群馬県南東部の市。1954年に館林町と郷谷,大島,赤羽,六郷,渡瀬(わたらせ),三野谷,多々良の7村が合体,市制。人口7万8608(2010)。利根川と渡良瀬川にはさまれた洪積台地と低地からなる。16世紀半ば,赤井照光かその孫照康のとき台地の先端に館林城が築城され,その後榊原,徳川,松平氏らが居城し,その城下町として繁栄した。東武鉄道伊勢崎線,小泉線,佐野線の交点で,東北自動車道館林インターチェンジがある。基幹産業は工業で,伝統的な製粉,しょうゆ醸造,繊維,縫製などの工場が立地するほか,郊外には清涼飲料,金属,機械,電気機器などの近代的工場が設立されている。市街地周辺は稲作と小麦,ビール麦の二毛作やナス,キュウリなどの施設園芸が盛んである。館林城旧本丸跡のつつじヶ岡県立公園,分福茶釜で知られる茂林寺などの行楽地がある。茂林寺沼湿原は湿地植物群落の原形がよく保たれている。
執筆者:有末 武夫
この付近は中世佐貫荘に属し,《鎌倉大草紙》《廻国雑記》などに館林の名が見える。町の形成は赤井氏の築城に始まる。戦国末期には長尾顕長が城主のあと,後北条氏,上杉氏らの攻防があった。1590年(天正18)徳川家康の関東入国に伴い,榊原康政が10万石で入封,利根川の築堤など領内の開発とともに城郭,城下町を拡大整備した。その後,徳川綱吉が城主となり,城の大改修が行われたが,将軍になったあと1683年(天和3)廃城破却となり,1707年(宝永4)松平清武の入封以後再築された。城は尾曳(おびき)城といい,城沼を利用して濠とし本丸以下7郭(約43ha)。北西部に大名小路以下の侍屋敷,片町を境に西側に町人町が町割りされた。その基本は戦国期からであるが,榊原氏の入封後,地侍の青山・小寺両氏を町の検断とし,新たに町年寄7人をおいて町政に当たらせた。町は連雀町,鍛冶町,木挽町など18町(のち20町)。1674年(延宝2)の町絵図によると,戸数806軒,人口3739人,1869年(明治2)には1063軒,4432人。また近世以降,日光脇街道の宿駅でもあった。なお城主は延べ7氏が交代,幕末は秋元氏6万石が居城した。付近の農村はつむぎ織を余業としていたが,のち清吾織という袴地を生産,ついで幕末以後中野絣の名で木綿織が知られ,1910年代その市場として活況を呈した。
執筆者:山田 武麿
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
群馬県南東部にある市。1954年(昭和29)邑楽(おうら)郡館林町と郷谷(さとや)、大島(おおしま)、赤羽(あかばね)、六郷(ろくごう)、三野谷(みのや)、多々良(たたら)、渡瀬(わたらせ)村の1町7村が合併して市制施行。利根(とね)川と渡良瀬(わたらせ)川に挟まれた沖積低湿地と洪積台地からなり、低湿地には城沼(じょうぬま)、多々良沼、近藤沼(こんどうぬま)などの小湖沼群がある。市街地は台地上にあって、市役所が標高20メートルの位置にある。室町末期の赤井氏築城に始まる城下町で、江戸時代には館林藩が置かれ、発展した。5代将軍となった徳川綱吉(つなよし)もここの城主だった。幕末には秋元(あきもと)氏6万石の城下で、現在、侍(さむらい)屋敷などにそのおもかげを残している。商工業が盛んで、おもな工業は製粉、製麺(めん)、しょうゆ醸造、繊維のほか、近年では電気機器、輸送機器、金属製品が急増している。JR線はないが、東武鉄道が伊勢崎(いせさき)市、桐生(きりゅう)市、栃木県佐野(さの)市などに通じ、東京にも約1時間で直通する。また、国道122号、354号が通じ、1972年東北自動車道の館林インターチェンジが設けられた。周辺は米作とビニルハウスでのキュウリ、トマト、ナスなど野菜の促成栽培が特色。酪農も行われ、生乳の生産が多い。城沼の南岸に3000株のツツジをもつ県立つつじが岡公園(国指定名勝躑躅ヶ岡(つつじがおか)を含む)と、南部に分福茶釜(ぶんぶくちゃがま)で知られる茂林寺(もりんじ)と野鳥の森自然公園がある。田山花袋(たやまかたい)の出身地でもある。面積60.97平方キロメートル、人口7万5309(2020)。
[村木定雄]
『『館林市誌』全2巻(1966、1969・館林市)』▽『『市制施行50周年館林市のあゆみ』(2004・館林市)』
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