日本歴史地名大系 「佐貫庄」の解説
佐貫庄
さぬきのしよう
現在の館林市・邑楽郡・太田市にあった庄園。佐貫の地名は弘長三年(一二六三)二月一〇日の恵信尼書状(西本願寺文書)に、親鸞三部経読経開始の場所として「むさしのくにやらん、かんつけのくにやらん、さぬきと申ところ」と記すのが早い例である。永仁元年(一二九三)将軍久明親王は「佐貫庄内板倉郷」を伊豆山権現(現静岡県熱海市)に寄進する(同年一〇月六日「二階堂行貞奉書」伊豆山神社文書)。秀郷流藤原氏の佐貫氏が現地で支配していたであろうが、鎌倉末期には所領分割売買が行われている。永仁三年一二月二一日の関東下知状(長楽寺文書)は「佐貫庄上中森郷」の田畠在家、元応二年(一三二〇)二月二三日の関東下知状(同文書)は佐貫庄「梅原郷」の田畠の売買を示している。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報