし,グローバル化と構造改革による貧富格差・地方格差の拡大のなか,安倍晋三内閣,福田康夫内閣といずれも支持率低迷による在任期間一年未満の自民・公明連立政権が続いた。さらに麻生太郎内閣では,2008年の米国金融危機に端を発する世界同時不況の直撃を受けた。2009年8月の総選挙では民主党が圧勝,民主党・社民党・国民新党による連立政権が発足したが,鳩山由紀夫内閣菅直人内閣野田佳彦内閣とめまぐるしく交替。沖縄基地問題,デフレによる経済の長期停滞,さらに2011年3月東日本大震災が発生し,それに伴う福島第一原発の事故も発生。こうした事態に加えて,日中・日韓関係などの東アジア外交など,内外の重大課題に民主党政権は応えることができないまま,2012年12月野田佳彦内閣は衆議院を解散した。民主党は2012年12月の総選挙で自民党に大敗,自民・公明に政権を奪還され,自公連立による安倍晋三内閣が発足した。経済再生を最優先課題としたアノベミクスの提唱や積極的平和主義をかかげた政権公約でもある憲法改正に取り組む姿勢を鮮明にした。日本は,政治・外交のみならず経済・社会のありようも含め大きな転換点を迎えている。
→関連項目日本人日本料理

日本【にっぽん】

日本(にほん)

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改訂新版 世界大百科事典 「日本」の意味・わかりやすい解説

日本 (にほん)

本項では日本の国号の由来および日本の歴史,文化,社会の特質を巨視的に記述した。そのほかの事項については,以下に掲げる諸項目で概説してあるので,それぞれ参照されたい。
◉-自然については〈日本列島〉,住民については〈日本人〉をはじめ〈アイヌ〉〈在日朝鮮人〉など,言語については〈日本語〉をはじめ,〈琉球語〉〈アイヌ語〉〈方言〉など。
◉-歴史については,とくに〈古代社会〉〈中世社会〉〈近世社会〉〈近代社会〉の大項目をはじめ,〈先縄文時代〉〈縄文文化〉〈弥生文化〉〈古墳文化〉に続き,〈飛鳥時代〉から〈昭和時代〉に至る各時代を概説した項目。また,日本における歴史意識については〈歴史〉の項目を参照。
◉-文化の諸分野については,〈口承文芸〉〈日本文学〉〈日本美術〉〈日本建築〉〈日本音楽〉〈演劇〉〈芸能〉〈〉〈狂言〉〈歌舞伎〉〈新劇〉〈日本映画〉など。
◉-宗教については,〈宗教〉〈〉をはじめ〈神道〉〈仏教〉〈民間信仰〉〈新宗教〉など。
◉-生活文化については,衣では〈服装〉〈着物〉,食では〈食事〉〈日本料理〉,住では〈住居〉〈日本建築〉など。また,〈年中行事〉〈〉や,通過儀礼にかかわる〈出産〉〈成年〉〈婚姻〉〈葬制〉などの項目も参照。
◉-法制については,〈古代法〉〈中世法〉〈近世法〉の項目をはじめ,〈法制史〉の項目中〈日本の近代以降の法制度〉の章などを参照。ほかに〈裁判〉〈法意識〉〈権利意識〉などの項目もあわせて参照。
◉-以下は主として近現代に限定して主要項目を案内する。政治については,〈政治〉の項目では〈日本の政治〉の章,〈政治意識〉の項目では〈日本の政治意識〉の章,〈政党〉の項目では〈日本〉の章などの見出しをとくに立てた。そのほか〈天皇〉〈天皇制〉および〈昭和天皇〉などの項目を参照。近現代の政治制度については,〈日本国憲法〉〈大日本帝国憲法〉をはじめ,〈議会〉の項目中の〈日本の議会〉の章,〈国会〉〈帝国議会〉〈内閣〉の項目,〈官僚制〉の項目中の〈日本の官僚制〉の章,〈公務員〉〈官吏〉,〈裁判所〉などの項目。ほかに〈地方自治〉〈地方分権〉〈圧力団体〉などの項目も参照されたい。 さらに近現代史の節目となる〈明治維新〉〈自由民権〉〈大正デモクラシー〉〈社会主義〉〈ファシズム〉〈国家総動員〉〈日中戦争〉〈太平洋戦争〉などの項目も参照。
◉-軍事については,〈軍制〉の項目をはじめ,〈戦争の放棄〉〈自衛隊〉〈日米安全保障条約〉や,〈陸軍〉〈海軍〉〈統帥権〉などを参照。
◉-経済については,〈日本資本主義〉をはじめ,〈産業革命〉〈恐慌〉〈統制経済〉〈財閥解体〉〈農地改革〉〈高度経済成長〉〈〉〈物価〉などの項目を参照。ほかに,〈財閥〉〈企業グループ〉〈日本的経営〉,〈予算〉〈租税〉,〈金融機関〉〈銀行〉〈証券市場〉〈貯蓄〉,〈貿易〉など,および各産業部門名の項目も参照。
◉-交通,通信については,〈〉〈道路〉〈輸送〉〈水運〉〈海運業〉〈鉄道〉〈航空〉〈郵便〉〈通信〉などを参照。
◉-日本社会の特質については,〈日本社会論〉〈〉〈家族制度〉〈〉および〈被差別部落〉などを参照。教育については,〈学校〉の項目中の〈日本の学校〉の章,〈読み書きそろばん〉の項目など。労働問題,社会福祉などについては,〈労働組合〉〈労働運動〉,〈社会福祉〉〈社会保険〉〈慈善事業〉などの項目を参照。また,マスコミについては,〈新聞〉〈出版〉〈放送〉〈広告〉〈言論統制〉などの項目を参照。

 なお,現代の著しい社会問題については,〈高齢化社会〉〈公害〉〈都市問題〉〈土地問題〉〈住宅問題〉などの項目を参照されたい。

日本では大和政権による統一以来,自国をヤマトと称していたようであるが,中国や朝鮮では古くから日本を倭(わ)と呼んできた。《前漢書》《三国志》《後漢書》《宋書》《隋書》など中国の歴史書や,石上(いそのかみ)神宮の七支刀の銘,高句麗の広開土王の碑文も,みな倭,倭国,倭人,倭王,倭賊などと記している。そこで大和政権の代表者も,中国と交渉するときには,5世紀の〈倭の五王〉のように,国書に〈倭国王〉と記するようになった。しかし中国との国交が120年ほど中絶したのち,7世紀初めに再開されたときには,《隋書》に〈日出処天子〉,《日本書紀》に〈東天皇〉とあって,倭と自称することを避けるようになっていたらしい。中国側でも《旧唐書(くとうじよ)》の東夷伝に至って初めて〈倭国〉と〈日本国〉とを併記し,〈日本国は倭国の別種なり。其の国,日の辺に在るを以ての故に,日本を以て名と為す〉とか,〈或いは曰く,倭国自ら其の名の雅ならざるを悪(にく)み,改めて日本と為す〉とか,〈或いは曰く,日本は旧(もと)小国,倭国の地を併す〉とか,倭から日本に変わった理由を紹介している。

 この7世紀には,遣隋使に続いて遣唐使がしばしば派遣されているが,いつから倭に代えて日本を国号とすることにしたのかは,〈日出処〉が〈日本〉に転化していったことはまず確かだとしても,実は明らかでない。遣隋使や遣唐使のそのつどの交渉について,かなり詳しく記述している《日本書紀》も,8世紀になって日本という国号が確立したのちの書物であり,その中に使われている原資料にあったかもしれない倭の字は,国号に関するかぎりすべて根気よく日本と改められている。そこで《日本書紀》以外に文献を求めると,《海外国記》の逸文に,664年(天智3),大宰府に来た唐の使人に与えた書には〈日本鎮西筑紫大将軍牒〉とあったとある。だがこの《海外国記》も733年(天平5)に書かれているから,倭を日本と改めている可能性がある。結局確かなのは,702年(大宝2)に32年ぶりで唐を訪れた遣唐使が,唐側では〈大倭国〉の使人として扱ったのに対して,〈日本国使〉と主張したという《続日本紀》の記述であり,《旧唐書》東夷伝の記事も,この当時の日本側の説明に基づくものと思われる。

 この日本が,今日のニホン,あるいはニッポンのどちらに近い発音で読まれたか,または当時の漢音でほぼジッポンと読まれたか否かも,まだ明らかでない。しかし日本という国号は,中国や朝鮮ではもちろん,はじめは日本の国内でも音読されていたようであり,ヒノモトという日本に対応する訓読も,《万葉集》では〈ヒノモトのヤマト〉というように,古くからの国号であるヤマトにかかる枕詞として用いらるにとどまり,これがヤマトと並ぶ日本語風の国号として独立するのは平安時代以後である。中世に中国を通じて日本をヨーロッパに紹介したマルコ・ポーロの《東方見聞録》では,日本国がZipangu,Jipanguなどと書かれているが,その後ヨーロッパに広まったJapan,Japon,Japãoなどの称については,日本に対する中国の華北音のjih penに基づくとする説と,華南音のyat punに基づくとする説とがある。中世末の日本に渡来したヨーロッパ人たちは,ロドリゲスの《日本大文典》や《日葡辞書》に,当時の日本人が日本をNifon,Nipponの両様に読んでいたことを記録している。近代では日本の読み方を統一しようという動きがあり,1934年の文部省臨時国語調査会では,ニッポンを正式呼称とする案が議決されたが,法律制定には至らなかった。なお正式な国号は,明治憲法では〈大日本帝国〉であったが,現行憲法では〈日本国〉である。
大和(やまと) →
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日本列島の大部分の地域では,気候が温暖で降雨量が多く,夏の湿度が高い。小河川がいたるところに発達し,山岳地帯は森林で覆われている。このような条件は,おそらく,大規模な治水事業を伴わない農業,ことに土地生産性の高い労働集約型の農業に有利であろう。現に日本では早くから,水田耕作が行われ,農地を私有する農家のムラが発達した。この状況は,多くの点で西ヨーロッパのそれに似ている。ナイル川流域や,ガンガー(ガンジス)川流域,または黄河流域とは,自然的条件も異なり,農業の形態も異なる。

 また豊富な森林,湿気,頻発する地震などの諸条件は,この島国での木造建築の発達に貢献したかもしれない。千数百年の歴史を通じて,日本では,住宅も記念碑的建築(宮殿,寺院,城塞など)も,すべて木造であり,石造または煉互造または,土製(土蔵の例外はあるが)の建物は,ほとんどまったくなかった。木造家屋は,地震に強く,湿気に対しては風通しがよい。しかし木造建築をある程度以上に大きくすることは困難である(たとえば中国には高層の仏塔を見るが,日本の木造五重塔には,それほど高いものがない)。美的には,林の中の小型木造家屋は,自然的環境との鋭い対立よりも,むしろ調和的関係を示唆している。

 アジア大陸の太平洋側に接する日本列島の位置が,日本の歴史に与えた影響は計り知れない。海に隔てられた大陸は,そこからの大規模な軍事的攻撃を困難にするのに十分なほど遠く,そこから高度の文明を輸入するためには障害とならぬ程度に近かった。日本は,政治的に中国に併合されず,しかも中国の文化を徹底的に摂取して消化することができたのである。中国から直接に,または朝鮮半島を経て輸入された文化は,生産技術(金属,紙など),政治制度,文字,高度に洗練された信仰体系(仏教,儒教,道教)などである。それよりも早く,あるいは同時に南方海洋諸民族の文化の影響が及んだことも確かである。しかし北方には日本に大きな影響を及ぼしうるような文化がなく,太平洋は日本の東側をあらゆる交通から遮断していた。要するに地理的位置は,ヨーロッパ人の立場からみての〈極東〉という言葉にも表れているように,日本を孤立させると同時に--日本側から大陸に与えた文化的影響はほとんどまったくない--,外部から煩わされることが少なく,中国文明の枠内で,独特の文化を育てることを可能にした,といえるであろう。

 19世紀になって海洋がもはや決定的な障壁ではなくなると,日本の軍事的立場は弱くなった。大陸では帝政ロシアの,太平洋をはさんではアメリカの,潜在的な軍事的脅威に対抗手段をとらなければならなくなったからである。20世紀の日本は,まず帝政ロシアの影響力を極東から排除することに成功し,代わって中国を支配しようとして失敗し,最後に目的の明瞭でない戦争をアメリカにしかけて失敗した。
東アジア

おそくとも西暦の紀元前後から,日本列島の大部分には日本語を話す単一の民族が住んでいた。北部にアイヌがあり,その後朝鮮半島からの帰化人(渡来人)の定着があったが,大規模な人種の混合は起こらずに今日に至る。人種と言語の単一性は,日本の歴史の特徴の一つである。

 このような条件は,国家の文化的統一を,さらには政治的統一を容易にしたにちがいない。中央集権的な古代国家は,5世紀から12世紀まで続く。その後に権力の分散傾向が現れたが(13~16世紀),16世紀後半からは再び権力集中の過程が始まり,2段階を経て今日に及ぶ。すなわち江戸幕府による幕藩体制と明治政府による官僚国家である。

 政治的中央集権には,文化的中央集権が伴う。文化は中央から地方へ向かって伝播(でんぱ)し,地方から中央へ向かうことは少ない。平安朝の宮廷文化は,しだいに地方へ拡散してゆく(勅撰集の美学,連歌,浄土教,平安仏の様式など)。9世紀に,地方官としての任地土佐から京へ戻る船旅の途中で,紀貫之は任地での経験を回想せず,道中の地方文化を観察せず,ただひたすら京都の生活のことを考えていた(《土佐日記》)。13世紀初めの将軍源実朝は,鎌倉と関東の地方文化になんらの関心を示さず,文化的にはまったく京都の貴族社会にあこがれていた。また,たとえば世阿弥の劇団は,その曲の題材を平安朝文学にとることが多く,主として京都を中心として活動していた。その地方巡業は,中央の能を地方へもたらしたので,地方演芸を中央へもたらしたのではない。

 文化的中央は,17世紀から京都に大坂を加え,18世紀後半からはしだいに江戸に移る。19世紀の前半に《東海道中膝栗毛》を書いた十返舎一九にとっては,江戸の言葉が唯一の文化的言語であり,各地方の方言は滑稽の種でしかなかった。この傾向は,明治以後の社会では,官尊民卑の風潮と絡んで,第2次大戦後の今日では,大都会を中心とする大衆文化と関連して,いよいよ強まった。現在,たとえば地方の町が目抜きの通りを称して〈○町銀座〉というのは,文化的な中央志向の表れである。

 日本語は多くの点で朝鮮語に似ているが,その起源はわからない。中国語とは明らかに別の系統に属する。しかし中国語から文字を借りたばかりでなく(表意文字としての漢字,日本で漢字を簡略化した表音文字としての仮名),多数の単語(ことに抽象的概念)をとり入れ,若干の文章法上の特徴までも消化し,その表現力を豊富にしてきた。その表現力の広がりは,何よりも必要に応じて表現をあいまいにし,含みをもたせることもできるし(ことに抒情的な文学において),また必要ならば,綿密で明瞭な叙述をすることもできる(たとえば歴史,法令,博物誌など)選択の幅に表れている。〈日本語はあいまいである〉というのは正しくない。そうではなくて,日本語はあいまいに用いることもできるし,明瞭に用いることもできるのである。また漢字の組合せによる造語能力は大きく,ことに19世紀末,近代西洋語の語彙を翻訳するのに,きわめて有効であった。このような日本語の表現力が日本文化の発達に役だったことはいうまでもない(その美的洗練,組織能力,適応性など)。

仏教や儒教が大陸から導入される前の日本の民間信仰の体系は,広い意味で〈神道〉と呼ばれる。その内容は,のちに宮廷を中心として組織された〈神道〉とは,大いに異なり,相互に関連するところの少ないアニミズム,祖先崇拝,シャマニズムの要素を含む。そこでは,あらゆるものに魂(精霊,アニマ)があり,その魂が,本居宣長も指摘したように(《古事記伝》),カミとされる。山,樹木,川などの自然の対象もカミであり,家屋,かまど,什器などの人工の品物もカミであり,死者の魂もまたカミである。カミは地域によって違い,その系譜や上下関係の秩序は明らかでない(それを明らかにし,諸地域のカミを組織化しようとしたのは,《古事記》以後の宮廷を中心とした神道である)。

 生きた人間の住む世界へのカミの影響は,善悪二面があり,保護でもありうるが(たとえば農産物の豊かな収穫),災害でもありうる(干ばつ,疾病)。死んだ祖先の魂は,カミの中でもことに丁重に祭られ,そのことによって,家族への保護が期待される。カミのいる世界は,人の住む世界と別のところにはない。ムラの境の山は,それ自身がカミであり,死んだムラ人の魂も,その山の上にとどまる。他方,死者が地下の暗いところ,ヨミの国へ往くとされる場合にも,そのヨミの国と人の住むところの間に,決定的な断絶があるわけではない。一般にカミの世界と人の世界とは,同一であるか,前者が後者の延長であり,相互の交通は,しばしば困難とされるが,不可能とはされない。困難を克服し,カミと人との意思疎通を円滑にするためには,各種の儀式があり,儀式はしばしば神官(神主)やシャーマン(巫)を中心として行われる。

 このような信仰体系の基礎の上に成立した世界観は,唯一究極の現実を日常的な現世とし,それを超える第二の現実を認めない。彼岸は,此岸に影響するかぎりで,いわば此岸の遠い延長として認められるにすぎない。日常的世界に超越する権威はなく,その権威との関連において善と悪,正義と不正義が定義されるということもない。別の言葉でいえば,この世界観の現世主義は,超越的価値の不在と離れがたく結びついている。

 現世=日常的世界は具体的には共同体である。ムラ共同体の中に住む人にとっての現実はムラであり,ムラ以外ではない。ムラ人は,ムラにとって善いことをカミに願い(たとえば降雨),ムラにとって悪いことが起こらぬように願う(たとえば疫病)。しかし何がムラにとって善く,何が悪いかは,カミが決めるのではなく,ムラ人が決めるのである。カミは保護し,脅迫する。しかし何かを定義し,何かを命令することは少ない。これは,たとえばユダヤ教,キリスト教の神が,善悪を定義し,ある種の行為を命令するのと,まったく対照的である。日本の土着世界観において,価値の根拠はムラに内在し,けっしてムラを超越しない。

 このような世界観は,その後の仏教や儒教によって,どういう影響をうけただろうか。仏教は神道と融合した。少なくとも民衆の水準では,奈良朝から平安朝まで,危機に臨んだ日本人は,ほとんどつねにカミとホトケの双方に助けを求めていた(たとえば《日本霊異記》から《沙石集》に至る仏教説話集が語る無数の挿話)。仏教は〈現世利益(げんせりやく)〉を提供したかぎりで,広く受け入れられたというべきであろう。例外は,鎌倉仏教,ことに浄土真宗である。その信徒は,穢土(えど)=此岸と浄土=彼岸とを鋭く区別し,前者(現世)における利益のためではなく,後者(後生)における個人の救いのために,阿弥陀を信仰した。そこで仏教は,内面化されると同時に(信仰は内面の問題である),超越的な価値の根拠となった(阿弥陀は共同体を超える)。したがって,日本における唯一の宗教戦争(一向一揆)も彼らによって戦われたのである。

 しかしそれは例外である。なぜならそのとき以来日本の大衆の世界観に超越的な動機が加わって今日に至ったのではなく,江戸時代以降,仏教の寺院の組織が権力と結びつくとともに,超越的な権威への信仰はしだいに失われいったからである。江戸時代は文化を世俗化した。すると仏教以前からの世界観の構造が,仏教によって根本的に変わったのではないということが明らかになった。神仏融合は進展する。あまりに進展したので,政治的な理由から国家神道をつくろうとした明治政府が,その前提として神仏分離政策をとらざるをえなかったほどである。かくして今日から振り返れば,鎌倉仏教の影響が深かった時代こそが,例外のようにみえる。日本の土着の世界観を仏教が変えたのではなくて,日本の土着の世界観が仏教を変えたのである。

 儒教は,仏教のように広範な大衆に影響を与えたわけではない。江戸時代の武士支配層は,たしかに儒教--より正確には宋学の体系--を,彼ら自身の価値や習慣を合理化するための知的枠組みとして採用した。その価値や習慣は,必ずしも宋学の説く倫理的価値や形而上学的秩序と一致するものではなかった。矛盾が明らかなときには,彼らは彼らの立場を固執する。彼らの立場は,戦国武士団の理想であり,仲間の団結と主君への忠誠である。彼らにとっては,その所属する共同体を超えるいかなる絶対的価値も存在しなかった。しかるに宋学の〈仁〉は,本来いかなる具体的な共同体にも超越する宇宙的秩序(天,理),および絶対的な歴史的権威(聖人)によって保証される価値である。主君が仁を体現せず,天命を保たなければ,優先するのは仁であり,天命であって,主君ではない。江戸時代の武士支配層と,その御用学者は,まさに宋学のその面を,すなわち土着世界観と矛盾する価値の超越性を無視した。

 アニミズム,あるいはむしろアニミズムと関連して成立した日本の世界観は,仏教および儒教の影響のもとでも,なお生き延びて今日に及ぶ。

 国家のために太平洋の戦に死んだ多くの日本人があり,会社のために犯罪を犯したり,責任を負って自殺する日本人もある。そういうことは,もちろん,いかなる文化の中でも起こりうるだろう。日本の文化に特徴的なのは,そういう青年にとって国家を批判する原理,そういう会社員にとって会社を超える価値が,原則として存在しなかったということである。〈私が死んでも会社は永遠だ〉とある会社員は言った。イスラム教徒ならば,永遠なのは,会社ではなくて,コーランだと言ったことであろう。

現世主義は,また現在主義である。現世すなわち日常的現実は,現に目の前にあるものの世界である。過去はもはやなく,未来はまだない。あるものの世界は,現在である。現在は次々に現れて,次々に去る,その現在の継起(連続)が時間である。この時間には始めがなく,終りがない。したがって中点がなく,その時間を構造化することはできない。あるいは,無限の直線上のどの点も,すなわちいつの日の現在も中心点とみなすことができる。時間の流れの中で,真に現実的であり,真に重要なのは現在だということになるだろう。

 《古事記》は,おそらく大陸の神話の影響のもとで〈国生み〉について語るが,それは真に宇宙と時間の始まりを意味するものではない(その意味で旧約聖書の天地創造とは異なる)。また終末論がそこに含まれぬことはいうまでもない。日本の神話の中の時間は,その最も整理された形においてさえも,現在の継起--その無限の連続であった。

 このような時間の概念は,鎖連歌にも典型的に表れている。日本人の発明したこの集団的詩作の遊戯は,13~14世紀ごろから社会の各層に流行し,ほとんど国民的芸能になった。その要点は,付句のおもしろさにあり,付句は前の句との関係で決まる。前の句よりも先に何があったか,その後に何が来るかは,ほとんどまったく関係しない。前句と付句と併せての現在が,過去からも未来からも切り離され,それだけで完結した世界をつくる。そういう現在が鎖のように限りなく続いてゆくのである。

 またたとえば,尺八や三味線の音楽も,多くの人々が指摘してきたように,起承転結の全体の構造によって訴えるよりは,与えられた現在の〈間(ま)〉や複雑な音色によって勝負する。現在の感覚的内容がつくり出す迫力は,過去-現在-未来の関連する構造(有限の演奏時間の知的構造)の全体から独立して,その場で発揮されるのである。

 日常生活においても,今日なお多くの日本人が好む表現は,不愉快な〈過去を水に流す〉ことである。それは一面で無責任の制度化を意味するとともに,他面では小集団内部での調和を保つために大いに役だちうる。個人的水準においてしかり,また大きな社会的水準においてもしかり。たとえば15年戦争の〈戦争犯罪〉に対する戦後日本社会の態度は,よくそれを示す。アウシュビッツの責任は,ドイツ人自身により法廷で追及された。南京虐殺の責任を追及する裁判は,日本人自身によって一度も行われなかった。もしそれが行われていたら,戦後日本には鋭く苦い対立が長く残ったかもしれない。しかしそれが行われなかったことが,責任をあいまいにし,したがって戦争の経験の意味をあいまいにしたのである。

 未来について,典型的な態度は〈明日は明日の風が吹く〉である。それは,未来が予測不可能であるということに対する一種の楽天的なあきらめである,といってよいだろう。それがあきらめであるのは,予測できない未来と不安感とは結びつかざるをえないからである。しかし楽天的でありうるのは,未来を忘れて現在を楽しむことができるからである。江戸の町人は,明日の大火を心配するよりも,今日の繁栄を楽しんでいたにちがいないし,東京の市民は,いつ起こるかわからぬ地震に備えるよりも,現在の身辺の雑事にまぎれていたにちがいない。たしかに明治政府には富国強兵の長期的な目標があった。しかしそれさえも,西洋帝国主義の圧倒的な軍事力が目の前に現れたのちでの,緊急の反応であったと考えることができる。のちの東条英機の政府に至っては,真珠湾を攻撃したときにさえも,その後で何をするのかというなんらの具体的な計画をもっていなかった。〈明日は明日の風が吹く〉。しかしその風が日本側に有利に吹かなかったことは,いうまでもない。

 現在の経験は,まず感覚を通して与えられ,感覚的経験は,つねに特定の時点(=現在)において生じるから,このような現在主義の一面は,ことに美味領域において,対象に対する感覚的洗練へ向かうだろう。日本の芸術的表現からその例を引くことは容易である。たとえば太棹の三味線のばちのさえは,その瞬間において複雑微妙を極め,恨みや悲しみや喜びを反映する人の声の質の千変万化に,かぎりなく近づく。これは西洋の鍵盤楽器によるフーガの構造的な音楽と比べれば,明らかに感覚的=情緒的である。またたとえば桃山時代の楽の茶碗,長次郎や光悦のそれの表面の性質と色調は,絶妙の変化とつり合いをそれ自身のうちに内包する。その複雑な温かさは,宋磁の冷たい輝きと端正な形から,はるかに遠い。いわんやマイセンの磁器の純白の表面とはまったく異なる。琳派の画面が,線と面と色彩のあらゆる絵画的要素を動員して,感覚的喜びを二次元の空間に封じ込めたことは,いうまでもない。代表的な歌舞伎芝居(たとえば《義経千本桜》)の話の筋は荒唐無稽であり,劇の全体はなんらの知的内容を含まない。しかし各場面は,感情的緊張を盛り上げるために巧みに設計され,多様な視覚的効果に豊富である。ゆえにシェークスピアの一幕のみを上演するということはけっしてなく,今日の歌舞伎は一幕か二幕のみの上演を原則とする。その一幕は,前後から離れて意味をもつからであり,その意味は,感情の高揚または感覚的効果の密度を内容とするからである。

 現在主義のもう一つの面は,日常生活における一種の実際的な態度である。過去にはこだわらず,未来の計画は絶対的価値によって束縛されることもないとすれば,現在の状況には実際的な見地から敏捷に対応することができる。平安朝の猟師は,《今昔物語集》が伝えるように,旅の途中で立ち寄ったムラの娘を,猿神への犠牲から救うために,身代りとなって山へ行き,隠し持った短刀を振るって猿を生捕りにし,ムラ人に示して,〈これはカミにあらず,ただの猿にすぎない〉と宣言する。目的は娘を救うことであり,手段は合理的で,行動は敏捷果敢である。その結果は偶像破壊的で,実際的である(彼は人心を掌握して,娘と結婚し,ムラに定住する)。

 元禄時代の大坂町人は,西鶴が描いたように,カミやホトケにはこだわらず,状況判断の正確さ,適応の速さ,みずからの努力によって金をもうける。西鶴の商人たちは,自己に有利に市場を操作するのではなく,彼の意思とは独立に変化する市場の動きを見抜き,その動きをすばやく利用する。環境を変えるのではなく,自分自身を変える。この態度は,環境の変化の予測が困難であり,たとえ望んでも,環境を操作することの困難な場合に,ことに実際的であろう。第2次大戦後の日本政府は,アメリカの〈中国封込め〉政策の続くかぎり,日中関係改善のために,ほとんどなんらの働きかけもしなかった。日本の外で,日本の政策とはまったく関係なく米中接近が起こり,極東の国際的環境が変化するや,その後1年もたたぬうちに,田中角栄内閣は北京の中国政府を承認した。現在主義の実際的な一面は,個人的な水準での〈その日暮し〉の楽天主義ばかりでなく,外交政策の特徴さえも,少なくともある程度まで説明するのである。

日本の小集団の原型はムラである。ムラ人は共同で働くことがあり(労働集約的水田耕作,ことに田植と収穫),共同で季節的行事に従うことがある(神社の祭り)。彼らは相互に結婚することもある(その内部での結婚が禁忌とされた集団は,大陸と比べて日本では著しく小さい)。ムラ人にとって,ムラ共同体への所属感は,圧倒的に重要な価値であり,一般にその他のすべての価値に優先する。その意味で成員の共同体への高度の組込まれが,共同体内部の秩序の維持と,対外的団結に役だつことはいうまでもない。

 現世主義の世界観は,現世=共同体に超越する絶対的価値を認めないから,価値としての所属感に対する挑戦は起こりがたい。ムラの全体が何かの目標を追求するとき,ムラ人個人がその目標を批判し,みずから正しいと信じるところを徹底的に主張する根拠はない。個人の意見の正しさをその当人に保証する〈天命〉も,〈自然の理〉も,人格的な神の与える〈十戒〉もないからである。かくして非超越的な世界観は,集団主義を強め,逆に強い集団主義の内部においては,集団を超える絶対的価値への信仰が成立しがたいだろう。世界観,あるいはその背景としての信仰体系と,集団主義との,いずれが原因であり,いずれが結果であるかを問うことには,おそらく意味がない。日本文化の根本的な部分が,思想的には現世主義,社会的には集団主義として表現されるのである。

 ムラの内部の構造は,一方では権威主義的なタテの人間関係を軸とし,他方では生産面での協力や贈答の形式に表れているようなヨコの関係を支えとする。集団の種類によって,ある場合にはタテの関係が支配的であり(親分・子分関係,主従関係),ある場合にはヨコの関係が目だつ(若者宿,娘宿)。近代日本の企業集団の場合には,第2次大戦以前にはタテ構造,大戦後にはヨコ構造が典型的である。同様のことは家族内部の人間関係についてもいえる。すなわち大戦後の日本社会に起こった主要な変化は,集団内部の構造のタテ型からヨコ型への移行である。しかし集団所属意識の変化ではない。

 タテ型からヨコ型への移行は,集団内部での平等主義への傾向と切り離しがたい。制度的にみれば,世襲の身分制を廃止した明治維新は,平等主義への第1段階であり,男女平等を徹底した占領下の改革は,第2段階である。戦後改革は,平等主義に関するかぎり,第2段階であったから,単なる制度上の改革にとどまらず,実質的な社会的変化を伴ったにちがいない。それとは対照的に,人権と少数者の権利の尊重を要求する制度上の改革には,その方向での社会的変化が伴わなかった。なぜなら集団主義は,まさに少数者の権利の無視をその特徴の一つとするからである。集団所属感が他の価値に優先する条件のもとで,少数意見が尊重されることはない。〈みんなと違う〉ことは,それ自身が悪である。違う意見をもつムラ人に対してムラがとる典型的な態度は,第1に説得であり,第2に,説得が成功しない場合には〈村八分〉である。

 ムラ人にとって所属感が重要な価値であるためには,所属と非所属,すなわちムラ人と非ムラ人(よそ者)の区別が明瞭でなければならない。特定のムラは,特定の地域に対応し,地域の境界は明瞭であって,その地域内に住むのがムラ人,地域外に住むのがよそ者である。ムラ人の行動様式は,同じムラの人間に対する場合と,ムラの外の人間に対する場合とでまったく違う。

 ムラの外には,2種類の空間がある。近い空間は隣ムラであり,そこには同じ言語と同じ風俗習慣がある。隣ムラとの友好的な関係は,結婚(嫁取り)に典型的にみられる交換である。非友好的な関係は,各種の争い,ことに水利権または入会権の争いである。遠い空間は,そこへムラ人が出向かず,そこから旅人が来るところである。旅人は,ムラ人と同等の人間ではなく,ムラ人以上の存在であるか(カミ),以下の存在であり(乞食,下人,泥棒,遊女,芸人),しばしば以上にして同時に以下の存在である(山伏,巫女(みこ),旅の法師など)。このような事情は,基本的には,江戸時代まで変わらない。

 近代日本では,中央集権的な政治,同質的な文化,全国的市場の成立などの条件が,〈近い空間〉を拡大した。かつての隣ムラが日本全国に広がった,ということもできる。しかし江戸時代300年の鎖国に慣れた多くの日本人の意識にとって,拡大されたムラの境界は,日本の国境を超えない。ムラ人=日本人と〈外人〉=非日本人との区別は,今日なお大きな意味をもちつづけ,〈外人〉は,日本人以上か以下である。たとえば中国人,朝鮮人は,1868年(明治1)を境として,日本人以上から以下に変わった。アメリカ人は,1945年を境として,〈鬼畜〉から崇拝の対象に変わった。〈外人〉が日本人と同等の,もう一人の人間であったことはない。そのことから〈一辺倒〉が生じ,またそのことから〈外人〉との意思疎通の困難が生じる。

 集団主義の一面は,その全体の構造・枠組みを変えることが,内部のだれにとっても困難だということである。なぜなら枠組みを変えることは,少数意見の貫徹を意味し,原則としてそれを不可能にするのが,集団主義の特徴そのものだからである。不変の枠組みを前提とすれば,集団内部での個人の行為の善悪は,当人の〈心〉の問題,意図の問題に帰着するだろう。

 江戸時代の後半期に流行した石門心学の要点は,第1に,行為の評価は,その結果よりも意図によるべきこと,第2に,善意は,利己的でなく,社会から与えられた役割を果たそうとする意志として定義されること,第3に,最高の倫理的価値は,つねに善意の生じるような心的状態を培うことであった。赤穂浪士の復讐の圧倒的な人気--それは歌舞伎や映画を通じて200年以上も持続した--も,主君への忠誠という動機(家臣の役割に忠実な自己犠牲という善意),および彼らの集団の団結とかかわり,その行動の結果(私的暴力の行使による多数の犠牲者)とはかかわらない。石門心学の〈正しい心〉(善意)は,またしばしば〈誠〉(誠心誠意)と呼ばれる。明治以後の大衆は,勤王の〈至誠〉に殉じて江戸幕府を倒そうとした薩長の志士たちと,〈誠〉の旗を掲げてその志士たちを暗殺して幕藩体制を守ろうとした新撰組とを,同時に好んでいた。幕府を倒すか守るかが問題ではなく,当人の心・意図,つまるところ〈誠〉が問題である。

 集団主義とともに,この倫理的主観主義は,今日なお日本社会の中で機能している。議会で野党の議員が予算案について質問すると,大臣が〈その問題には誠心誠意対処してゆく所存でございます〉と答える。この国では,だれもその答えを冗談とは受け取らないのである。

日本社会に長く存在し,多かれ少なかれ今日の日本にもかかわる文化の基本的な特徴は,およそ以上のごとくである。しかし今日の日本社会がもつ活動的性格は--それが1960年代以降の産業の分野で著しいことはいうまでもない--,伝統的条件のみからは説明されないだろう。江戸時代の社会は,集団主義的であり,必ずしも活動的ではなかった。多くの分野においては,むしろ停滞的であったとさえいえる。維新以後の社会の活動性は,維新以後に加わった新しい条件と密接にかかわっていたにちがいない。その新しい条件は,おそらく競争原理である。

 競争が成り立つためには,当事者が同じ目標を追求すること,当事者相互の間にある程度の平等の条件が存在すること,競争が社会的秩序の中に一つの持続的要素として組み入れられるためには,目標を追求する行動に当事者の合意した規則性のあることが必要である。明治以後,さらにサンフランシスコ条約発効以後日本が国際社会に復帰してから,教育の分野での入学試験競争,産業の分野での自由市場における企業間競争は,明らかにその必要を満たす。個人間の競争を通じて訓練された労働力が産業に供給され,企業間の競争に参加すると同時に,企業内部での昇進競争を強める,というのが,その結果である。企業間競争に勝つためには,企業の能率を高めなければならず,企業の能率を高めるためには,適材適所の人員配置が必要だろうから,企業の集団主義(終身雇用,年功序列,共同体的性格)はそれ自身の内部に一種の能力主義を発達させ,そのことが個人間の競争を激しくする。かくして今日の日本社会の活動性は,単に集団主義によってではなく,まさに競争的集団主義によって特徴づけられるのである。
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日本 (にほん)

陸羯南(くがかつなん)を社長兼主筆として東京で創刊された新聞。創刊は1889年2月11日。自由民権期の政党機関紙と小新聞(こしんぶん)という二つの新聞類型が崩れていく過程で,〈政権を争ふの機関〉でも〈私利を射るの商品〉でもなく,主義のみによってたつ独立新聞として非党派,非営利の言論新聞をめざした。その掲げる主義は,〈日本の一旦亡失せる国民精神を回復し且つ之を発揚せん〉という〈国民主義〉であった。この背景には当時の新興知識人によるナショナリズム運動があった。その一つの中心が杉浦重剛,三宅雪嶺らの雑誌《日本人》であり,もう一つの中心が《日本》で,両者は人脈的にも思想的にも密接な関係があった。新聞発行を資金面で援助したのは,創刊当初には谷干城,浅野長勲,のちには近衛篤麿らであった。《日本》の売物は,陸羯南の担当する社説,三宅雪嶺や福本日南らの執筆する論説などであった。とくに条約改正問題では対外硬の立場から激しく政府を批判したため,たびたび発行禁止などの処分を受けた。また文学欄では,漢詩,短歌,俳句などの伝統的な文学に力をいれた。漢詩では国分青厓,短歌では正岡子規,俳句では河東碧梧桐,高浜虚子らが活躍し,彼らの文学運動の拠点ともなった。だが反面,三面記事や経済記事はほとんど取り扱わず,ニュースの速報性でもしだいに他紙に差をつけられていった。漢文調の難解な紙面は,少数の熱心な読者には支持されたものの,営業的にはつねに苦しかった。発行部数は日清戦争のころの最盛期でも約2万部と推定される。日露戦争後,経営はいっそう悪化し,1906年に陸羯南から伊藤欽亮に譲渡された。伊藤欽亮が紙面通俗化を図ったのに対し,三宅雪嶺,長谷川如是閑らは抗議して退社,雑誌《日本人》に移った。《日本人》は《日本》をも継承すると称し《日本及日本人》と改題された。新聞経営は伊藤欽亮によっても好転せず,1914年12月廃刊となった。
執筆者:

日本 (にほん)

シーボルトの著書。原題は《Nippon》。1832-52年に20分冊の仮綴本として13回にわたり発行配布された。独立回復後のオランダの国策に基づく援助を得て,シーボルトは日本滞在中(1823-28)に,日本の自然科学的・民族学的調査・研究を精力的に行った。動・植物のほか文献,記録,民族学的資料など,おびただしい収集資料に加えて,日本人門下生の報告資料,およびシーボルト以前にケンペルツンベリーらが日本について記載した書物も参照して,帰国後本書がまとめられた。《日本植物誌》《日本動物誌》とともに,彼の三部作をなしている。内容は,日本の自然地理学的な記述,日本商館,陸上・海上旅行,民族と国家,1826年(文政9)の江戸参府紀行,日本の歴史・考古学・芸術と学術・宗教・農業・工芸・貿易,日本の隣国と保護国,蝦夷・千島・樺太・黒竜江の情報,琉球諸島の記述等の多岐にわたり,以後の西欧人の日本研究の基礎とされた。完訳本が刊行されており,一部は《江戸参府紀行》として邦訳されている。
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日本 (にっぽん)

日本(にほん)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「日本」の意味・わかりやすい解説

日本
にほん

正式名称 日本国。
面積 37万7976.41km2
人口 1億2614万6099(2020)。
首都 東京

アジア大陸の東縁に北東から南西にわたって弧状に延びる列島の国(→日本列島)。北から北海道,本州,四国,九州と連なり,沖縄および周辺の諸島を含む。環太平洋造山帯の一部を構成し,火山が多い。河川は一般に短く急流である。気候は四季の変化に富み,夏は高温多湿で秋に台風が多い。東京の平均気温平年値は 16.3℃,降水量平年値は 1528.8mm。アイヌおよび少数の外国系の人々を除けばほとんど単一の民族構成で,日本語を話す(→日本人)。出生率は人口 1000あたり 8.0(2014)と低く,平均寿命は男性 80.5歳,女性 86.8歳(2014)で,人口高齢化が進んでいる。義務教育は 9年制で,就学率はほぼ 100%。第2次世界大戦後の 1947年に日本国憲法が施行された。議院内閣制で,衆議院参議院の 2院からなる(→両院制)。外交は国際連合中心主義を軸とするが,アメリカ合衆国と日米安全保障条約を結んでいる。鉱物資源に乏しいが,近代工業は高度に発達している。就業者の 4.2%が 1次産業に,25.2%が 2次産業に,70.6%が 3次産業に従事(2010)。石油,木材,鉄鉱石などの原材料を輸入し,機械,自動車,電気・電子機器などの製品を輸出する。主要輸入先は中国,アメリカ,中東諸国,輸出先は中国,アメリカ,アジア諸国。交通網は道路,鉄道ともきわめてよく発達。1960年代からの高度経済成長により世界有数の経済大国になったが,1990年代から長期の景気停滞期に入っている。なお,日本の呼称は対外的には「にっぽん(NIPPON)」が用いられる。(→日本史

日本
にっぽん
Nippon

P.シーボルト著。初版は 1832~54年に 20分冊してライデンで刊行された。シーボルトがオランダ東インド会社の長崎商館付き医師として滞在した間 (1823~29) に収集した資料と日記をもとに著わした著作で,A3変型判で 1400ページあまり。日本に関するヨーロッパ人の著書としては比類のない大著で,ヨーロッパでの日本研究の基盤をなしたものである。第2版は 97年シーボルト生誕 100年記念に息子らによって刊行された。縮刷本2巻で,初版の一部省略や補足があり,シーボルトの小伝が付記されている。第3版は 1930~31年にベルリンの日本学会が刊行したもので,初版の複製に2版の追加分と未刊の草稿を加え,索引をつけてある。第4版は主として初版を用い,3版本を一部加えたもので,東京の日蘭学会監修で 75年に出版された。邦訳としては,部分訳として呉秀三訳注『シーボルト江戸参府紀行』 (1928) ,全訳として岩生成一監修『シーボルト「日本」』 (78~79) がある。

日本
にっぽん

陸羯南 (くがかつなん) が 1889年2月 11日の帝国憲法発布の日に東京で創刊した政論新聞。『日本新聞』ともいう。国家主義的な中立系といわれた。谷干城,三浦梧楼らが資金的に援助し,記者には福本日南三宅雪嶺,古島一雄,池辺三山長谷川如是閑,丸山幹治,正岡子規らを集め,近代的ナショナリズムの立場から政府の欧化政策をきびしく批判,創刊後の約8年間に 30回も発行停止処分を受けた。日清戦争後は次第に経営困難となり,羯南も病に倒れ,1906年6月伊藤欽亮に譲渡された。やがて如是閑らの有力記者もこぞって退社し,政友会系の平凡な新聞に転落。 14年末,社屋の火災もあって廃刊。

日本
にっぽん

日本」のページをご覧ください。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「日本」の解説

日本
にほん

古くは倭(やまと)と称し,ほかに大八洲(おおやしま)・葦原中国(あしはらのなかつくに)・秋津島(あきづしま)の称もあった。しかし大宝公式令(くしきりょう)に,外国使臣に「明神御宇日本天皇」の語を用いると定め,702年(大宝2)の遣唐使が中国で「日本使臣」と称し,「旧唐書(くとうじょ)」東夷伝に,倭国と日本国の両伝を記しているように,8世紀初めには日本という国号が国際的に認知されていた。しかも「旧唐書」に,倭がその字を悪(にく)み,国が日の辺にあるをもって日本と改めたとあるのは,すでに隋への国書に「日出ずる処の天子」と記した思想と同じであるから,大宝令以前に「日本」と記した史料をすべて追記であるとは断定できない。国際的用語としての日本の号は,呉音でニッポン,また促音をともなわないニホンと音読されたが,国内ではヤマトとも訓読された。

日本
にほん

国民主義を掲げた明治後期の代表的新聞。1889年(明治22)2月11日,帝国憲法発布の日を期して「東京電報」を改め,陸羯南(くがかつなん)が谷干城(たてき)らの後援をえて日本新聞社から創刊。三宅雪嶺ら政教社の雑誌「日本人」とともにナショナリズムの立場から政府批判を展開。政論が中心で,三面記事も少なく小説もなかったが,正岡子規が創設した日本派俳壇の拠点となった。陸が病気になり,1906年6月「時事新報」出身の伊藤欽亮に譲渡されたが,商業紙に転換する新方針に反対して,旧来の社員20余人が退社。14年(大正3)末廃刊。最盛期の発行部数は約2万2000部。

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旺文社日本史事典 三訂版 「日本」の解説

日本
にほん

明治後期の代表的日刊新聞(1889〜1914)
1889年に陸羯南 (くがかつなん) が谷干城 (たにたてき) らの支援を得て創刊。陸のもとに三宅雪嶺・長谷川如是閑 (によぜかん) らが藩閥政治を批判しつつ,日本主義の論陣を張った。大正期に入って廃刊となる。

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世界大百科事典(旧版)内の日本の言及

【日本】より

…面積(1995年10月1日現在)=37万7829km2(歯舞諸島,色丹島,国後島,択捉島の合計5036km2を含む)人口(1995年10月1日現在)=1億2557万0246人最北端=宗谷岬―北緯45゜31′ 最南端=沖ノ鳥島―北緯20゜25′ 最東端=南鳥島―東経153゜58′ 最西端=与那国島―東経122゜56′(施政権の及ぶ範囲)本項では日本の国号の由来および日本の歴史,文化,社会の特質を巨視的に記述した。。…

【日本研究】より

…西洋における日本研究は,16世紀後半以降,キリスト教の日本への普及とともに始まり,19世紀後半から20世紀前半にかけてイギリスが,また太平洋戦争を契機としてアメリカが日本研究の中心となった。一方,ロシア・ソビエトは独自の伝統をもち,戦後はアジア諸国でも盛んになりつつある。…

【日本社会論】より

…現代の日本は,高度に産業化された先進国の一つに属している。都市化も著しく,全人口の4分の3に当たる9000万ほどの人たちが〈市〉に住んでいる。…

【日本列島】より

…日本列島は,太平洋を縁どり帯状の地域をつくる環太平洋地帯に属し,アジア大陸の東縁に分布する花綵(かさい)列島の一部を構成する。国土の主要部である本州,北海道,四国,九州は,互いに連接して日本列島の弧をつくり,全体としては南北に細長く続き,南東にふくらんだ形の島列を示す。…

【陸羯南】より

…この前後,井上毅らの知遇を得,フランスの反革命主義者J.M.deメーストルの書物を《主権原論》の題で翻訳出版する。88年政府の条約改正と欧化政策に反対して辞職,谷干城らの援助を受けて4月より《東京電報》を発刊し,同月創刊の政教社の雑誌《日本人》の〈国粋主義〉に呼応して,〈国民主義〉を唱える。この新聞は翌89年2月改組されて《日本》となるが,たまたま漏洩した大隈重信外相の条約改正案批判を通して,羯南の名は一躍高まる。…

【政教社】より

…創立時の同人は,志賀重昂,棚橋一郎,井上円了,杉江輔人,菊池熊太郎,三宅雪嶺,辰巳小次郎,松下丈吉,島地黙雷,今外三郎,加賀秀一,杉浦重剛,宮崎道正の13名で,おもに東京大学,札幌農学校出身の新進知識青年であった。機関誌《日本人》(一時,後継誌《亜細亜》)を発行し,幅広い国粋主義を主張し,徳富蘇峰主宰の《国民之友》とともに明治中期の思想界を二分した。一方,高島炭坑坑夫虐待事件(1888)で坑夫救済のキャンペーンを展開し,また大隈重信外相による条約改正交渉に強く反対し,日清戦争に際して対外硬派の主力となって開戦の世論喚起に努めるなど,終始対外的には国権主義の姿勢を示しつづけた。…

【日本及日本人】より

…1907年雑誌《日本人》と新聞《日本》の伝統を継受するかたちで政教社の発行した雑誌。月2回刊。…

【ホフマン】より

…ドイツのビュルツブルク生れのオランダ人で,初期の日本学者。1830年アムステルダムでP.F.vonシーボルトに会ってその助手となり,のちライデン大学教授として日本学の講座を担当した。…

※「日本」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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